あしかになった兄

文字数 6,290文字

 僕はあしかが大嫌いだった。あの黒いゴムのような皮膚の質感がなんだかゾワゾワするし、白目のない宇宙人のような目も不気味だった。哺乳類なんだか魚類なんだかわからないフォルムも気持ちが悪い。
 とにかく嫌いすぎて、あしかに襲われる夢を何回も見た。一番怖かった夢は、氷山に立っていたところを何者かに突き落とされて海に真っ逆さま。海の中にはあしかがわらわらと住んでいて、腕から足から少しずつ食べられてしまうというものだ。はっと目が覚めたときには汗だくだった。横の布団で寝ていた兄は、僕の唸り声で目を覚ましたらしく、心配そうにこちらを見つめていた。
「祐介、怖い夢でもみたのか。」
 そう言って兄は、僕の頭を優しく撫でた。
 僕は兄が大好きだった。僕より九つ年上の二十二歳で、背が高かった。たぶん、百八十センチくらいあったと思う。目鼻立ちもはっきりしていて、文武両道。女の子に人気があったが、男友達も多かった。僕はそんな兄を尊敬し、目標にしていた。暇さえあれば兄の後ろをついて回り、兄さん、兄さんと言っていた。これはみんなには内緒だけれど、僕は兄さんが隣にいてくれないと眠れない。夜になかなか寝付けないときにも、兄さんに抱きついて頭を撫でてもらうだけで、いとも簡単に、僕は深い夢の世界へと落ちてしまうのだ。
 そんな兄があしかになってしまったのは、ある爽やかな月曜日の朝だった。レースのカーテン越しの柔らかな春の日差しが、僕ら兄弟の部屋に降り注いでいた。寝坊助の兄を起こすのは僕の役目だったので、僕はいつも通り、きっかり七時三十分に目を覚まして隣に眠る兄を起こそうと彼の布団を剥いだ。
 僕はギョッとした。なぜか兄の布団の中に人間くらいの大きさのあしかが眠っている。すうすうと寝息を立てていて、こちらには全く気がついていないようだ。
「ぎゃああああ!」
 僕はなんとも間抜けな声で叫んだ。その勢いで、机の角に頭をぶつけてしまった。非常に痛い。驚いたあしかが目を覚ます。
「おい、祐介、どうしたんだ」
 あしかが眠そうに目をこすりながら、僕の名前を呼んだ。
「うわあああ!あしか、なんであしかが僕の家にいるんだ!」
 じんじんとした頭の痛みは、驚きのあまりに吹っ飛んでしまった。あいにく母は朝番で家におらず、僕を助けてくれるものは誰もいなかった。
「祐介、お前何言ってるんだ。あしかなんてどこにもいないじゃないか。寝ぼけているのか」
 と、あしかが言っている。それは兄さんの声だった。
「もしかして、兄さん……?」
 僕は部屋の隅であしかとの距離をとりながら呟いた。
「当たり前だろ。俺は世界でただ一人の、お前の兄さんだ」
 とあしかが答えた。なんということだろう。世界で一番大好きな兄が、世界で一番大嫌いなあしかになってしまったのだ。
「に、兄さん、ちょっと鏡を見て来て」
 あしかが僕の方へ近づいてくる。ぼくもじりじりと後ろへ下がるが、すぐに壁が背についてしまった。あしかはさらに顔を近づけてくる。お互いの息がかかるくらいにまでせまったところであしかはけらけらと笑い始めた。
「冗談だよ、祐介があんまりにも怖がるからさ。しかし俺の寝癖、お前が顔真っ青にするほど酷いのか。ちょっと見てくるよ」
 あしかはぺたぺたと畳の上で腹を引きずりながら僕ら二人の部屋を後にした。
 部屋で一人になった僕はもう一度落ち着いて考えた。朝起きて、兄の布団を剥いだ。それまではいい。その後、あしかが彼の布団に眠っていた。あしかは兄の声をしていた。たどりつく結論は一つ。兄さんはあしかになってしまったのだ。
 部屋の隅で呆然と座り込んでいると、あしか、もとい兄さんはのろのろとこちらまで戻って来た。
「なんだ、そんなに寝癖、酷くなかったぞ」
 あしかはボリボリと頭を掻きながら、布団の上に腰を下ろした。
「鏡の中に、あしかが映っていたでしょう?」
 僕は恐る恐る尋ねた。
「いいや、男前が一人映っていただけだったね」
 もしかして、僕がおかしくなってしまったのだろうか。兄さんがあしかに見えるだなんて、変な話だ。僕の恐怖心が、これを生み出したのだろうか。少なくとも兄さん自身は、あしかには見えていないようだった。そんなことを考えていると、玄関の戸が開く音がした。
「ただいまー」
 母が朝番から帰ってきたようだ。早く真実を確かめたい。
「お、母さんが帰ってきたな。朝飯にしよう」
 僕とあしかは、階段を下り台所へと向かった。
「祐介、忠、おはよう。昨日はよく眠れた?」
 元気一杯の母が、かちゃかちゃと父の使った食器たちを洗っている。今日は早めの出勤らしく、さっき歯を磨いているのを廊下を歩く際に見かけた。
「母さん、今日の兄さん、いつもと違って見えない? 例えばあしかに見えるとか……」
 兄と母は、二人して怪訝そうな顔をしていた。
「馬鹿なこと言ってないで、早くご飯食べちゃいなさい。二人とも遅れるわよ」
 すぐ横にあしかがいる食事は、あまり良い気分ではなかった。兄が口に白飯をかきこむたびに、あしかのつるつるとした頭が黒光りするのが、いやでも目に入ってくるのだ。母さんにも、兄はふつうに見えているようだった。兄があしかに見えるのは、僕だけらしい。 とりあえず、制服に着替えて学校の支度をした。兄の髭を剃っている音が、一階の洗面所から聞こえてくる。
「祐介、置いてくぞー。早くしろよな」
 大嫌いなあしかのことを考えていたせいで、朝の支度が遅れてしまった。僕の通う中学校は駅のそばにあるので、途中まで兄と一緒に通学していた。急いでエナメルバッグを肩にかけ、玄関へと向かう。もしかしたら今まで見えていたものは夢で、玄関の前にいるのはいつも通り、僕の大好きな兄の姿ではないか。 そんな希望はあっという間に塵となった。玄関にいたのは、やはりあしかであった。ネクタイを整える仕草をしていたけれど、そこにはネクタイもワイシャツもない。
「どうしてそんなに離れて歩くんだよ」
 彼はは口を尖らせた。あしかにも表情はあるのだ。僕は返答に困った。あなたが大嫌いなあしかに見えるんです、だなんて言えない。
「今朝からかったこと、怒ってるのか?」
 目を伏せた、悲しそうな顔。
「祐介が隣にいないと調子狂うなあ……」
 僕はあしかの奥にいる、兄さんの悲しそうな顔を想像して、胸が痛かった。
 真実を話そう。大好きな兄さんが悲しむなんて嫌だ。
「兄さん、実はね、僕には今朝から兄さんの姿があしかに見えているんだ」
 僕は、あしかの顔を直視しないようにした。
中身が兄さんだとしても、あしかへの恐怖は薄れない。
「だから、あまり兄さんには近づけない。だって、怖いから」
 兄は絶句した。それはそうだ。弟から突然こんなことを言われたら誰だって驚くだろう。
「なんの冗談だ? ドッキリか?」 
 信じられない、といった顔だ。僕だって同じ立場ならこんな顔をする。僕は適度な距離を保ちながらあしかと向き合った。車道を、一台のタクシーが走り去っていった。
「本当なんだよ、兄さん」
 あしかと目を合わせるのはすごく怖かったけれど、僕はあしかの瞳を真っ直ぐに見て言った。
「そうか、お前には俺があしかに見えてるんだな。お前は嘘をつくような人間じゃない。朝から様子がおかしかったのもそれが原因だったのか」
 まさか、こんなにすぐに信じてもらえるなんて思わなかった。見た目はあしかだったけれど、僕は兄に信じてもらえたことが嬉しかった。しかし、僕と兄との間に空いている物理的な距離は縮まらなかった。
「そうだよな、お前はあしか恐怖症だもんな」
 といって兄は笑ってくれたけれど、その声に悲しみがこもっていたのを僕は感じ取った。僕だって兄さんのそばにいたいし、彼に触れたい。でも、それは叶わない。なぜなら兄は今、あしかだからだ。
 ゴキブリやムカデだったらまだ良かった。我慢ができる。ただ、あしかはだめだ。怖くて怖くて、近づくとがくがく足が震えてしまう。
 しばらく歩いて、あしかは駅へと吸い込まれていった。いつもなら、兄と別れたときに寂しい気持ちが心にちらつくのだが、今回は寂しさよりも安堵の方が大きかった。近くにあしかがいるというだけで、冷や汗が止まらなかったのだ。
 学校の授業は、一日上の空だった。兄のこととあしかのこと、それだけで頭がいっぱいだったのだ。数学の授業中に当てられたときにうっかり、
「あしか」
 と答えてしまうくらい。
 今日は月曜日で五時間授業だったので、三時には家に着いた。兄さんはまだ帰ってこない。勉強机に向かいながら、これから先どうしようか考える。部屋の反対側の角にある、兄の机が目に入った。もしも、兄の姿がずっとあしかのままだったら。目からぼろぼろと涙が溢れてきた。大好きな大好きな兄なのに。あしかを好きになることはできないのだろうか。
 無理だ、あしかだけはどうしても好きになれない。
 悲しみにくれている間に、兄が帰ってくる時間になっていた。日はとっくに沈んでいた。
「ただいま」
 ばたん、とドアの開く音がする。いつもなら、真っ先に部屋に来て僕を抱きしめてくれるけど、兄が二階へと上がってくる気配はない。
「祐介、ごはん!」
 下から母の呼ぶ声がする。よく通る声だ。なんだか今日は下に降りたくない。一階にはあしかの兄がいるのだ。それだけで腰が重くなってしまう。
「あとで食べるよ」
 とだけ答えて、僕は机に突っ伏した。もう、何も考えたくなかった。
「おい、祐介。祐介」
 背後からの兄の声で、はっと目を覚ました。いつのまにか眠ってしまったらしい。しかし僕は振り返ることができなかった。
「こっちは見なくていい。俺と顔を合わせたくないのは構わない。ただ、飯はちゃんと食え」
 兄には全てお見通しのようだった。別に兄と顔を合わせたくないわけではない。あしかを見るのが怖いだけだ。
「顔を合わせたくないんじゃない。兄さんの顔が見たいよ。話したい。でも、怖いんだ」
 声が少し震えてしまった。出てくる涙をぐっとこらえる。
「じゃあ、背中合わせに話をしよう。それなら怖くないだろう?」
 僕らは部屋の真ん中で、背中をピタリとくっつけた。姿が見えなければ、意外と平気だった。
「今日は学校どうだった?」
 兄はいつもよりも優しい声音で尋ねた。
「兄さんのことで頭がいっぱいだった」
「そうか」
 その後は、取り留めのない話をした。あっという間に時間は経った。兄に風呂に入るよう促され、僕は浴槽に浸かった。
 風呂上がりに部屋でぼうっとしていると、誰かがドアをノックした。
「祐介、入るぞ。後ろを向いておけ」
 僕は言われた通り、後ろを向いた。
「さっさと布団を敷いて、電気を消してしまおう。そうしたら、俺の姿は見えないから」
 兄は素早く布団を敷くと、かちんと電灯の紐を引っ張った。部屋は真っ暗、あしかの姿は見えない。僕たちは床に就いた。いつもの癖で兄に抱きつこうとしたが、あしかのゴムシートのような皮膚の感触が手に伝わって、僕はパッと手を離した。
「そうか、そうだよな。俺は今、あしかなんだもの」
 兄の悲しそうな声が、頭の中でこだました。
 その晩僕は、なかなか眠ることができなかった。何度も寝返りを打っていると、横から聞きなれた、優しい声がした。
「眠れないのか」
 兄の布団の方へ、ごろんと寝返る。真っ暗で何も見えないけれど、そこには人間だった兄の姿があるような気がした。
「うん……」
 しばらく間が空いた。
「俺は今、お前を抱きしめてやることができないからなあ」
 どうしたらいいんだろ、と呟く兄を暗闇の中に見た。胸が痛くなる。
「そうだ、お前が眠るまで、暖かい話をしよう」
 そう言って兄さんは、静かな声で話を始めた。僕が生まれた日のこと、自転車の練習をした時の話。優しい話の数々を聞いて、僕の瞼は自然と重くなっていった。
 その晩、兄の夢を見た。兄さんは頬杖をついて、台所のテーブルで僕と向かい合っていた。なにか会話をするでもなく、ただ微笑んでいた。
 朝起きると、すでに兄の布団は畳まれていた。一階に降りても彼の姿はない。
「忠、今日からしばらく先に行くって。仕事が忙しいみたいよ」
 母と朝食を食べながら、僕はそれがすぐに嘘であることに気がついた。僕が彼の姿を見なくて済むように、とのことだろう。
 ひとりで歩く通学路は何か物足りなくて、心にぽっかりと穴が空いたようだった。
 帰宅後、自室で兄さんの帰りを待つ。そして、彼が帰宅したら、背中合わせに話をする。それが僕の楽しみだたった。
 しかし、話すだけでは心は満たされない。兄さんにぎゅっと抱きつきたかった。あの広い胸に、顔を埋めたい。
「どうした、祐介」
 いつも通り、背中越しの優しい兄の声。
「……寂しい」
 嗚咽が漏れる。
「兄さんに、触れたい」
 頰を、生ぬるい涙が伝った。
「そうか」
 兄はそう言ったきり、しばらく黙り込んでしまった。
 それから数日後、僕たちはいつも通り、背中を合わせて話をしていた。
「祐介、恐怖症の治し方っていうのを教えてもらったんだ。試してみないか?」
 思わぬ提案だった。あしか恐怖症を治そうだなんて、思いついたこともなかった。 
「まず、怖い対象に敢えて触れるんだ。」
 あしかに触れる。考えただけでぞっとした。
「そして、その恐怖を十点満点で点数付けする」
 そんなの、考えただけで十点満点だ。あのぼつぼつしたヒゲや、笑っているような気持ちの悪い口を想像して、眉をひそめる。
「その後、五分ごとに点数をつけていく。そうしたら、だんだん恐怖の度合いが下がっていくんだと」
 あしかに触れるのは、正直かなり嫌だった。
「うん、わかった。やってみる」
 でも、満たされない日々を送るのはもっと嫌だ。
 あしかと向かい合う。これだけで、背中がぞわぞわする。
「さあ、祐介」
 あしかが僕に話しかける。僕は右手を恐る恐る右手を伸ばし、触れた。
生ぬるいゴムシートのような皮膚の感触が脳に届く。全身に鳥肌が立った。
「何点?」
 僕は質問にしばらく答えることができなかった。
「……十点」
 そのまま兄の肌に触れ続ける。皮膚の感触にはだんだんなれてきたが、見た目はまだダメだった。
「何点?」
「九点。触るのは平気になってきたけど、見た目が怖い」
 なら、とあしかが言って、あしかが顔を近づけ、瞳をじっとこちらに向けた。しばらく見つめ合う。顔をそらしてしまいたかったけれど、ぐっと堪えた。
「何点?」
 しばらくして、あしかが再び尋ねる。
「八点」
 不思議なことに、五分ごとに点数は一点ずつ下がり、ついにゼロになった。
 もう、あしかは怖くない。僕は思い切り兄さんに抱きついた。
 その瞬間、兄さんはあしかでなくなった。もとの姿に戻ったのだ。人間に戻った兄が、僕を抱きしめ返す。
「兄さんが兄さんに戻った…」
 目の前にいるのは、紛れもなく僕の大好きな兄さんだ。
「元に戻ったか、そうか」
 兄さんもとても嬉しそうな顔をしていた。
「よかった、もうお前に怖がられずに済むんだな」
 そう言って彼は、僕の頭を撫でた。
「もうあしかなんて怖くないよ」
 僕は兄の胸に顔を埋めた。そこからは、心地いい兄さんの匂いがした。

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