第1話

文字数 1,539文字

アナグマを見たことがある。
しかも、東京23区内で。文京区で。

当時の職場は、東京メトロの茗荷谷駅が最寄りだった。
そのころ喫煙者だった私は、仕事の始業前・休憩中・夕方の仕事中こっそり・退勤後に、職場の喫煙所でタバコを吸うのが日課だった。

職場の喫煙所は、建物1階の食堂の裏(屋外)にあった。
食堂を裏口から出て、職場をぐるりと囲う塀を前に、狭い思いをしてタバコを吸う。
暖かな春の日差しが決して届かない場所――喫煙所は、世間の喫煙者に対する思いが結集したような場所だった。

その日、喫煙所には私しかいなかった。
歯磨き粉のようにスースーするメンソールタバコに火をつけ、煙を吐き出す。
すると、塀の上にそれがいた。

塀の上を四本足で歩くそれ。
最初は、猫ちゃんかと思った。
が、猫ちゃんにしてはサイズが大きい。
それに、何だか鼻がブタのようだった。ブタっ鼻。ぱな。

見たことのないそれは、新種の動物かと思った。本気で。
いやいや、こんな都会で新種の動物を見ることなんてない――タヌキかブタかイノシシのどれかだろう。

塀の上のそれは動かない。
火のついたタバコは灰になり、指先から地面へと落ちていく。
急に塀からおりてきて、走って襲ってきたらどうしようと不安になってくる。

愛らしさは全くなかった。
カワイイ部分を強いて挙げるなら、猫よりも少しばかり長いひょろんとした尾っぽ、くらい。
キモチワルサと恐怖。東京の23区内でこんな野生動物に遭遇するとは。

やがて、それは塀づたいに一定のペースで歩き出した。
▷逃げる
 殴る
 仲間にする
焦りながらもタバコを吸いつつ、私の中に様々な想定が浮かんでは消えていく。

どうしたら、どうしたら――とビビッている私をよそに、それは、やがて塀の向こう側へと言ってしまった。
未確認生物の姿が消えたことは、ニコチン以上に私を安堵させてくれた。

ネットで特徴を検索してみると、おそらくアナグマだとわかった。
野生のアナグマ。
野生でないアナグマは、あまりいないと思う。たぶん。
アナグマは、狢(ムジナ)とも呼ばれるらしい。

しかし数日後、私はアナグマの真実を知ることになる。

★☆★
「ああ、それはハクビシンだよ。毎年、春になると出没しているから」
夕方の喫煙所、同じ建物内で働く警備員や用務員の方とタバコを吸っていたとき、そう言われた。

「ハクビシンはね、顔の真ん中に白い線が入っているのが特徴なんだ。佐藤さんが見たの、尾っぽが長かったんでしょ? そりゃあ、アナグマじゃなくて、ハクビシンだよハクビシン」

確かに、塀の上で見たそれは、尾っぽが長かった。
突然の遭遇ではっきりとは覚えていないが、言われてみれば、顔に白い線があったかもしれない。。。

ハクビシンは日本に生息する唯一のジャコウネコ科の動物で、都会でもけっこう目撃されている動物らしい。白鼻芯や白鼻心とも書くとのこと。
(これは、さらに後日にネットで調べた情報です)

三日前に私がここで見たのは、アナグマじゃあなかったのか。
珍しいものを見たと思っていたのに、なんだか少しがっかりしてしまった。

「いや、ムジナならいるじゃねえかよ。今ここに」
一人のおじいさん用務員が言った。

「え? アナグマ? どこですか!?」私はキョロキョロとあたりを窺った。

おじいさん用務員は、薄笑いを浮かべながら口を開く。
「だからぁ。アンタとかお前さんとか、仕事中なのにみんなタバコなんか吸っててぇ。
会社も違うのに、仕事サボってタバコ吸いに来てるなんて、『同じ穴のムジナ』だって!
そういうことよ! あっはっはっ!」

そのとき私が感じた清涼感は、タバコのメンソールのせいではないと思う。
自分の倍以上も年上の方に対して、モノローグでツッコミを入れる江戸川コナンのように、ただ愛想笑いを浮かべるしかなかった。
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