第1話

文字数 1,997文字

 自分が十六歳だった時の話をしようとするとき、僕はひどく陰鬱な気持ちになる。
 例えるならそれは、自分の身体がゆっくりと海に沈んでいく感覚とよく似ている。あるいは、泥沼や砂丘なんかでもいい。抵抗を諦め、無気力に沈んでいく僕の心は底の見えない場所へとゆっくり、ただゆっくりと落ちていく。陰鬱さと無気力さは、近いところにあるのではないかと僕は思う。 
 
 僕はその時、新潟港から佐渡島の両津港に向かうフェリーに乗っていた。曇り空に猛々しいフェリーの汽笛が響き渡り、たくさんのうみねこがフェリーの上空をくるくると旋回していたのをよく覚えている。
 甲板の上では帽子を被った女の子が、うみねこたちに向かって手に持ったスナック菓子を必死に投げつけていた。器用なうみねこたちは、女の子が袋からスナック菓子を取り出そうとしたタイミングで一気に上空から下降し、フェリーと並走を始める。そして女の子の手からスナック菓子が離れるのを見た瞬間、一つのスナック菓子を何匹ものうみねこが奪い合うのだ。僕はフェリーの甲板の上でうみねこ達の小さな戦争をぼんやりと眺めていた。

 当時中学三年生で、明日には卒業式を控えた僕がどうしてたった一人でこんな場所にいるのかを説明するのは簡単だった。
 僕は逃げ出していたのだ。家族とか学校とか、そういう生活に必要不可欠なあらゆる物事から。向かう場所はどこでもよかった。とにかく遠くに行きたかったから、僕は飛行機に乗り、電車に乗り、フェリーに乗った。そして、行き着こうとしていたのが佐渡島だった。
 
 『たった今、僕がたまたまこのフェリーから転落してしまったら誰か気づくのだろうか?』という考えが僕の頭に浮かんだのは、新潟港が見えなくなり、自分の周りを取り囲んでいるのが意思を持つように規則正しいリズムで揺れ動く大海原だけだと気づいた時だった。そしてその突拍子もない問題に対して、十六歳の僕は真剣に頭を悩ませた。
 両親は僕が佐渡に向かっていることを知らない。佐渡には親戚も誰もいないから、彼らが僕の居場所を予想することはできないだろう。
 フェリーの乗組員は船から落下した僕に気づくのだろうか? 切符の販売枚数を数えれば乗船したお客さんの人数は割り出せるだろうが、下船する時その人数を果たして数えているのだろうか。いや、さっきフェリーが新潟港に到着した時には下船する人数をカウントしているように見えなかった。

 僕はそこで大きく息を吐き出す。その白い息は僕が進む方向とは逆と流されていく。
 やはりだれも僕が転落したことに気づかないだろう、と僕は思う。――落下する場面を誰にも見られていなければ。
 僕は手すりから身体を乗り出して、大きく揺れ動く海面をじっと見つめてみた。轟音をたてながら海面にその飛沫の跡を残していくその姿は、まるで映画に出てくる怪獣がある都市を踏み荒らした跡みたいだった。
 『死』というのを僕がちゃんと意識したのはその時が初めてだった。僕は大きく、暗く、冷たい海の中に一人で呑み込まれていくことを想像しないわけにはいかなかった。そしてその意思を持つ波は僕を呑み込もうと手招いているようにも見えた。
 
 気づくと甲板に人の気配はなく、さっきまでいた女の子もいなくなっていた。どうやら今、甲板にいるのは僕だけらしい。僕は手すりからもっと身体を乗り出して、もっと近くから海を見たいと思った。不思議なことに、僕の目に映る広大な海は緩やかな温かみを持って僕を迎え入れてくれるような気がした。まるでワタシは母なる海なのよ、と主張するみたいに。

 その時、一匹のうみねこが甲板に降り立ち、僕の目の前にとことこと歩いてきた。エサを強請りにきたのだろうか。しかしあいにく僕にはなにもあげられるものは持っていなかった。うみねこは僕の周りを二、三周したあと、羽を広げて甲板から飛び立っていった。
 群れの中に戻っていく一匹のうみねこをひとしきり眺めてから、僕はもう一度規則正しいリズムで揺れ動く海面へと視線を戻す。するとさっきまで慈愛に満ちた表情はそこにはなく、海面は冷たい表情で僕を見返していた。濃密な『死』のイメージもどこかに離散してしまっていた。
 僕はその時、自分で命を絶つタイミングを逃してしまったのだ、と思った。あの瞬間だけが、自分の人生を終わらせることができる唯一のチャンスだったのだ。その証拠に僕は今あの真っ暗な海に飛び込むのがものすごく怖くなってしまっていた。

 船室から甲板に上がる階段から弾むような明るい声が聞こえる。振り向くと、さっきの女の子がお父さんの手を引いて嬉しそうにさっきのうみのこ達のことを話していた。それを皮切りに甲板には次々と人が集まり始めた。まるで世界が勝手に色を取り戻したみたいだった。
 僕は視線を今、フェリーが進んでいる方向へと向ける。遠くにはぼんやりと佐渡島の姿が見えた。
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