第5話  空っぽの身体

文字数 1,249文字

あれから一体、
夜は何度訪れたのだろう。

ベッドの上に横たわる
わたしの乾いた体、
固いものにぶつかったら
粉々になりそうだ。

キッチンへ向かうと
廊下が以前より長く感じた。

ガラスのコップに水を注ぎながら
指先が慣れないことをしているみたいに
かすかに揺れを感じた。

カウンター越しに見えるリビングは
何一つ変わっていないように見え、
ここに私以外誰もいないのは
ただ外出しているだけなのかもしれない、
と思った。

そうなのかもしれない。
うねるような赤い渦が
母を飲み込んでいったあの出来事、
二度と触れることの叶わない場所へ
一瞬で引き離されたこと、
それもただの
悪夢だったのかもしれない、と。

コップの水を飲み干し、
宙を仰ぐ。

2回目の父の知らせを思い出す。
結局、父の遺体とは
対面することが叶わなかった。
すぐに火葬されたらしい。

母は、あのあとすぐに
神使いが自宅にやってきて、
鎮魂の儀式を行った。

どちらも国がすべてを執り行った。
わたしには他に親族がいないし。
面倒なこともなく、
誰にも気に留められることもなく、
誰かの指揮のもと、学校の行事のように
滞りなく終わったのだった。

それも夢だったの?
わたしは問いかけた。

視線をおろすと、
ソファーの上には
わたしの両腕で抱えられるくらいの
四角いボックスが置き去りにされたままだった。

数日前、新聞社の人が
父の所持品を持ってきてくれたもの。
わたしたちの最後の対面。
でも、まだ、
わたしはその箱のフタを
開けることができない。

亡くなってしまった事実を
受け入れたくないという抵抗。
それから、
もし箱の中から
わたしの知らない

が出てきて、
また私の心を
打ち砕くかもしれないと思う疑念。
こんな時でも
そんなことが浮かんだりする。

ふたりを失った悲しみだけじゃないから。
わたしを置いていった悔しさと
怒りに似た気持ちを感じているんだ。
その思いは、子どもの頃から
両親の間に入れないと思っていた
あの頃の小さなわたし、
その子がこの手をひいているんだ。

それでも、
それでも恋しいな。
本当に、ふたりとも
ただ外出しているだけで
この世界のみんなが大きな嘘をついていて、
もうすぐこの茶番の幕が下りて、
ぜんぶが元通りになったらいいな。

そう思う気持ち。
この気持ち。
それがね、本当なんだよ。
それがわたしの本当の気持ちなんだよ。
わたしは自分に聞かせるように
呟いた。

サイレンの音
車の急ブレーキの音
誰かの叫び声
部屋の中をBGMのように流れている。

まだ同じことが
続いているのだろう。
この場所はそれを終えてしまったから、
スポットライトから外れ
世界の影に移行したみたいだ。
とても静かで
どこにも存在していないみたいに。

わたしは
陽が沈んでいく窓の外を見ながら
時を感じようとした。

”死”と出逢った日、
見えない巨大な力と衝突し、
その衝撃でこの身体に
大きな穴ができた。

そこから
自分の大切にしているもの
信じているものが
砂の城みたいに崩れ、
現実と連動しながら
するするとこぼれ落ちていく。

止められない動きに対して、
“なぜなの”という
ありふれたことばが、
空っぽの身体の中を漂っていた。
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