第10話 零れ話 夫婦の逢瀬

文字数 4,595文字

 出会いはそう衝撃的ではない。
 久し振りに戻った実家で、久し振りに家の中を徘徊中、嫌な身内と鉢合わせしそうになり、慌てて入った先が、その女の部屋だった、というだけだ。
 自分がいた時は物置だった部屋で、妙に息のしやすい安らげる場になったそこは、深窓の姫の部屋だった。

 仕事を終え、再び江戸に入った男は、真っすぐある家に忍び込んだ。
 忍び込むのは二度目とあって、慎重さは少しだけ軽くなっている。
 大工の棟梁の住む表長屋の階段を上り、松吉の部屋にそっと滑り込む。
 薄暗い中、夜具に包まる姿を見つけ、男は詰めていた息を深く吐いた。
 一度目は仲間と合流する前、頭を待ち伏せする前に、顔を見ようと立ち寄った。
 その時は、寝顔を見つめ続け、短い時を惜しみながらその場を後にした。
 今夜も、そのつもりでいた。
 起きている顔も見たいが、どんな顔で会えばいいのか、分からなくなっているのだ。
 そっと夜具の塊に近づき顔を覗きこむが、頭まで夜具を被った相手は、寝顔すら見えない。
 恐る恐る手を伸ばし、頭を隠す夜具に手をかける男の背を、そっと指でなぞった者がいた。
「っっ」
 体を跳ね上げ、悲鳴を殺した男の背中に頭を押し付け、低い声が言った。
「……この、薄情者」
 その声に目を見開き、振り向こうとする男を、後ろの女は鋭く制した。
「振り返るなっ。この間は、よくも、私の情けない寝顔を、盗み見てくれたな」
 何で知っているんだと唖然としたが、訊くまでもない。
 この人がここにいると教えてくれたのは、叔父だ。
 ここまで近くに来ている愛しい人を、一度も拝まずに立ち去る男ではないと、叔父は知っているのだ。
 怒っているのかとびくつく男の背中に体を添わせ、女は後ろから首に腕を回した。
「……ロンの、背中だ。本物だ……」
 湿った声に、ロンは顔を歪めた。
 首に回された腕に触れ、静かに呼びかける。
「コハク様、どうか、顔を見せて下さい。眠っていない、あなたの顔を」
「嫌だよ。何で、数少ない顔合わせで、泣き顔なんか見せないといけないんだっ」
「泣き顔でも、一向に構いません。代わりに、私の顔を思う存分眺めて下さい」
 男の真面目な懇願に、女はゆっくりと名残惜し気に、腕を放した。
 すぐに振り返るロンを見上げるのは、この部屋の主とは似ても似つかない女だ。
 色白の肌に、甘い蜂蜜色の髪と眼。
 濃い金色の目が、愛しい男をしみじみと見上げた。
「相変わらず、いい男だ」
 こんなに下心のない誉め言葉を言ってくれるのは、今の頭とこの人くらいだ。
「有難うございます。コハク様も、相変わらず可愛らしい方です」
 本心で返したのに、コハクは目を細めた。
「本当に? 他にいい人が出来たから、私と話したくなくて、この間は起こさずに逃げたんじゃ、ないのか?」
「……どうして、そう言う根も葉もない疑いが、かけられるのですか」
「だって、変らなすぎるんだもの」
 頬を膨らませて顔を伏せる女に、ロンは眩暈を感じてつい、抱きしめた。
「話すのが、怖かったんです。今も後悔しています」
「え、どうして……」
 悲しそうに尋ねるコハクを、男は更に強く抱きしめながら、答えた。
「あなたに、同じ生き方は無理だと分かっていても、このまま連れて行きたくなってしまう」
 女の両手が背中に回り、しがみ付いた。
「連れて行って。どこで死んでもいい、あなたの傍で、生きたい。そう、前にも言ったじゃないかっ。何で、聞いてくれないんだっ」
 泣きながら言われ、ロンは顔を歪めて何度も首を振る。
 無理だ、そう思う。
 今こうして実家から出て来れているのは、カスミや叔父が女の体に合わせた空間を、身に纏わせているからで、それを作る術を、ロンは持っていない。
 このまま連れ去って、万が一その空間が破れる事となったら……女が、こちらの手立てがないまま、弱って死んでしまったら、ロンの方が耐えられない。
 コハクは、小さい頃から虚弱だった。
 子供を宿して産み落とした時、奇跡だと騒がれたほどだ。
「そんなに泣かないでください。泣いたら……」
「泣いたら、なんだよっ」
「起きている時が短くなって、あまり話せなくなります」
 少し歩くだけでも昏倒する女は、部屋に訪れる従兄で幼馴染のロンと話しては寝、寝ては話すと言った生活を続けるうち二度だけ、情を交わすと言う所まで体が持ったことがあった。
 子供を宿して産み落としたことも奇跡だが、たった二度で子供を孕むのも、あの一族の間では奇跡で、ロンはコハクの兄のヒスイに、胸倉を攫まれてどんな手を使ったと、意味不明な詰問を受けたが、一番驚いていたのはロンとコハクだ。
 そして、そのせいでこの長い年月を、離れ離れで過ごさなければならない羽目になるとも、思いもしなかった。
 永く離れていた二人には、互いに話すことが沢山ある。
 ついそんな思いで頼んだロンの胸を、コハクは小さな手でポカポカ叩く。
「馬鹿っ。あなたが、こんなに泣かせたくせにっっ」
 女を宥めつつもされるがままになっていると、コハクはすぐに息切れし、腕を落とした。
「……気が、すみましたか?」
「疲れた」
 答え、目だけは男を睨む。
 その目を見返し、ロンは微笑んだ。
 優しくコハクを抱きかかえながら、ぶつぶつ話す声に耳を傾け続ける。
 偶に相槌を打ちながら、久し振りに聞く声を、耳に焼き付けた。
 これで、また数百年は我慢できると、いつの間にか話疲れて眠りについた女を、そっと夜具に下ろした。
 風邪をひかないように夜具でその体を包み、しみじみと寝顔を見つめる。
 身を起こしてふと左手首を見、眉を寄せた。
 念のためとつけていた物の輪が、刃物で切られたように切れて、手首にぶら下がっていた。
 その薄い金色の組み紐を見つめ、ロンは溜息を吐いて誰ともなく声をかけた。
「……カスミちゃん? いつもいつも、勘弁してくれない?」
 というか、今夜は完全に油断している時を見計らったようで、カスミの仕掛けに気付きもしなかった。
 内心反省しながらの声掛けに答えたのは、廊下の方からの真面目な声だ。
「お前の方こそ、そろそろ真面目に考えてはどうだ? 姉上と、共にいる事を」
「お前もコハクも、何でこんな短い間で、我慢できるんだよ?」
「お前が思いきれないのなら、無理やりにでも姉上と閉じ込めてやろうと言う弟心なのだが、何故そう逃げる?」
 ヒスイとカスミの言葉を聞きながら、ロンはそっと眠る女を伺い、起きる様子がないのにほっとしつつ、廊下へと動いた。
「思いきれてないって、何をよ? あたしは、これでもう、満足してるのよ」
 襖を開くと、男三人が狭そうに廊下に詰まっていた。
「……コハクが、哀れだ」
 ヒスイに声を沈ませて言われ、男は少しだけ詰まった。
「また、寝てる間に消える気だろう? 朝、笑ってさよならするくらい、してやれよ」
 言われて決心が揺らぐロンに、カスミが頷いて駄目押しする。
「そうだぞ。何なら、松吉になるまで見守ってはどうだ?」
「……そっちの気絶狙いか。お前も、手段を択ばなくなったな」
 もう一人の男が呆れて言う。
 ヒスイとカスミの兄弟も、その兄弟とロンの叔父に当たるその男も、夜まで仮の姿をしているわけではないらしく、廊下で狭そうながらも伸び伸びと座っていた。
「コハクの事は、心配するな」
 軽く笑いながら、叔父はロンを見上げた。
「この家が、きちんと次代に継がれるまでは、オレも傍にいるから。近くにはこの二人もいるんだ。大抵の厄介ごとから、遠ざけることは出来る」
寿(ことほぎ)も、近くにいるんだから、不安がる事はない」
「……その子の名を聞いたら、逆に不安になったんだけど」
 叔父に続けたカスミの言葉に、ロンはつい返してしまう。
「何でだ? 意外に気が合うらしくて、夜によく話し込んでるぞ」
「悪巧み、していそうで怖いんですが」
 女同士の楽しみを、黙って見守っていた叔父は、ロンの不安に頷いた。
「ある意味、悪巧みかも知れないが、理由はある悪巧みだから、気にする事はない」
 気になるが、叔父がそう言うのなら心配はいらないだろうと頷き、男は女を振り返った。
 完全に熟睡しているのを確かめ、廊下に出る。
 その時には立ち上がっていた、大きな男たちの間をぬって階段を降り、再び振り返った。
「では、私は、これで」
 叔父を見つめて挨拶し、従兄弟たちには笑顔だけ向けて、長屋を後にした。
「……精進はしているようだな。カスミのあの仕掛けが、効かなかった」
 感心する叔父に、真面目な顔を緩ませたカスミが答えた。
「ええ。まさか、あんなものだけで、防がれるとは思いませんでした」
 叔父はロンが防ぐ力を持ったと思ったようだが、違う。
 あの男が手首にしていたのは、数十年前に作られた組み紐だ。
 元の持ち主がいる今、それは形見とは言えないはずなのに、ロンは未だに持っていたようだ。
 ここまで年月が経てば、元の持ち主の力も消えているはずのその代物が、カスミが夜具に仕掛けたものを防いだ。
 それだけの思いを込めて贈ったからなのか、今近い所にいるからなのかは分からないが、姉を思うカスミからすると厄介な代物だった。

 朝方、野宿をしている男たちの前に現れたロンを、仲間たちはいつものように迎えた。
「早かったですね」
「お相手の子が、疲れて寝ちゃったのよ。頑張り過ぎちゃった」
 ゼツの意外そうな声に、人を食った後の様な笑顔で答えると、ジュラが首を竦めた。
「役者の卵を、揶揄い過ぎて、潰さないでやってくれよっ」
「ほほほほ」
 ただでさえ、娯楽が少ないこのご時世、役者が育たなければ、更に楽しみが減ると嘆く男に高笑いで返し、群れの奥で寛ぐ若者の方に向かう。
「ただいま」
「……帰れたんだ」
 見上げた若者の呟きで、挨拶をせずに江戸に向かった男の思いを、セイは察していたと知る。
 村から江戸に向かったロンは、慎重に気を張りながらも、覚悟はしていた。
 カスミは、あれでも兄弟想いの男だ。
 いつまでも姉を悲しませる幼馴染に、業を煮やしているのも知っていた。
 コハクが外に出ている今が、自分を捕まえる絶好の機会だと、何か仕掛けてくるだろうが、それから逃れる術も抗う術もなく、諦めるしかないと思っていた。
「ええ。あなたのこれが、守ってくれたわ」
 右手に握りしめたままだったそれを見せると、覗き込んだエンが目を丸くした。
「綺麗に切れていますね。もしや、親父さんの呪いですか?」
「あたしを、情けなくも昏倒させてでも、傍に置きたいのよ。本当に、カスミちゃんてば、焼き餅やきよね」
「……」
 おどけて見せてから、僅かに呆れを滲ませる黒い目を見下ろした。
「あなたにここを押し付けて、あたしをここに置いて行ったくせに、今更、あなたから引き離そうなんて、酷い話だわ」
 見返す若者の傍に膝をつき、その体を抱きしめる。
「絶対、あなたから離れないんだから」
 あまり強く抱きしめると、潰れてしまいそうな女の代わりに、ロンはよくこの若者をこうする。
 今日は、女を思い浮かべながら、さらに強く力を込めた。
「潰す気かっ?」
 オキが血相を変え、エンが呆れる中、セイは男の腕の中で顔を上げた。
「……本当に離れたくない人と、一緒にいられるように、なれればいいな」
 その呟きに、ロンは思わず腕を緩めた。
 抱きしめていた体を離し、若者を見下ろす。
 分かっていて言ったにしては、弱い言葉だった。
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