第1話

文字数 12,653文字

   一

 エルヴィンの再三にわたるお強請りに根負けした母が、彼をヴァカンスに連れて来てくれたときには、もう九月の半ばになっていた。
 友達は皆、夏の盛りの七月や八月にヴァカンスに出掛けていて、近頃は彼らに会うたびに自慢話を聞かされていた。エルヴィンは、それらにうんざりしていたし、羨ましかったし、何となく引け目すら感じていた。だから、母がようやく重い腰を上げる気になったとき、エルヴィンは心からほっとしたし、嬉しかった。
 行先は、住んでいる都ウィーンから西に三百キロほど西にあるザルツカンマーグート地方の小さな村にある湖畔のホテルで、以前にも二度訪れたことがあるところだった。できればこれまでに行ったことのないところに行きたかったが、我儘を言ってヴァカンスが中止されてはかなわないので、そこは我慢することにした。
 エルヴィン親子がこれから一週間を過ごす部屋はバルコニー付きの広いツインルームで、バルコニーに出れば目前に湖が広がっている。湖の対岸にも小さな村があって、その彼方には青い山々が連なっている。
 エルヴィンは、バルコニーに置いてある木製の椅子に腰かけて、湖を眺めた。夏の盛りであれば、多くの人がボート遊びや泳ぎを楽しむ様子が見られたに違いないが、雲ひとつない晴天の暖かな午後とはいえ、ヴァカンスの季節が終わり、風が吹けば肌に冷ややかさを感じる今日、そうした水遊びをする人は皆無で、湖畔の村々を結んで客を運ぶモーターボートが行き来するのが時折見えるだけだった。
 エルヴィンが退屈を覚え始めたころ、SUP(サップ)遊びをする同年代の男子と女子が湖面をゆっくりと横切って行く姿が視界に入った。専用のサーフボードの上に立ち、パドルで漕ぎながら水上を移動していく様子は、見るからに気持ち良さそうで、自分もやってみたいという思いが湧いてくる。
 ホテルから少し離れた村の中心部には教会と港があって、そのすぐ傍にボードの乗り方などを教えてくれるレンタル店がある。そこへ行って教われば自分もSUPを楽しめるようになるに違いないのだが、ベッドに横になって本を開いたまま動こうとしない母に頼んでも、連れて行って貰えそうにはない。
 日頃、母が毎日朝早くから夜遅くまで仕事をしていて疲れ切っていることは、エルヴィンも解っている。稀に取った休暇であれば、何もせずに心身を休めたいであろうことも、十二歳にもなれば解っている。しかし、退屈だった。
 エルヴィンは椅子から立ち上がった。このまま湖を眺めてばかりいてもつまらない。
「外に行ってくる」
 母に向かってそう言い残すと、ショルダーバックを掴んで、エルヴィンは部屋を出た。
 初めての土地ではないし、小さな村だから迷子になる心配もない。だから、母は「気を付けてね」と言っただけだった。
 まず、ホテルの庭園前の道路を横断し、湖の岸辺に行ってみた。そこにはホテルのプライベート・デッキが設けられていて、デッキの端の手摺付きの階段を下りれば湖に浸かって泳ぐことができるし、泳ぎを満喫してデッキに上がってくれば日光浴を楽しめるようにビーチ・ベンチも置かれている。しかし、誰もいない。ホテルに宿泊しているのがエルヴィン親子だけということはない筈なのだが。
 エルヴィンが湖の沖合に視線を移すと、先ほどバルコニーにから見たSUP遊びの子たちが彼方に小さく見えた。もちろん、声を掛ける気はない。声を掛けて届く距離でもない。
 エルヴィンは、踵を返して、再び道路を横断し、ホテルの横を山の方に向かって延びている道を歩き始めた。それほどの距離を行かないうちに建物の存在が無くなり、山裾の牧草地が広がる。さらにしばらく行くと、進んで来た道から細い小径が枝分かれしていて、エルヴィンはそちらに足を向けた。
 この舗装されていない小石だらけの小径は山の中腹に向かって延びていて、行く着く先には森に囲まれた小さな湖があることを、エルヴィンは前回来た時に発見していた。地元の人しかその存在を知らないと思われるその小さな湖に人影は皆無で、周囲の森の薄暗さと、上空から湖面に差し込む光の柱との明るさの対比、そして照らされた湖面が発する鮮やかな碧乳色が描き出す美しい光景は、幻想的であり、神秘的だった。
 今日も、そこに行けば、きっとその美しい光景を目にすることができるに違いない。登り坂を進むエルヴィンの心は弾み、足が速くなった。
 小径の両側に木々の壁が迫り、足下が薄暗くなってくると、目的地は近い。小径は、最後に左に大きく曲がり、曲がった途端にそこが終着地で、いきなり視界が開け、その光景が現れる。
 森の闇と、陽光を受けて翡翠のように碧乳色に輝く湖。その美しさを前に、エルヴィンの足が無意識のうちに止まり、数舜後に再びゆっくりと歩き出した。岸辺には横長の大きな岩が一つ坐していて、その半身は水に洗われている。岩の高さはエルヴィンの身長の二倍近くあり、長さは四倍近くある。エルヴィンは、その大岩のすぐ横の水際まで進み、足を止め、立ち尽くした。
 小さな湖ではあるが、それでも対岸までは数百メートルはあるだろう。時折、周囲の木々の茂みの中にいる鳥の鳴き声が聞こえるだけで、辺りの空間はとても静かだ。その静寂の中、陽光の強弱により、湖の碧乳色が微妙に変化する。
 自分だけの秘密の場所。宝物のような場所。とっておきの場所。
う っとりとした気分で美しい光景に見とれていたら、エルヴィンの耳に水を規則的に掻き分ける音が微かに聞こえてきた。音は、湖の西側から聞こえてくる。その方角には木々が湖面に影を落としていて暗い部分があって、様子がよく見えない。エルヴィンはそこに目を凝らした。
 五度ばかり水を掻き分ける音が聞こえてから、その人物は闇の部分から光の中に姿を現した。
 てっきり、ここには自分しかいないと思い込んでいたエルヴィンは、湖で誰かが泳いでいると知って驚いた。さらに、泳いでいるのが女性だと判ったときは、もっと驚いた。
 女性は、首から上を水から出した状態で、手でゆっくりと水を掻きながら、こちらに近づいて来る。顎の小さな卵形の顔は、白磁よりも白く、絹より滑らかそうで、水を掻くたびに、金色の短い髪が揺れている。
 そして、エルヴィンから十メートル程の位置まで来ると、前に進むのを止め、立ち泳ぎをしながら、
「こんにちは」
と声を掛けてきた。
 二十歳くらいに見える女性は、エルヴィンに優しい微笑みを向けている。その瞳は澄んだ碧色をしていて、その美しい瞳にエルヴィンは魅入られた。この湖の精霊かもしれないとさえ思った。
「……こんにちは」
 エルヴィンは、口ごもり気味に挨拶を返した。
「私は、エルフリーデ。あなたは?」
 女性が訊いてきた。
 エルヴィンが名乗ると、格好良い名前ねと、目を細めて褒めてくれた。長い睫毛が湖水に濡れている。
「エルヴィンも泳ぎに来たの?」
 そう訊かれて、エルヴィンは首を横に振った。
「湖を見にきた」
「あなたひとりで?」
 エルヴィンは、その通りと頷く。
「そう。素敵な湖ですものね」
 エルヴィンは、再び首を縦に振って賛意を示した。気後れして、言葉が出てこない。
「泳ぐのにも気持ちの良い湖よ。水がとても綺麗なの」
 エルフリーデはそう言うと、右手を上げ、湖の水を掌から滝のように流し落として見せた。零れる水が光を反射してキラキラと輝く。
「ね、綺麗でしょう」
 エルフリーデは大輪の花のような笑顔を見せると、泳ぎを再開した。彼女がひと掻きするたび、湖面が盛り上がっては周囲に波紋を広げていく。 彼女は、大岩の向こう側に行こうとしていた。
 エルヴィンは、その様子を目で追う。
 エルフリーデは、湖底に足が着くところまで来ると、泳ぐのを止めて歩いて岸に上がり始めた。
 彼女が一歩足を前に出すたびに、首から下の姿が現れてくる。両肩から胸の双丘、腹部へと透明な水の膜が流れ落ちる。それはまるで透明な薄いベールを脱ぎ落していくようで、次第に現れてくるエルフリーデの白い肢体が水着を着けていないことに気付いたエルヴィンは慌てて横を向いた。エルヴィンの顔は、耳の裏まで真赤に染まっている。
 そんなエルヴィンに構うことなく、エルフリーデは岸に上がり、大岩の向こう側に姿を消した。そこで濡れた身体を拭き、服を着るのだろう。
 エルヴィンは、唐突に湖に背を向け、走り出した。赧い顔のまま、もと来た小径を走って戻る。見てはいけないものを見てしまった気がして、居た堪れなくて、走った。
 エルヴィンは、そのまま真っ直ぐにホテルに戻った。息を切らして部屋に戻ってきたエルヴィンを見て、母親は怪訝そうな表情で口を開きかけたが、結局何も言わなかった。

   二

 翌朝、エルヴィンが起きたのは九時近かった。都にいる時も、どこにいる時も、七時頃に目覚め、顔を洗い、着替えをした後に、頃合いを見計らってまだ寝ている母親を起こすというのがエルヴィンの朝のお決まりなのだが、その朝は逆に母親に起こされてしまった。
 昨夜はベッドに入った後も、なかなか寝付けなかったからだ。目を閉じると、昼間の湖での出来事が頭の中に蘇った。
 意外にも、エルフリーデの裸身は曇りガラスの向こう側にある物のように曖昧でぼやけており、一時的に像を結んだとしてもすぐに消えた。それよりも、エルフリーデの美しい顔、優しい微笑み、それらを一層印象付けている碧色の澄んだ瞳が、エルヴィンを眠らせなかった。瞼を閉じると浮かび上がり、打ち払おうとどんなに努力しても消えなかった。
「どうしたの? 体調が悪いの?」
 朝食のとき、こころ此処にあらずといった風のエルヴィンを見て母親が気遣ったが、エルヴィンは黙って首を横に振るだけだった。
 今日も森の中の湖に行こうかどうか、エルヴィンは迷った。エルフリーデにもう一度会いたいという気持ちもあったが、一方で見てはいけないものを見てしまったような罪悪感と恥ずかしさがあった。エルヴィンは一日中迷い続け、結局その日は森の湖には行かず、ホテルの中で退屈を持て余しながら一日を過ごした。
 その次の日の昼食後、部屋のバルコニーに出て、前面に広がる湖を眺めると、もはや湖で遊ぶ者は誰もいなかった。一昨日、そして昨日も見たSUP遊びをする男の子や女の子さえ見えない。
 部屋を出て、湖岸にあるホテルのプライベート・デッキに行ってみると、ひんやりとした風が体に当たり、涼しいというよりも寒いと言った感じだった。これでは湖で遊ぼうとする者などいる筈もない。
 これでは流石にエルフリーデも今日は泳いでいないだろう、とエルヴィンは思った。そして、泳げないとなれば、彼女はあの森の中の湖にはもう来ないかもしれない、とも思った。そう思った途端に、心の中の天秤が大きく片方に傾いた。森の湖に行きたい、エルフリーデに会いたいという気持ちを抑えられなくなった。
 エルヴィンは、湖の背を向け、山に向かった。山裾の牧草地を抜ける道を駆け、枝分かれした小径に入って山の中腹へと走る。
 ようやく森の中の湖に着いたエルヴィンは、一昨日と同じく、岸辺の大岩の横に立って湖を見渡した。木々に囲まれているために風はほとんど無く、湖面も波立たずに落ち着いている。エルヴィンは、静寂に包まれた空間で、碧乳色の湖面をじっと見据え、耳をそばだてた。
 しばらくの時間そうしていたが、エルヴィンの望みに反して、一昨日のように水を掻き分ける音は聞こえては来ず、湖からエルフリーデが現れることもなかった。
エルヴィンは、ついにその場に座り込み、膝を抱えた。それでも、湖からは目を逸らさなかった。
 どのくらいの時間そうしていたかは分からない。エルヴィンは、背後に、砂利交じりの砂を踏む足音を聞き、人の気配を感じた。はっとして振り向くと、そこにエルフリーデがいた。
 優しく微笑んでいる。一昨日と同じように。
 もちろん、服を着ている。膝上丈のチュニックの腰をベルトで絞り、その裾から伸びる細くて形の良い脚にはレギンスが張り付いていて、足元にはショートブーツを履いている。そのすべてが白一色だった。
「こんにちは、エルヴィン」 
 エルフリーデが微笑みを保ったままエルヴィンに声を掛けてきた。
エルヴィンの顔に自然と笑みが点る。自分の名前を憶えていてくれたことが嬉しかった。
「こんにちは……エルフリーデ」
 エルヴィンも、彼女の名前を口にして、挨拶を返した。
「私の名前を覚えていてくれてありがとう」
 エルフリーデは、そう言いながら歩み寄って来た。
 近くで見ると、エルフリーデの服装はどれも光沢のある特殊な合成繊維で出来ているらしく、ファッション誌から抜け出てきたかのようだった。
「変わっているでしょう、この服装。特別注文で作られたものなのよ」
 エルヴィンの関心を読み取り、彼の隣に座って同様に膝を抱えながら、エルフリーデが言う。
 エルヴィンは成程と思う。そして、エルフリーデは裕福な家のお嬢様なのかもしれないとも思った。
「白色が好きなの?」
 エルヴィンの率直な質問に、エルフリーデは軽く笑って、
「ええ、そうなの。でも真っ白すぎて変かな?」
と、澄んだ碧色の瞳を向けて問い返してきた。
 視線が合い、エルヴィンの心臓が跳ねる。
「……そんなことない。似合ってると思う」
 照れ隠しに下を向きながら言うエルヴィン。顔が少し赤い。
 エルフリーデは、そんなエルヴィンを揶揄ったりせず、
「ありがとう」
と素直に礼を返してくれた。さらに、白のスニーカーに濃紺のジーンズ、青と柿色のチェック柄の長袖フランネルシャツというエルヴィンの姿について、上品で格好良いと褒めてくれた。
「エルヴィンは幾つなの?」
「十二歳だよ。十一月になれば十三歳になるけど」
 エルヴィンが答える。
「二二〇二年生まれ……一つ年下なのね……」
エルフリーデは暗算して小さく呟いた。
 それを辛うじて聞き取ったエルヴィンが「えっ」と思わず声を上げると、続く言葉を封じるかのように、
「一昨日は驚かせてしまってごめんなさい」
と頭を下げた。今になって恥ずかしくなったのか、頬を赤く染めている。
 エルヴィンは何と答えればよいのか分からず、赤らめた顔を横に振って、気にしていない旨を表した。
 恥ずかしさの沈黙が下りかけたが、それを押し返すように、意図的に明るい声でエルフリーデが訊いてきた。
「ねえ、エルヴィン。エルヴィンは、家族でこの村に来ているの?」
 エルヴィンはまだ年齢の件が心の隅に引っ掛かってはいたが、とりあえずエルフリーデの質問に答えることにし、母親と一緒に遅いヴァカンスに来ていることを話した。
「普段はどこに住んでいるの?」
 エルフリーデが続けて訊いてきた。
「ウィーンの第六区」
 エルヴィンが胸を張って答える。伝統ある都市に生まれ育ったことに誇りを持っているのだ。
「ウィーンは魅力的な都市なんでしょうね」
 口振りからして、エルフリーデはウィーンに馴染みがないようだった。
 エルヴィンはウィーン生まれのオーストリア人だが、エルフリーデはオーストリア人ではないのかもしれない。ドイツ人だろうかとエルヴィンが考えていると、
「第六区というとリンクの内側かしら? 都心に住んでいるのね」
とエルフリーデが言う。区番が一桁であることからそう推理したのかもしれないが、それは外れていた。中世の市壁を取り壊して造成されたリンクと呼ばれる環状大通りは、ウィーンの第一区を囲んでいるにすぎない。
「第六区はリンクの外側だよ」
 エルヴィンは指摘した。
「あら、そうなの」
「でも、都心には違いないよ。第六区には西駅があるし、ウィーンで一番賑やかなマリアヒルファーっていう大通りがあるんだ」
「素敵な場所ね」
 エルフリーデはにっこりと笑った。
「エルフリーデは?」
 今度は、エルヴィンが問い返す。
「エルフリーデはどこに住んでいるの?」
「シュツットガルトよ」
 南ドイツにあるヨーロッパを代表する先端科学技術都市だ。エルヴィンも、その名前は知っている。 
「そこで働いているの?」
「そう。シュツットガルトにある政府の研究機関の研究員なの。これでも一応は科学者なのよ」
「へえ……」
 エルヴィンは曖昧な相槌を打った。
 エルヴィンの母親は会計士で、普段はオフィスにしている自宅の一室に籠り、大きなディスプレイ・モニターに表示された数字と格闘している。
 父親は小さな企業の経営者らしいが、エルヴィンが物心つく前に両親は離婚したため父親とは会う機会がなく、どこでどのような暮らしをしているのか知らないし、その働きぶりも知らない。
 だから、研究員だの科学者と言われても、同種の人間が周りにいないエルヴィンには具体的なイメージが湧かなかった。
「科学者には見えないかしら?」
 くだけた表情で訊いて来るエルフリーデに、エルヴィンは首を横に振った。
「よく分からない。今まで科学者に会ったことがないから」
「なるほど。科学者なんて世の中にそう多くいないものね」
 エルフリーデは、エルヴィンの生真面目で率直な答えを笑ったりせず、むしろ感心したようだった。
「科学者なんて、ネットワーク・ドラマの中でしか見たことがないよ」
 エルヴィンはそう言葉を継いだ後、少し含羞んでさらに付け加えた。
「でも、エルフリーデのファッションは科学者っぽいと思う」
 その言葉を聞いて、「確かにそうかも」とエルフリーデは愉しそうに笑った。
 釣られてエルヴィンも笑う。
 しばらく二人して笑い、エルヴィンはエルフリーデを親しく感じた。
 一段落して、エルヴィンが再び口を開いた。
「エルフリーデも、ヴァカンスでここに来ているの?」
「まあ、そんなところね。私はエルヴィンと違って、ひとりでヴァカンス中といったところかな」
「ひとりで? 家族は?」
「両親は仕事に熱中しているの。両親も、私が所属している研究機関の研究員なのだけれど、ふたりとも一年三百六十五日のうち一日たりとも休まないのよ。仕事中毒というやつね」
「友達は? 友達とは一緒に来なかったの?」
「私には友達がいないの。両親の仕事の関係で、大学に進学するまで、周囲に自分と同じくらいの年齢の人がいない場所で育ったから――」
 エルフリーデは屈託なく言うが、声に少し寂しさが混じっている。
「だから、ひとり気ままに休暇を過ごしに来ているというわけ」
 何気なく訊いたものの、悪いことを訊いてしまったと感じたエルヴィンは、話題を変えることにした。
「どのホテルに泊まっているの?」
 エルヴィンとしては差し障りのない質問をしたつもりだったのだが、エルフリーデは一瞬上目遣いになった。そして、
「近くの森の中の小さなコテージ」
と適当に答えているような感じの返事がきた。
 エルヴィンは、この辺りに該当するコテージがあるかどうか頭を巡らせたが、それらしい所は思い当たらなかった。さらに詳しいことを尋ねようとしたが、その前にエルフリーデが、
「エルヴィンは友達が大勢いるの?」
と訊いてきた。
「大勢というほどでもないよ」
 エルヴィンは、頭の中で友達の顔を思い浮かべながら数をかぞえ、
「五、六人ってところ」
「それだけいれば十分よ。ちょっと羨ましいな」
 エルフリーデはそう言った後で、ふと思いついて目を輝かせ、
「そうだ、その中に私も入れてくれるかしら?」
「え?」
 エルフリーデの思いもよらない頼みに、エルヴィンはどぎまぎしながらも、
「もちろん――もちろん、良いよ」
と答える。
「ありがとう。嬉しいわ」
 エルフリーデはエルヴィンの両手を取って、大きな笑顔を見せた。
 エルヴィンは顔を真っ赤にしながら、
「ぼ、僕も嬉しい」
と辛うじて返す。
 それから、エルヴィンは、エルフリーデと色々な話をした。
何でもない話。他愛もない話。
 エルヴィンは楽しかったし、エルフリーデも楽しそうだった。
 話をしながら時折エルフリーデが右手で掻き上げる金色の髪が、陽光に輝いて綺麗だった。
 やがて、湖を囲む森の木々の下に陽が沈もうとする時刻になった。
「もうそろそろホテルに戻ったほうが良いわ」
エルフリーデはそう言って立ち上がった。帰り道が暗くならないうちに、麓の湖畔に戻ったほうが良いというエルヴィンへの気遣いだった。
 エルヴィンはまだエルフリーデと話をしていたかったが、仕方なく立ち上がった。
 並んで立つと、エルヴィンの身長はエルフリーデの肩あたりまでしかない。
「明日もここに来るよね?」
 エルヴィンは、エルフリーデの顔を見上げ、その碧色の瞳を見つめた。
 エルフリーデは目を伏せた。笑顔も消えている。
「ごめんなさい。今日で私の休暇は終わりなの。だから、明日はここには来れないわ」
 エルヴィンは言葉を失った。
 明日も、明後日も、この場所に来ればエルフリーデに会えると期待していたのだ。
 俯いたエルヴィンの頭を、エルフリーデが優しく撫でる。
 静寂の時間が流れていく。
「さあ、もう行かないと。暗くなってしまうわ」
 エルフリーデが促す。
 エルヴィンは顔を上げて、
「通信アドレスを教えて」
と頼んだ。個人の通信アドレスと個人暗証番号を教えてもらえば、通信ネットワークを通して、いつでもどこにいても連絡が取れる。
 しかし、エルフリーデは心から申し訳なさそうに、
「ごめんね。教えられないの」
「どうして?」
 エルヴィンが問う。
「ごめんなさい」
 エルフリーデは理由も言わず、ただ謝るだけだった。
 エルヴィンには理解ができなかった。もちろん、嫌われている筈はない。自分が子どもだからと相手にされていないということでもないと思う。それなのに何故?
エルヴィンは、「どうして?」ともう一度問おうとしたが、エルフリーデの心苦し気な表情を見ると、その問いを口にすることができなかった。
「ごめんなさい」
 エルフリーデはさらに重ねて謝った。そして、再び俯いてしまったエルヴィンの背中を「さあ、行きましょう」と押した。エルヴィンの足が自然と前に出て、二人は湖を後にして歩き始めた。
 二人並んで小径をゆっくりと麓へと歩む。エルフリーデの右手は、エルヴィンの背中にずっと添えられている。
 小径が舗装された道と合流する地点まで来たとき、エルフリーデは右手をエルヴィンの背中から離した。
 エルヴィンに正対し、告げる。
「ここでお別れしましょう」
 エルヴィンは俯いたままで答えない。
 エルフリーデは、そんなエルヴィンをしばらく愛おし気に見つめていたが、やがて再び別れを告げた。
「私…行くわね」
 エルフィリーデの立ち去ろうとする気配に、エルヴィンが堪らずに顔を上げる。
「来年、またここに来る?」
 エルフリーデは首を横に振った。
「再来年は?」
 再び、エルフリーデは首を横に振る。
「ここに来ることは、当分ないと思う」
 エルフリーデの言葉に、エルヴィンの心は締め付けられる。
「それじゃ、もう会えないの? 二度と会うことはできないの?」
 エルヴィンは、叫ぶように訊いた。
 縋りつくような目を向けてくるエルヴィンに対して、エルフリーデはしばらく逡巡していたが、やがて意を決した表情で、きっぱりと言った。
「いいえ、きっとまた会えるわ」
 それはこの場限りの誤魔化しの言葉には聞こえなかった。まるで予言者の言葉のようだった。
「本当?」
 エルヴィンの顔に喜色が浮かぶ。
 エルフリーデは黙って頷く。
「それはいつ? いつ会えるの?」
 エルヴィンが勢い込んで訊く。
「そうね――エルヴィンが大人になったら」
「え? そんなに先なの?」
 エルフリーデの答えに、エルヴィンが戸惑う。エルフリーデの表情を窺ったが、やはり適当に答えをはぐらかしているという風ではない。エルフィリーデの碧色の瞳が、エルヴィンを真っ直ぐに見据えている。彼女は真摯に答えているとエルヴィンは感じた。
「六年くらい先?」
 エルヴィンが探るように訊く。六年後、エルヴィンは十八歳になる。法律上は大人になるとエルヴィンは知っている。
「もう少し先かな」
 エルフリーデは言う。しかし、意地悪をして焦らしている風ではない。
「十年くらい?」
 エルヴィンが再び訊くと、エルフリーデは今度は頷いた。
「そう、それくらい」
「そんなに先……」
 エルヴィンに失望が襲う
 落胆するエルヴィンを、エルフリーデは微笑みをもって見つめ、
「エルヴィンが大人になったら、私はエルヴィンの前に現れるわ。そのとき、私のことをまだ覚えていてくれていたら――今日のように、またお話ししましょう」
「覚えているよ! 絶対に覚えている! 覚えているに決まっている!」
 エルヴィンは力を込めて断言する。
「……約束よ」
 そう言うと、エルフリーデはエルヴィンを優しく抱きしめ、次いで膝を折って屈むと、彼の頬にキスをした。
 顔を赤らめているエルヴィンを、エルフリーデがそっと優しく送り出す。
ホテルへと向かう道を歩き出したエルヴィンは、もう一度エルフィリーデの顔を見たら泣いてしまいそうで、しばらく前だけを見て進んでいた。
 しかし、湧き上がる気持ちに抗しきれずに振り返ったとき、そこにはもうエルフリーデの姿はなかった。エルフリーデの姿は忽然と消えていた。

   三

 人間が時間旅行をすることができる装置、すなわちタイムマシンの存在が現実のものとなったと政府が発表したのは、二二二五年の十月のことだった。
 それは、多くの人々が想像していたような乗り物型もしくは箱型のものではなく、身体に装着する衣装型のもので、のちにタイムスーツと称されるようになった。
 公開された映像を見ると、世界で唯一無二のそれは、光沢のある特殊な合成繊維で出来た膝上丈のチュニックと足に張り付くようなレギンス、腰を絞るベルトと、ショートブーツ。そのすべてが白一色というもの。
 政府の発表によると、タイムスーツは、半世紀も前から、政府のヨーロッパにある某研究機関で極秘裏に研究・開発が行われていたらしい。
 タイムスーツの存在が公にされた後も、研究機関の名称や、研究・開発に携わった研究者たちの名前は秘められたままになっている。これは、タイムスーツを悪用しようとする不心得者から、技術と研究者を守るための措置とのことだ。
 しかし、エルヴィンは知っている。エルフリーデやその両親がタイムスーツの研究・開発に携わっていたことを。そして、エルフリーデと出逢ったとき、彼女は最終点検と称して正式な許可を得ないままにタイムスーツを着装し、二二二五年から二二一五年へと、三日続けて十年間の時空を移動していたということを。
 エルフリーデからそれらのことを告白されたとき、エルヴィンがずっと胸に抱いていた数々の疑問がようやく氷解した。
 白一色の特別注文の服装のこと。
 どう見てもかなり年齢が上に見えたのに、「一歳下」と呟いたこと。
 大学に進学するまで、周囲に自分と同じくらいの年齢の人がいない場所で育ったという理由(タイムスーツの研究者とその家族は、外の世界から隔離されていたという)。
 「森の中の小さなコテージ」に泊まっていると適当に答えていた理由(十年後の世界の自宅に毎日戻っていたという)。
 懇願しても通信アドレスを教えてくれなかった理由(十年前のエルフリーデは――つまり、当時十三歳のエルフリーデは――エルヴィンのことを知らないわけだから、通信アドレスを教えて連絡を取られては困るというものだ)。
 「きっとまた会える」と予言することができた理由(研究機関から政府のデータベースに入り込めば(不正な行為のような気がするが)、ウィーン第六区に住むエルヴィンと言う名前の男の詳細な住所なんて簡単に入手できるらしい)。
 そして、エルフリーデが生まれたままの姿で泳いでいた理由(そもそも泳ぐ予定はしていなかった上に、タイムスーツの内側に存在する物しか時空を超えることができないため、水着その他の手荷物は持って来ていなかったらしい)。
 エルヴィンは、これらのことを、エルフリーデと再会してから数日のうちに知った。
 エルヴィンがエルフリーデと再会したのは、タイムスーツの存在が公表された二か月後の二二二五年十二月のことだ。ふたりが出会ったのは二二一五年の八月だから、別れの際のエルフリーデの言葉通り、ちょうど十年後――正確には十年と四か月後――に再会したことになる。エルヴィンは二十三歳になっていた。
 今も瞼を閉じれば、その日の光景が浮かぶ。
 ウィーンの自宅に突然訪ねてきた彼女を一目見て、エルヴィンはそれがエルフリーデだと解った。何故なら十年前と容姿が全く変わってなかったから。
 もちろん、白一色の服装ではなく、上品で落ち着いた色合いの冬の装いだったが、そして金色の髪が少し伸びていたが、ホームモニターに映っている女性がエルフリーデであると認識することについて、それらは何ら障害にならなかった。
 エルフリーデの姿を認めたエルヴィンは、自宅の玄関から飛び出し、エレベータを呼ぶボタンを何度も繰り返して押し、下降するエレベータの中でも落ち着きなく動き回り、その扉が開くと同時にグランド・フロアのロビーに立っているエルフリーデに向かって走り出した。そのままの勢いで、エルフリーデを強く抱き締める。
 エルフリーデも、エルヴィンの背に腕を回した。
 ようやく落ち着いて少し身体を離すと、改めて互いに見つめ合う。
「こんにちは」
 エルフリーデが微笑んた。エルヴィンを見つめる彼女の透き通った碧色の瞳は、今やエルヴィンの灰色の瞳とほぼ同じ高さにあった。
「大きくなったわね、エルヴィン」
 エルフリーデは、そう言って笑った。
 十年前にはあどけなさを残していた少年が、今では逞しさと優しさを併せ持つ好青年になっている。
「あれから十年だよ。大きくもなるよ――もう二十三歳だからね」
 エルヴィンは笑ったが、その目には涙が浮かんでいる。
「私のことを覚えていてくれていたのね」
 エルフリーデの瞳も潤んでいる。
「もしかすると忘れられているんじゃないかと心配だったの」
「忘れるわけがないよ。ずっと会いたいと思っていた」
 エルヴィンは力を込めて言った。
「ありがとう。嬉しいわ」
「でも、どうやってここが――それに、エルフリーデは十年経っても全く変わらない……」
「そのことは後でゆっくり話すわ……」
 エルフリーデはそう言うと、エルヴィンの胸に額をつけた。エルフリーデの髪の香りがエルヴィンの鼻をくすぐる。エルヴィンは、もう一度エルフリーデを、今度は優しく抱きしめた。
 この瞬間から、ふたりで一つの未来が始まった。

(了)
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