メリーさんの電話

文字数 10,224文字

「ねえ。今どこにいるの」
 少女は兄の持ち物である携帯電話を手にすると、そう訊かれた。
 女の声で。
 日曜日の午後を少女・蛍子は、兄と二人で留守番をしていた。
 やや吊り気味の大きな瞳に、短めの髪をシンプルにまとめ上げたポニーテールに結んだ、ボーイッシュな雰囲気の少女だが、整った目鼻立ちは可愛らしい顔をしている。
 快活で勝ち気な性格をしてはいたが、誰に対しても優しく接し、思いやりのある子だ。
 蛍子は、台所に置いてあった兄の携帯電話が鳴っているのをみかけた。
 小学四年生の蛍子には中学一年の兄がおり、家族への連絡用ということで携帯電話を持っていた。
 電話が鳴っていた時に思ったのは、仕事で出かけた母親からの連絡かと思い手にしたが表示は登録されている母親の名前ではなく登録の無い電話番号の羅列になっていた。
 もしかしたら宅配業者による在宅確認かと思い、何気なく蛍子は電話にでたのだが、そこから聞こえてきたのは業者名の名乗りではなかった。
 女の声。
 相手は兄だと思い話しているのか、蛍子だとは気がついていないのか、馴れ馴れしく甘えたような声で聞いてきたのだ。

 今、どこにいるの

 と。
 蛍子が怪訝な表情をしているにも構わず、女は続ける。
「わたしね。今、駅に居るの」
 そう言うと、電話は切れた。
 ツーツーツーという、終話音がしたので、蛍子は電話を切った。瞳は困惑の色に染まっていた。
 それから沸騰するように感情が沸き立つものがあった。
「何よ。お兄ちゃんてば、家族の連絡用ってことで携帯電話を持たせてもらっているのに。中学生になったからって、もうクラスの女との連絡に使っているの」
 蛍子は携帯電話を、ちょっと荒々しく置く。
 携帯電話は現在主流のスマートフォンではなく、二つ折りのガラケーだ。親は長い目で使用するなら。ということで、スマートフォンを長男に持たせようとしたが、兄はスマートフォンの機種代も利用料も金額的に高いこと、使いやすさと耐久力を考え電話とメールができれば良いということでガラケーを希望した。
 ガラケーは料金の安さと使いやすさからシニア世代を中心に未だに人気がある携帯電話だ。
 地味で派手なのを好まない兄らしい選択だと蛍子は思った。自分なら絶対にスマホにしたのにと思う。
 蛍子の兄は、決して格好良い訳ではない。
 酷な言い方をすればダサい。
 体型を言えば痩せており肥満体ではないが、決して目立つものは持っていない。
バレンタインでは義理チョコすらもらって帰ったこともなく、毎年妹である蛍子があげている始末だ。
 昨年まで一緒の小学校で登下校を共にしていたので、兄がどんなに非モテなのかを分かっていたが、小学生ながらに兄の少し離れた所に女の影というものを感じていた。
 勉強とスポーツを両立して成績はクラスでトップの美少年に憧れる眼ではなく、もっとこう慕うような目で兄を見る目があるのを蛍子は感じていた。
 そういう女子が居るのを見ると、蛍子は自分の中でイライラするものがあった。
 漫画で読んでいて、蛍子は初めてブラザーコンプレックス。通称、ブラコンという言葉を知り、自分の持つ感情がそれであると思った。
 蛍子自身、兄のことをどのように見ているのか分かっていないが、兄のことを世界で一番理解しているのは自分だと思っていた。仮に彼女ができたとしたら、認めない、許せない、会わせないという感情が生じると思う。
 蛍子は台所からリビングへと行くと、庭の端を見た。
 そこには一人の少年が背を向けて居た。
 背筋を伸ばして立つ。
 両足を肩幅に広げ、膝をやや曲げ腰を沈める。
 両腕は大きなボールを抱えるように、ゆったりと前に突き出す。
 空気イスという、椅子に腰を掛けているような姿勢で体の状態を維持するものに見えるが、兄が站樁(たんとう)を行っているのを蛍子は知っていた。

站樁(たんとう)
 武術(ウーシュー)(中国武術)の鍛錬の一つ。
 杭のようにしっかりと立って行う瞑想。立禅とも呼ばれる。
 站樁は武術や気功においては、基本功にして重要な修練法だと紹介されることが多い
 両足は肩幅くらいに開いて平行に。体重は両足均等に。
 少し膝を緩める。膝はつま先より前には出さないようにする。上半身は、胸の前に大きなボールを抱えるようにして、ふんわりと腕を上げる。
 一つのポーズをとったまま一定時間立つというもの。
 とても簡単な、むしろ退屈な鍛錬。
 だが、並の者が行えば5分でギブアップする。站樁には5分の壁があり、逆に言えば、5分までは筋力と根性があればできるという。
 しかし、筋力と根性だけでは5分の壁は越えられない。
 筋肉で站樁を支えられなくなったら、どうするか。筋力では支えられないのだから他の方法で支えなければならない。
 それは、骨。
 骨で立つのだ。
 力をぬいて、自分の身体の骨に如何に自分の身体の重さを分散させて乗せるか。自然と身体が模索する。これは言葉で伝えられるものではなく、各自が自分の身体と向き合う中でしか発見できない。
 中国武術研究家・松田隆智曰く、
「長くやる人は2時間くらい。30分はできないと話しにならんだろ」
 と云う。
又、武を極める方々は3時間くらい平気で行う。
 動かない練習なので、これだけやっても上達しないし、強くもならない。
 しかし、站樁を行わないと絶対に上達しない。
 頭が上下すると気配がすぐに読まれ、運動量が増えて無駄に体力を使ってしまう。
 中腰の高さで重心を移動させる運動に役立つ。
 武術の身体操作を行う、基礎である姿勢が嫌でも身につくのがこの練法。
 姿勢の基礎ができた上で技を覚えていかねば、技が身体に浸透していかない。
 站樁を行っていると、ずっと立っているだけで動いてはいないのに身体が温かくなってくる。
 古人は、この現象を「気の活動」だと考えた。
 站樁によって身体が温まるのは、《気》を持ち出すまでもなく、これは筋肉の運動が関わっている生理的な現象だ。筋トレ、スクワットなどしなくても、膝を曲げてじっとしているだけでも脚(太もも)に負荷がかかり続ける。激しい動きをしてはいないが、筋肉の運動によって熱が生み出されている。
 これは運動生理学におけるアイソメトリックトレーニングに分類される。
 アイソメトリックトレーニングは、別名“静的動作トレーニング”とも呼ばれ、筋肉を伸縮させずに一定の姿勢をキープして負荷をかけるトレーニングを指す。筋肉を伸縮するのではなく、体の各部分の筋肉の長さを変えずに力を加え、筋力と基礎代謝をアップさせる。
 站樁は身体を強くし、真気を発動し、体力を増進させるなどのあきらかな効果がある。これは気功鍛錬方法の一種であるばかりでなく、武術の最上の功夫を獲得するためには、重要な方法となっている。
 古人は
「要把骨髄洗、先従站樁起(骨髄をとりて洗うをもとむに、先ず站樁より起こす)」
と云っている。
 站樁は、老齢者、虚弱者、病人に適しているだけでなく健康な人の鍛錬にも適している。

 蛍子の兄は、平日でも時間があれば站樁を行っていた。
 休日ともなれば、その時間は更に長いものになる。
 鍛錬を行っている兄の邪魔をするのもいけないと思い、蛍子は携帯電話に女から連絡があったことを伝えなかった。
「駅って言ってたけど、会う約束でもしてたのかな……」
 蛍子は、そう言って想像する。
 兄の隣に女が居て、二人が笑っている姿。
 しかめっ面を、蛍子はした。左目の瞼が痙攣しているのが自分でも分かった。何だか凄く面白くない気持ちが巡る。
「……ま、いっか」
 蛍子の家から駅まで、バスを使って4~50分はかかる。更に言えば家からのバス停までの距離、そこでの待ち時間も考えれば1時間半はかかるだろう。
 蛍子は兄が女との約束を忘れているのだと思ったが、それによって兄が嫌われるなら、女と縁が切れる切っ掛けになれば、それも良いと思った。
 冷蔵庫を開けると開府済みのザラメ煎餅の袋があった。昨日、母親が招いたお客に出していた物の残りだった。
「早く食べないと湿気ちゃうからね」
 食べる為の言い訳をして、500mlペットボトルの麦茶を取り出しリビングにあるソファーに寝転ぶと、リモコンを手にしてテレビを見始めた。
 適当にチャンネルを変え、旅番組にすると景色と料理を見ながら、ザラメ煎餅を齧った。
 テレビを見ながら母親が旅行に行きたいと口にしていたことを思い出し、学校の宿題が終わっていないことを思い出し、親から食材の買い物を頼まれていたことを思い出す。
 しかし、蛍子は、いつの間にか眠りのまどろみに落ちていた。
 夢は見ていなかった。
 ただ唐突に目が覚めた。
 何時に眠り、どれくらい寝ていたのか分からないが目が覚めた切っ掛けはアラーム音だった。
 目覚まし時計と思い、枕元を探ったが手応えはない。
 蛍子が寝ぼけ眼で周囲を見るとリビングであり、テレビを見ながらうたた寝していたことを思い出した。
 身体を起こして音を探ると台所からだ。
 携帯電話の呼び出し音だと気がつくと、蛍子は台所へと向かい電話に出た。
「はい。もしもし」
 蛍子は、アクビ混じりに答える。
「今ね。新幹線の高架橋を過ぎたの」
 電話は女の声で言うと、切れた。
 蛍子は終了音のする携帯電話を手にしたまま、思考が鈍いままに思い出す。電話の声は先程の女の声だということに。
「高架橋……」
 蛍子は地域の道路を思い出し、駅から下った国道にある高架橋を思い出した。
 蛍子が住んでいる地域は市に隣接した郊外だ。山に囲まれており、田畑が広がる地域でもある。
 幹線道路こそ整備されているが、家からは少し距離がある。声の主は、その道を下ってきているのが分かった。駅と家との距離を考えれば、半分以上の距離を詰めていた。
 女がこっちに来ている。
 得体の知れない恐怖が蛍子を襲った。
 腰から背中へと、粘液で濡れた手で撫で回されるような不快感で鳥肌が立つ。
 蛍子は思い出したように庭へと出た。
「お兄ちゃん!」
 蛍子は庭に居る兄に助けを求め、素足で庭に飛び出したが、蛍子が見て感じたものは不安と孤独であった。
 そこには誰も、兄は居なかった。消えたように。
 見れば空はどんよりと曇り、雨がぱらつき始めていた。遠くでは雷鳴が聞こえている。
 蛍子は家の中に戻ると掃出し窓の鍵をかけ、玄関の鍵を閉める為、廊下を走り出した。
 玄関のサムターンを回すと金属音と共に鍵がかかった音がした。これで家の戸締まりはできた。
 一安心したが、今度は女のことが気になった。
 あの女は一体何者なのか。
 兄が居れば相談できたが、今は居ない。蛍子は、テーブルの上に置きっぱなしになっていた携帯電話を取ると、母親に電話をかける。
 数回のコールの後、電話が取られた。
「もしもし、お母さん!」
 母親に電話が通じたことで、安堵感に包まれるが、それも一瞬のことであった。
 蛍子は息を呑んだ。
 受話器の向こう側から聞こえるのは、砂が流れるようなノイズの音だけだった。
 無言のまま、数秒の時間が過ぎる。
 だが、人の気配が。沈黙に耐えられなくなった蛍子は、思わず口を開いた。
「……だれ?」
 蛍子が言葉を発すると、一言だけ発せられた。
「わたし」
 その声を聞いた瞬間に、蛍子はゾクッと寒気を感じた。
 あの女だ。
 この世のものとは思えないくらいに冷たくて、背筋が凍るような感覚を覚え、その場に腰を抜かしたようにへたり込む。
 そして、次の言葉で、蛍子は自分の耳を疑った。
「……今、高台の公園。あなたの、お家が見えるわ」
 女はそれだけ言うと一方的に通話を終了した。
 通話終了の電子音だけが響く。
 携帯電話を蛍子は呆然と眺めた。
 それが意味するところが何なのかを理解した瞬間に、蛍子は慌てて立ち上がった。蛍子はリビングから外を見る。
 遠くを見る。
 田舎町の為、民家はぽつぽつとあり、やや距離がある。隣家の屋根の、ずっと向こう。視線の先に標高250mの山がある。そこは自然型公園で、遊具のみならず多目的広場のある総合公園だ。
 頂上の展望台に行けば、この辺り一帯を見渡すことができる。学校の遠足で蛍子も行ったことがあり、自分の住む家が見えたのを嬉しく感じたのを思い出す。
 あの位置、あの場所から、女が自分の家を見ている。
 そう思うと、体が震えた。
 理解しがたい状況に、動けないでいた時間はどれくらいだろう。
 5分?
 10分?
 15分?
 いや逆に短かったかも知れないが、気がつけば雨音が激しくなっていた。
 再び、着信音が鳴り響いた。蛍子は慌てて携帯電話の画面を見る。
 アドレス帳に無い電話番号。
 たぶん相手は女であった。
 しかし、電話に出ることが出来ない。恐ろしさから出ることが出来なかった。
 だから蛍子は放置した。
 すると諦めるように電話は、切れた。
 しばしの放心。
 蛍子は、思い至った。
 震える手で携帯電話を操作して、警察への電話を考えた。
 警察なら、この不穏な状況から助けてくれるかもしれない。
 そう思いながら初めて110を押して発信ボタンを押そうとした時、玄関のチャイムがなった。
 蛍子は、ビクリとした。
 聞き慣れたはずの呼び鈴が心臓を鷲掴みにするような、こんなにも不安を掻き立てられたのは始めてのことであった。
 ――来客だろうか。
 だが、誰かが訪ねてきたのであれば、無視することも出来ない。
 蛍子は、ゆっくりと立ち上がり、おそるおそるドアスコープを覗くと、兄の姿が見えた。雨に濡れたようで、困った顔で頭を掻いていた。
 蛍子の心臓の鼓動が落ち着く。
 自分が鍵をかけたことで兄が家に入れなくなっていたことを後悔しつつ、急いで鍵を開けた。勢いよく扉を開けると、そこには兄の姿は無かった。
 女が立っていた。
 白いワンピースにパナマハットを目深にかぶっている。全身は雨に濡れ、長い髪から水滴が落ちていた。
 蛍子は驚きのあまり声も出なかった。
 パナマハットを目深にかぶっていた為に女の表情は分からなかったが、口元だけは見えた。唇が開き、歯が剥き出しになる。蛭の様な舌が這い出ると上唇を舐めた。
 すると女は、蛍子に顔を向けることなく、二つ折りの携帯電話を耳に当て独り言のように呟き始めた。
 正面に人が居るにも関わらず、電話越しで会話をしているかの様に。
「今、あなたの家の前にいるの……」
 蛍子は、この女はおかしいと感じた。
 全身から血の気が引くのを感じた。
 危険を直感的に感じた。
 蛍子は逃げようと玄関のドアを思いっきり閉ざすと、リビングへと転がるように走り込みソファーの端へと隠れた。すぐに玄関の鍵をかけ忘れたことを思い出したが、身体が動かなかった。
 恐怖が足腰を麻痺させていた。
 状況から、確実に女が家に入ってくることが分かっていても動けなかった。
 手にしていた携帯電話が突然鳴った。助けて欲しくて蛍子は電話に出ると、その瞬間、蛍子は悲鳴を上げた。
 声にならない叫びだった。
 喉の奥で引きつるような音しか出せなかった。
 電話の向こうで、いや背後から聞こえた。電話のスピーカーと、肉声との二重奏で。
「……今、あなたの後ろ」
 蛍子は、背後に気配を感じた。
 背中のすぐ後ろ。
 まるで人間の背丈ほどもある氷柱が、息がかかるほどの距離で、そそり立ったかのように冷気を漂わせる。
 蛍子の顔の真横に、何かが突き出てくる。それは女の手であり、指先の一本ずつに、赤黒いマニキュアが施されていたが、獣の爪のように汚らしい爪をこちらに見せつけている。
 そして、その掌には無数のイボのようなものがあり、その一つ一つの表面に、うっすらと毛が生えていた。
 蛍子は、自分の首筋に女の吐息を感じながら、それを見つめることしか出来なかった。
 すると今度は、蛍子の首回りを蛇のように何かが巻き付いてきた。
 指だ。
 何をしようとするのか確認する間もなく、蛍子の意識は前へと集中していた。
 リビングのドアに一人の少年が立っていた。
 やせ形のオーバル型メガネをかけた少年だ。
 小ぶりで丸みのある形状のメガネをかけているためか、落ち着いた優しい印象がある。取り立ててカッコよくない目立たない男の子。
 アイドル似でもない、女の子に黄色い声を上げられる美少年でもない。
 これなら小太りな方が印象があって記憶に残りやすい。印象が薄いだけに、外面の採点はマイナスだ。
 酷な言い方をすれば、
 イモ。
 それは、決して明るく、良いイメージがない表現だ。
 ……でも、何だろう。
 イモは形が悪く土にまみれ汚れているが、この少年に当てはめると別の印象を受ける。
 素朴で温かく、日差しを受けて香る土の匂いが伝わってくる。
 そんな、少年だった。
 名を佐京(さきょう)光希(こうき)と言った。
 光希はエコバックを手に固まったように動かなかった。蛍子の背後に立つ女を、正面から見据えた。
「お兄、ちゃ……」
 蛍子は兄・光希に助けを求めた。
 か細く今にも死にそうな声で。
 光希の手にあったエコバックを捨てるように落とすと、スーパーでの買い物が悲惨な悲鳴を上げて潰れる音がした。
 蛍子の背後に立つ怪異は、光希に顔を向けた。
 人ならざる異形の顔が光希を見つめていた。血走った赤い目には狂気の色がある。大きく裂けた口の中には、人間ならば絶対に存在しないはずの牙がある。悪意を煮詰めたような醜悪さを持っていた。
 光希は、表情を強張らせたまま告げる。
「蛍子。後ろを向くんじゃないぞ。絶対に」
 蛍子は震えのない兄の言葉を信じ、目を閉じ頷く。
 背後で女が笑ったような気がしたが、蛍子は耐え振り返らなかった。
 光希は右手を腰の横。
 左手をゆっくりと水平の高さに上げる。
 左手の位置をそのままに右脚を大きく踏み出し、右脚の着地と同時に右拳を立てたまま突き出し、蛍子の頭上を抜け背後に位置する空間を真っ直ぐに打ち抜いた。

【冲捶】
 飛び込み腰を鋭く回転させ、身体を横に向け馬歩となり縦拳を放つ威力重視の突き技。
 冲捶は八極拳に入門すると、初めに学ぶ八極小架と並んで学ぶ基本拳である金剛八式の一本目。
 伝えられる所によると金剛八式は元々八極門のものではなく、民国時代の初めに天津に設立された名人の集まりである中華武士会で、当時の天津で有名であった武術家・李瑞東と交流した李書文が採用したものであり、本来は少林寺内部の秘伝であると云う。
 八極拳では冲捶を最初の鍛錬技としており、冲捶のみで丸三年間を費やしたほど重要な技。
 この冲捶は三盤(上盤一肩、中盤一腰、下盤一脚)の力を集中して打ち出す。発勁は脚より腰、腰より手に至るが、この様な身体操作の要訣を「三盤合一」と称する。三盤を一つの気をもって貫き、爆弾の如く発勁を行う。
 なお、発勁とは、武術(ウーシュー)における力の発し方の技術のこと。
歌訣にも、「蓄勁如開弓、発勁如放箭」(弓を引くように勁を蓄え、矢を放つように発勁する)というものがある。
 身体は地面に対して垂直に立て(立身中正)、尾底骨を微かに前方に押し出し(尾閭微縮)、気を丹田に沈め(気貫丹田)、丹田の気を全身に運行させる。
 この様な発勁時に必要な動作の注意点は八極拳の全ての技に共通するものであり、これらを習得する為に、冲捶は最も適している。冲捶の中にこそ八極拳の全てがあるといっても過言ではない。

 光希の震脚によって、家財道具が一瞬、地震が起きたように揺れる。
 震脚とは、武術(ウーシュー)の用語で、足で地面を強く踏み付ける動作のこと。
 ただ真っ直ぐ強く踏み込めば良いと言う訳ではなく、踏み込み足が接地する瞬間、足を捻り込み、相手と足甲が平行になる様な闖歩と言う動きを伴う。
 これにより、半歩の踏み込みであっても十全の力を伝えることができるようになる。
 光希の拳が女の体を貫いた。
 空震にも似た重い音。
 拳は、まるで見えない壁を殴ったかのように音だけを発して女の身体を突き抜けたが、女は途端に渦を巻くようにしてもだえた。女は苦悶の声を上げると、身体から黒い霧状のものが飛び散り、それがそのまま空気中に溶けるように消えていく。それは、この世のものとは思えぬ光景だった。
 溶け込むように消えた。
 後には、何も残っていなかった。
「……もう大丈夫だよ」
 光希は拳を戻した。
 兄の言葉に、蛍子は背後を振り返り光希に視線を向けた。兄の、その瞳に宿す意志と、纏う闘気を蛍子は感じた。得体の知れない怪異に怯えることなく、拳一つで勇猛果敢に立ち向かってくれた兄の姿と勇気に、感謝する気持ちでいっぱいになった。
 そして、心から安心できたのだ。
 蛍子は恐怖から開放されると、眠るように気を失った。床に身体を打ち付ける瞬間、誰かが蛍子の体を抱き止めてくれた。
 誰かは分かっている。だから安心できた。

【メリーさん】
 日本において最も有名な都市伝説の一つ。
 メリーさんとは、そこに登場する女性の霊。もしくは人形のことで、捨てられた寂しさが怨念となった存在。
 少女が引越しの際、古くなった外国製の人形、「メリー」を捨てていく。 その夜、突然電話がかかってくる。
 電話を受けると回線の向こう側から、知らない女が言う。
「あたしメリーさん。今ゴミ捨て場にいるの…」
 電話を切っても、またかかってくる。
「あたしメリーさん。今〇〇にいるの…」
 電話を切っても、また電話はかかる。
「あたしメリーさん。今☓☓(さっきよりも接近した場所)にいるの…」
 そしてついに、
「あたしメリーさん。今あなたの家の前にいるの」
 という電話が。
 怖くなった少女は思い切って玄関のドアを開けたが、誰もいない。
 やはり誰かのいたずらかと思った直後、またもや電話が…
「あたしメリーさん。今、あなたの後ろにいるの」
 いわゆる怪談の一種であるため話の経緯や顛末には無数のパターンが存在し、この話を聞いた人は5人の友達に同じ話をしないと、メリーさんからの電話がかかってくるという、不幸の手紙やチェーンメールのような形式で伝播することもある。
 そもそも、これが語られた当初は、「電話が存在しない所から電話が掛かってくる」というのが恐怖だったが携帯電話の普及によって、それ自体は当たり前になってしまい、話が成り立たなくなった。
 そのため、携帯電話に対して、「地下にいて圏外なのに掛かってくる」「着信拒否しても掛かってくる」というパターンに進化している。
 メリーさんの電話は、「あなたの後ろにいるの」で締め、その後どうなったかを語らず、「余韻の恐怖」を演出するのが基本形となっている。

 ビックリしたように、蛍子は意識を取り戻した。
 自分の家。
 自分の部屋。
 自分のベッド。
 その上に自分の体があった。

 ――夢?

 蛍子は、そんなことを思いながら部屋を出ると良い匂いがした。匂いに誘われるように一階の台所に着くと、光希が料理を終えているところだった。
「起きたの。ずいぶん寝てたね」
 光希は笑んで続けた。
「お母さん仕事で遅くなるって、僕らだけで先に食べようか」
「……お兄ちゃんが作ったの?」
「惣菜の素に、ちょっと卵を入れて焼いたりしただけのものだよ」 
 光希は恥ずかしげに言う。
 素直に蛍子は、テーブルについた。
 食卓には、すでに二人分の食事が用意されている。茶碗蒸し、かに玉、卵チャーハン、かき玉汁といった献立だ。料理慣れしたことが無い者が作っただけに、野菜の彩りがなかった。
 加えて、蛍子は一つの共通点を察した。
 光希も席に着いた。
 光希が先に手を合わせ、遅れて蛍子も手を合わせて箸を取った。
「……ねえ、お兄ちゃん。どうして卵を使った料理ばっかりなの?」
 蛍子は首を傾げた。
 光希は、卵チャーハンが喉に物が詰まったような顔をする。
 何か言おうとして口を開けて、すぐに閉じた。光希は言葉を探すように視線を彷徨わせ、咀嚼に時間をかける。
 結局、何も言わずに蛍子の問い掛けを流した。
 蛍子が不満げに頬を膨らませる。ジト目で気まずそうにしている兄を見ながらも、かに玉を口にした。
 市販の料理惣菜の素を使っているだけに、それなりに美味しかったが、すぐに違和感を覚える。蛍子の表情に光希は気がつく。
「どうかした?」
 蛍子は何かを考えるようにして舌を動かし、それを噛み砕いた。口の中に砂のようなものが生じる。
「……卵の殻が入ってた」
「ご、ごめん。きちんと取ったつもりだったんだけどね」
 光希は申し訳無さそうにし謝る。
 蛍子は思い出す。
 夢の中で兄がリビングに現れた時、兄は手にしていたエコバックを捨てるように落としていた。あの時、何かが潰れ割れる音がしていたことに。
 あれは、卵の割れる音。
 それに気がついた時、蛍子は呆然とした。
「残して良いよ。そうだ。レトルトのカレーがあったから、蛍子はそっちを食べたらいいよ」
 光希は席を立って用意をしようとすると、蛍子は制した。
「待って!」
 光希の動きが止まる。蛍子は、かに玉を続けて食べた。食して言った。
「……ありがとう。お兄ちゃん」
 それは何に対する感謝なのか、光希は訊かなかった。
 ただ、料理下手な自分の料理を我慢しながら食べてくれる妹に感謝しかない。光希は、かき玉汁を啜る。二口食して分かった。確かに、卵の殻が混じっていた。
 光希は、もう少し考えて食材を床に投げ出すべきだったと、改めて思い起こしていた……。
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