第1話

文字数 2,126文字

この空間で目を覚ましてから随分と長い間、
"子供時代のおれ"を今も追いかけ続けている。

*

前も後ろも先が見えない長い長い通路
薄暗く古びたような灰色のトンネルの中でおれは目を覚ました。

上下は見上げるほどの高さで、幅は二車線ほどだろうか…。
まるでいつか観たホラー映画の展開に似た状況に肌を粟立てつつ、
どちらに進めばここから出られるのかがわからずに
迷っているところに、それは現れた。

—おれだ。子供のころの。
それは概念的なことではなく、その子供は実際に存在していて、
今はもういない父と一緒に行ったヒーローショーで買ってもらい、
お気に入りで、ずっと着ていて洗えないじゃないと
母に怒られたあの赤いシャツも。
走りやすくて穴が開くまで履き潰したあの運動靴の履き心地も。
…知っている。

愕然として動けないままでいたおれと
見つめ合っていた"おれ"は、
突然後ろに振り返り駆け出した。

一瞬のことで声も出ず、おれは反射的にそちらの方へと同じように駆け出す。
どこなんだ。なんなんだ、これは!
トンネルは時折左右に通路があり、先を行く"おれ"は
突如としてその左の通路に曲がった。

追いかけ同じ通路に左に曲がると、
—それは職場だった。ドクン、と心臓が跳ねる。
足音。焦り。憔悴。時計の音。心音。汗。電話。
無力感。手の痺れ。風の音。耳鳴りが脳内に響き。
そこには誰もいないのに、—雷の如く轟く怒号。

勝手に手と息が震え、汗がじんわりと背中に浮き、
目の前がちかちかして思わず目を固くつぶると、
カタン、と音がした。

はっとして顔を上げると"おれ"と目が合う。
と、同時にまた駆け出した。

「待て!」
同じようにまた追いかける。"おれ"は次は廊下の右に曲がるが、
その先は行き止まりだ!

しめた。そう思って右に曲がると、
—通っていた大学の廊下だった。

は、と困惑に周りを見渡すが、そこは紛れもなく
おれが青春を過ごしたあの学校のままだ。

廊下を蹴る独特の音を響かせ、
"おれ"は前を振り返らずに走っている。
置いて行かれるとその背を追いかける。

追いかけ、追いかけ、なぜかあの子どもに追いつけず、
—しかし"おれ"が角を曲がるたびに景色は変わる。

初めてできた彼女と手を繋いで歩いた雪の降るイルミネーション。
部活に夢中になり汗を流した高校時代の教室。
友人たちと待ち合わせて土手から観に行った花火大会。
祖父母の住む、蛙と鈴虫の聲がする田んぼ道。
夕暮れの蝉時雨が降る生ぬるい風を纏いながら帰ったあの道路。
はじめて砂遊びで友だちと喧嘩した公園。
あたたかな桜が舞うなか母に抱えられて通った川沿い………

おれは走りながら泣いていた。
湧き上がる懐かしさと、愛しさと、後悔で。
もう、わかっていた。ここがどこなのか。
なぜおれがここで"おれ"を追いかけているのか。

もう前なんて滲んで見えなかった。
ぼやけてかろうじて見える赤いシャツを追いかけ、
そして——ついにもつれて転んでしまった。

嗚咽が漏れる。起き上がれない。もう、起き上がれない。
そのまま力なく涙を流していると、
あたたかい手がおれの手を握った。

ゆっくりと涙でぐしゃぐしゃの顔を上げると、
…ずっとずっと、ずっと会いたくても会えなかった顔が
そこに二つあった。

「…父さん。…母さん。」
二人は喋らず、おれを見て困ったようにただ微笑んでいる。
「だめだったんだ、おれ、もうがんばれなくて。どうしても、だめで。」
「苦しくて。辛くて。誰にも話せなくて、それで、……」
最後の日。そう、思い出した、あの最期の日。
酒を飲んで、もう楽になりたくて、ぜんぶから解放されたくて。
「………ごめん。」

「ごめん、ごめん、ごめんなさい。」
そうだ。成し遂げたいことはたくさんあった。
胸をはって、幸せに生きた先で二人に会いたかった。
愛をもって育ててくれた二人に『産んでくれてありがとう』と
言える自分になりたかった。

あんな場所捨てればよかった。
次こそはきっと自分を大切にできるのに。
やり直したい。もう一度、やり直せるのなら。

母が両手でおれの頬を包んで
父が頭を撫で首の所に目を伏せ、指を這わせた。

久しぶりに享受する温かさに目を細めていると、
ふいに後ろに引っ張られる気がした。
子供の"おれ"が、おれを引っ張っている。

ふいに父と母が白くぼやけていく。
おれは子供の"おれ"に引っ張られ、遠ざかっていくけれど。
二人は「大丈夫」とでも言うような顔をして寄り添い、
やがて見えなくなった。

おれは力なく子供のころの"おれ"に目を合わせ、
ああ、"おれ"が"おれ"を好きだったころの"おれ"だ。と思った。
もう一度、この"おれ"になりたい。

そう強く願ったとき、もう一人の"おれ"が
鮮やかに咲くひまわりのような笑顔で笑った。

*

白い天井。定期的に鳴る機械音。包帯の巻かれた体は動かない。
窓から覗く青空と飛行機雲。
どこからか赤ん坊の泣き声がして、響いた。
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