第1話 オールドサム

文字数 22,711文字

 私は演劇のメッカとも呼ばれる小劇場が集まる街に、詰め込めば五〇人ほどが入れる『JOE』という店名のライブハウスを営んでいる。
 もともとこの辺りは戦後のどさくさの頃に、バラック建ての小料理屋が乱立していたというのだが、その安さと気軽さが当時の演劇志望の若い年代に受けたのか、自然発生的に小さな演芸場なり小劇場なりが建ち並ぶようになったという。

 その後の高度成長期に合わせてこの街も新陳代謝を繰り返し、演芸場は別のエリアに移り、結果として飲み屋と小劇場が共存する独特の世界を作っていた。
 小劇場に出入りする人間達は世離れしていることが多い。それは演者も観客も同じである。ある者は時代に反逆し、ある者は時代に絶望し、やりきれなくなるぎりぎりになってこの街に流れてくる者も少なくない。

 そんな街であればこそ、いつしか世の中についていけないアウトローや、変わった嗜好を持つ人間が集まるようになり、それはそれで一般常識とはかけ離れた文化の醸成に役立っていた。それは人間の持つ喜怒哀楽という感情を、とことんまで突き詰めた時にだけ得られる自虐的な快感がもたらすパラドクスとでも言えば良いかもしれない。

 私は、もう狂気としか表現できない舞台で、まるでそれが人生の全てと言わんばかりに体現する妖しい目つきの連中が闊歩するこの街の、どろどろとした空気感がたまらなく好きで、還暦を迎えた今でもつい住み続けている。
 今でこそ近くにマンションが数多く立ち並び、私鉄の駅も複数出来ていれば、街中の繁華街と変わらない風景を目の当たりにするのだが、少し奥まった路地に入れば、入るのに躊躇する店は幾つもある。私の店もそんな一画にあった。

 私の店では主に週末になると多い日では十組ほどのバンドが、朝から晩まで個性の強いライブを展開している。特にジャンルは決めていないので、カントリーもデスメタルも、時には穏やかなフォークが流れたりもする。私が何も言わないことを良いことに、いつしか勝手にプロデュースする人間が現れたりもする。
 私はそれもまた自由で良いと思っている。この街では誰にも束縛されず、何者にも強制されないという不文律が今も息づいているのだ。

 そして何よりも私がこの街に住み続ける最大の理由は、こんなカオスの街だからこそ起こる奇妙な出来事が、私にはこの上ない刺激なのだ。人はそれを非現実的な妄想と言うが、私はそれでいいと思っている。私の目の前で確かに起こる不可思議な現実を、私は誰かに認めて貰おうなんて思わないし、否定する気もさらさらない。全てを自然な出来事として受け入れているのである。


 そんな私の店にかれこれ十年ほど前から、月に一度か二度通う常連さんがいる。
 彼はバンドを組んでステージに立つようなことは一切しない。しないと言うよりも出来ないのかもしれない。何故なら彼は私より一回り以上年上の後期高齢者なのである。
 そんな彼が店に来る時の出で立ちがまた変わっている。他の人間はTシャツだのダメージジーンズだの、見た目すぐに分かるバンド小僧であるが、彼はいつも絵に描いたようなロカビリーファッションなのである。

 おそらく染めているはずの黒髪を、ワックスでがっちり固めたリーゼントに、五〇年代を彷彿させるビンテージスーツ、シャツの柄から履いている靴まで完璧に仕上げてくる。もちろん彼が来た時は私も気を遣って昔懐かしいロックンロールを流している。彼はその曲を聴きながら目を閉じ、指を弾きながら体をリズムに合わせて揺らしている。
 彼の名前が『三郎』なので、店に来始めた頃は『さぶちゃん』と呼んでいたが、このファッションが店に定着してからは、誰からともなく『サム』と呼ぶようになっていた。

 サムがやって来るのは決まって土曜の夜と決まっている。しかし週末の夜はライブが目白押しで、彼が好むアメリカンオールディーズが響くのは稀である。そんな時のサムは、店の扉からちょっと顔を覗かせるだけで寂しそうに帰って行く。
 そんな彼の為という訳でもないが、私の店では不定期ではあるが、ざっくりと三ヶ月に一度くらいはロックンロールパーティーを開催している。私の趣味ではないが、サム以外にも熱狂的なオールディーズファンがいて、これがまた高校生からサムに近い年齢まで実に幅広いのである。
 何事も自由を前提にしているこの店のコンセプトからすれば、客からのリクエストがあれば、やらない訳にいかないのであった。


 今夜はそのパーティーがあるわけでもなく、ライブも珍しく入っていない土曜だった。
 サムはいつものように、頭からつま先までびっちりとロカビリーで決めている。特に今夜はピンクを意識しているようで、ピンクのストライプの入ったシャツにピンクのサテンのスーツである。この街が小劇場の立ち並ぶ場所だからこそ彼の姿は違和感なく受け入れられるのだが、これが普通の飲み屋街であれば目立って仕方がない姿である。 

 サムは軽くステップを踏むように店に入ると、指定席のカウンター席に座った。

「今夜もご機嫌ですね」

 私が軽い口調で彼に挨拶すると、サムもリーゼントの形を気にしながら答えた。

「ちょっといいことがあってさ」
「何ですか? いいことって」

 サムはしたり顔で笑っていた。

「マスターも、もうじき分かるさ」
「私が? 何だろう」

 人生の先輩でもあるサムがそう言うのだから、いずれ私にも彼の言う『いいこと』が訪れるのかもしれないが、全く見当がつかない。

「そんな、もったいぶらないで、教えてくれてもいいでしょう」

 私がたまらずに尋ねると、サムは「聞きたいか?」などと悪戯っぽく笑ってから言った。

「昨日は年金支給日だったんだ」
「はぁ?」

 確かにサムは年金受給者である。それ自体は国が決めたルールに則っているのだから、文句を言う気は全く無い。ただ、ピンクのサテンのスーツを着て年金受給者だと言われても、どうにもピンとくるものがない。

 そもそもあまり過去を語らないサムが随分前に聞かせてくれたところによると、彼は六〇歳の定年を迎えるまではそれなりの会社に勤めていて、当時とすればかなりまとまった退職金を貰ったそうである。
 彼の今の家族構成は知らないが、サムの年齢であれば子供達は既に独立して孫の数人がいてもおかしくはない。子供達が独立して別に住んでいるのなら、サムは彼の奥さんとの二人暮らしになるわけで、生活費などしれたものである。
 それを考えれば退職金で十分に老後は過ごせるはずで、年金が支給されたからと言って特段喜ぶ話でもないと思うのだが、彼は喜色満面だった。

「何か不満そうだな」

 私が呆れたようにサムを見つめていたので、逆に彼の方が耐えられなくなったようだ。

「そんなわけじゃないですけど……随分と気楽な隠居生活だなと思って」
「隠居生活か、マスターも上手いことを言うな」

 サムはそう言って、この歳でまだ入れ歯の一本も無い歯を見せて笑った。
 私は彼がいつも注文するアメリカンコーヒーをたてながら「今日は何をかけましょうか」などと尋ねた。
 サムはちょっと考えてから答えた。

「来週のパーティーじゃ、スローダンスもやるんだろう?」
「もちろん。ツイストばかりじゃ疲れるでしょう」
「じゃあ、スローバラードが聴きたいな。チークで踊れるやつ」

 私は出来上がったコーヒーを彼の前に差し出した後、棚に並んだCDケースを探ってみた。しかし彼が希望するような曲が見つからない。
 次に私はステージの裏に厚いカーテンで隠されるようにある小部屋に行くと、壁一面が収納になっている棚の扉を開けた。そこには私が学生の頃から集めているLPレコードが、数百枚ほど仕舞われていた。
 私はその中から一枚を取り出すとカウンターに戻り、CDの並んだ棚の下を開けレコードプレイヤーを引っ張り出した。

 昔懐かしい真っ黒なレコード盤を取り出し、ターンテーブルの上に置くと、ゆっくりと針を落とした。
 レコード盤独特の「ピシ、パシ」というノイズの後、ゆったりとした歌声が店内に響きだした。サムが神様ともあがめるプレスリーもカバーした『The Righteous Brothers』の『ふられた気持ち』だ。

 サムはイントロが聴こえただけで目を閉じ、肩を揺らし始めた。
 いくら派手な装いで身を固めても、私の目の前で体を揺らすサムの顔には皺が目立ち、シャツから覗く手の甲には半世紀を軽く超える歴史が刻まれている。満足そうに眼を閉じるサムの顔を見ていると、私はサムと同じ年齢になった時、果たして今の彼のように満足げに目を閉じて音楽に浸れることが出来るだろうかと考えてしまう。

 人の人生は様々だとよく言うが、本当にその通りだと思う。私は残念ながら家族を持つことは出来なかったが、サムは奥さんと子供達のために。それこそ身を削って働いて来たに違いない。
 彼が現役の頃はこの国も戦後の復興を果たし、いよいよ高度成長期に突入しようとする頃だ。受験戦争に悩む子供、同僚の間でのあからさまな出世競争、そんな生きにくい時代をサムは家族の為に必死に働いて来たのだ。

 私はサムが目を閉じているのを良いことに、その姿をじっと見つめていた。家族の為に、そして自分の為に、やれる事はすべてやりつくした顔だと思った。

 ふいに店の扉が開いて二人の若い女が入って来た。
 近くの大学の学生でジュディとルカであった。この名前はもちろん本名ではない。うちのオールディーズパーティーに参加するメンバーは、それぞれ勝手にパーティー用の名前をつけてそれで呼びあっている。ちなみに私は、パーティーの時だけなぜか『トビー』と呼ばれている。
 二人の今日の姿は、何処にでもいる女子大生と同じで、カジュアルなシャツにジュディは短めのスカート、ルカは白のデニム地のパンツ姿だ。これがいざパーティーとなると、髪は定番のようにポニーテールにヘアバンド、赤地に白の水玉模様のシャツと、フリルのついたスカート、足元はローファーで決めて、何処から見てもフィフティーズに変身するのだ。

 二人はサムの姿を見つけると、隣の席に並んで座った。

「こんばんはマスター、こんばんはサムさん」

 ジュディがサムに挨拶すると、彼はゆっくりと目を開けた。

「ハイ! ジュディ」

 二人は肩より高い所でハイタッチを交わし、ルカとも同じようにハイタッチで挨拶していた。

「今夜のサムさんは一段と素敵ですね」

 ルカが満面の笑みで話すと、サムもまんざらでもない顔をした。

「そうか? さすがにサテン地は派手かなと思ったんだけど、似合うかな」
「もう最高! 今度のパーティーもこれで来てください。きっと盛り上がりますよ」

 ジュディもルカと同じ様に満面の笑みである。サムは彼の孫と似たような年齢の彼女達と対等に張り合っている。見ていて微笑ましい部分もあるが、私は年相応の落ち着いた色合いの服も彼には似合うと思う。それは私が精神的にサムより老いているという事だろうか。

 ジュディが私に向かっていきなり言った。

「そうだ、マスター、当日頼んでいたバンドなんだけど、急にメンバーが揃わなくなって、ちょっとヤバイんだ。どこかにドラム叩ける人はいないかな?」
「おいおい、もう何日もないんだぞ。今頃そんな風に言われても困るな」
「やっぱ無理そうかな」

 二人は暗い顔をしているが、私にしても突然言われてすぐに良い案が浮かぶはずもなかった。

「まぁ、心当たりは探してみるけど、ぶっつけ本番になるぞ」
「そうなるかな」
「そうさ、ハードロック系なら何人かは声をかけられるけど、そいつらがオールディーズとなると、やっぱり二、三回はリハしないとな」
「困ったわ」
「そう言うお前達にも困ったもんだ」

 私達のやり取りをじっと聞いていたサムが、横から言葉を挟んできた。

「そのバンドって、この前ここでやった『ギャラクシーズ』のことか?」

 ジュディがさっきまでの満面の笑みとは真逆の、深刻な顔を見せた。

「そうです。ドラムのメンバーが急に仕事が入って来られなくなったって、ついさっき連絡があって、どうしようかと思ってマスターに相談に来たんです」

 サムもいつになく深刻な顔で、腕を組んでじっと何事かを考えていた。やがてその腕を解くと二人に言った。

「使い物になるかどうか分からないが、ちょっと心当たりがある」
「本当ですか!」

 ジュディとルカの顔に一瞬にして光が差していた。

「サムさん、その人に頼んで貰えませんか」

 ジュディが身を乗り出すようにサムに頼みこむと、ルカも「どんな人なんですか」などと矢継ぎ早に質問している。サムは二人の迫力に押されて、思わずのけぞっていた。

「そう焦るなよ。まだ向こうが受けてくれるか分からないんだぞ。話はそれからだ」

 サムはそう言って胸の内ポケットからガラケーを取り出し、反対の胸ポケットからは老眼鏡を取り出し、鼻の上にちょっとかける感じで乗せると何やらガラケーの画面で操作を始めた。その姿は紛れもなく後期高齢者の姿であった。
 彼は探していた電話番号が見つかったのか、ガラケーを耳に当て向こうが電話に出るのを待っているようだった。

「もしもし、ジュンちゃん? 三郎だけど」

 どうやら先方と話しが繋がったらしい。サムは電話機を耳に当てたまま席を立ち、私やジュディ達とは少し離れた所で何かを語っていた。時折笑い声が上がる所を見ると、かなり親しい人物だと思われた。

 サムは十分ほど話すと電話を切り、元の席に戻って来た。

「どうでした? 上手くいきましたか」

 ルカが辛抱溜まらず尋ねると、サムは悪戯っぽくウインクして見せた。

「大丈夫、オッケーだってさ」
「やった!」

 ジュディとルカは飛び上がらんばかりに喜び、その場で抱き合っていた。

「随分と親しい方なんですね。その人は」

 サムは照れ笑いとも苦笑いとも言えない複雑な笑みを浮かべた。

「いやね。今電話をしたのは三宅順二と言って、高校時代の悪友なんだ。昔はよく遊んだけど、社会人になってからはほとんど会ってなくてね。最後にあったのは八年前の同窓会の時だったかな」

 ジュディとルカは唖然とした顔でその話を聞いていた。

「あの、八年前に会ったきりですか?」

 ルカの問いに、何を訊くのかとサムの方が不思議な顔をしていた。

「そう、八年前」
「随分昔だと思うんですけど、よくこんな突然のお願いを受けて貰えましたね」
「そうかな。私達にしてみれば八年前なんて、つい昨日のように感じるけどな」

 確かにそうかもしれない。私も還暦を迎えて思ったのだが、一年の過ぎるのがどんどん早くなって行く気がするのである。
 つい最近正月が終わったかと思ったら、すぐにお盆が来て、あれあれと過ごしているうちに、いつの間にか年末になっているのである。これを『光陰矢のごとし』と言うのかもしれない。

「それでその人はドラムの経験はあるのですか?」

 今度はジュディが心配そうに尋ねていた。サムはそんな彼女の気持ちなど全く気にならないかのようにコーヒーカップを口に運んでいた。

「彼はね、若い頃バンドを組んでいたんだ。高校生の頃にね。あの頃バンドを組むなんて不良がやるものだなんて言われていた時代なんだけど、彼はそんなの平気でね。当然ドラムセットなんて無かったから、順ちゃんは米軍基地の近くのクラブでドラムを叩いていたんだ。米兵の好みだからと、演る曲はほとんど五〇年代のオールディーズさ。確か高校を卒業して働きだしてからも、夜はクラブやホールで叩いていたって聞いてる。だから今度のパーティーにはピッタリだとは思うんだが、何せ本人が言うにはここ二十年はドラムセットの前に座ったことがないってのが気になる所なんだな」

 ジュディとルカがまた絶句していた。代わりに私が尋ねた。

「サムさん、本当にその人で大丈夫なんですか? 本番でお手上げだなんて言われてもどうしようもありませんよ」

 サムは全く動じず、ドラムの彼を完全に信頼しきっていた。

「大丈夫さ。米軍のクラブで鍛えた筋金入りだ。頭では忘れていても体は覚えているもんさ。ただ当日は早めに来て少し音合わせをしたいって言っていたけど、それは大丈夫かな」
「それは大丈夫です。私達も含めて準備の為にかなり早めに集まりますから」
「じゃあ大丈夫だ」

 サムはそう言って自信満々に胸を張るのだが、私も含めてジュディとルカは、まだどこか半信半疑で、本当に大丈夫だろうかと心配そうな顔をしていた。


 そのオールディーズパーティー当日がやって来た。
 午後六時三〇分開場でスタートは七時だったが、午後四時にはジュディやルカを初めとする運営メンバーが揃い、他にも男子学生やその友人達も集まり、店内のテーブルは全て壁際に移され、ステージの前には踊るのには十分な広い空間が出来た。

 ステージにはいつでもリハーサルが始められる準備は出来ていたが、肝心のバンドはまだ到着していなかった。私はというと特に何をするでもなく、彼等の動きを見て時々指示するだけだった。食事は外からのケータリングだし、私が忙しくなるのはパーティーがスタートしてからのドリンク類の提供からであった。

 やがて楽器を手にしたジュディ達と同じ年頃のバンドメンバーが入って来て、それぞれが「今日はお願いします」などと言って私に頭を下げて行く。私も全く知らない顔ではないので「今夜もよろしく」などと言って、軽く手を挙げて答えていた。

 彼等は早速ステージに上がると楽器のセッティングに入った。ギターが二人にピアノの女の子が一人、ベースは渋くウッドベースである。このバンドがうちで演奏するのはこれで三度目でかなり時代を意識しており、楽器一つとっても中々考えているようである。
 しかしこの時間でもまだサムとその友人のドラマーは顔を見せていない。ステージ上のメンバーのチューニングも終わり、そろそろリハーサルを始めなければならない時刻になって、まるでそれを計ったかのようにサムと、その男が入って来た。

「悪い、悪い、ちょっと出かける直前に用が入って、すまない」

 申し訳なく頭を掻くサムの姿は、この前のピンクのサテン地のスーツである。頭はもちろん一段と気合の入ったリーゼントだった。
 そんなサムの隣に、彼よりも背の高いがっちりした男が立っていた。その男の姿を目にした時、店の中が静まり返った。

 何しろベージュのハリウッドジャケットに襟の大きな濃紺のシャツ、頭はサムに負けない本格的なダックテイルだった。何処から見ても古き良きアメリカを連想させた。

「こいつが三宅順二、通称は順ちゃん。よろしく」

 サムがジュディとルカの前に彼を連れて行って紹介すると、順ちゃんの雰囲気にのまれたのか二人の女の子は「よ、よろしくお願いします」などと、しどろもどろになっていた。
 その後サムは私の方に近づき、同じように紹介してくれた。

「今日は急なお願いですいませんでした。よろしくお願いします」

 私がそう言って頭を下げると順ちゃんは、優しい笑顔で言った。

「いいえこちらこ。楽しみにやって来ました。ただ三郎から聞いていると思いますが、ちょっとブランクがありますから、少し練習させてください」

 今改めて私は、サムの名前が三郎だったことを思い出した。三郎がサムであるように、この人も何か別の呼び方の方が若い連中には受けるのではないだろうか。

「あの、うちのパーティーでは、皆アメリカンネームで呼びあっているんです。私は『トビー』で三郎さんはサム、そんな感じです」
「へー、それは奇遇だな。私が若い頃米軍基地の近くでステージに立っていた頃は、米兵に『グレッグ』と呼ばれていたよ」
「グレッグ? どうしてその名前になったのですか」

 彼は欧米人がよくやるように、大きく両手を広げて驚いて見せた。

「さー、分からない。何故だろうね。でも気に入っているんだ」
「じゃあグレッグさんで」
「グレッグでいいよ」

 彼はいつかサムがしたように、軽く右目を閉じておどけて見せた。年を取ったとは言え、若い頃本場のアメリカンサウンドに触れて来た人物である。一つ一つの動作にもどこかオールドアメリカンを感じさせる。私は今夜のパーティーの盛り上がりが見えるようだった。
 その後サムはいつものようにカウンターのいつもの席に座り、グレッグはバンドメンバーと顔合わせをするためにステージに向かった。

「いい人ですね」

 私が素直な感想を口にすると、サムも満足そうに首を振ってこたえた。

「そうだろう。まあ、ブランクはあると言っても、ここで演ってる若いのより相当場数は踏んでいるから大丈夫さ」

 グレッグはドラムセットの前に座ると、最初はスネアやバスドラ、タムの調子を調べるように叩いていたが、何の前触れも無くいきなりフィルインから小気味よいビートが響きだした。
 全く狂いも無く規則正しく刻まれるリズムワークは、安心して命を預けられる船長のようだ。グレッグより遥かに若い周りのメンバーもその正確さと疾走感に思わず目を合わせていた。

 そのうちギターの男が、私にすればもう何万回も聴いたと言っても過言ではない聞き慣れたフレーズが聴こえてきた。『Johnny B. Goode』今更何の説明もいらない名曲中の名曲である。
 ギターの二人はドラムのリズムに乗せて軽い掛け合いをやった後、サイドギターを担当する男が前に進み出てヴォーカルを取りはじめた。ドラムとベースの造りだすリズムラインの上にギターが被さってくる。その微妙な隙間をピアノが埋めていく、完璧な構成だった。

 ステージ上の五人は、今日初めて会ったとは思えない息の合った演奏を続けている。傍らでそのリハーサルの様子を見ていたジュディやルカ、他のスタッフ達も驚きを隠せないでいた。私自身もそのレベルの高さに、以前に聴いた同じバンドとは別物に聴こえていた。

 やがて一曲目が終わると、メンバーはそれぞれ微妙なチューニングを初め、それと共に店の中の準備を進める手も早まって行った。そんなざわついた店の中にいきなりヴォーカルの声が響いた。『Blue suede shoes』これも今更説明する必要も無い。五〇年代の代表曲であった。
 彼等は二曲目も息の合った所を見せ、サイドギターやピアノを弾くメンバーからは自分達も楽しんでいるかのような笑顔が見えていた。

 二曲目が終わった所で一応の音合わせは出来たのか、グレッグがサムの元に戻って来た。

「いやあ、年は取りたくないもんだな」

 グレッグが右足を摩りながら息を切らせている。

「大丈夫か? 長丁場だぞ」

 サムが心配そうに覗き込むが、グレッグは人懐こい笑顔で答えた。

「大丈夫さこれくらい。俺を誰だと思っているんだ」

 私もその一言で、何とか今日は乗り切れると安心するのだった。

「それにしても凄いですね。若い連中もびっくりしてましたよ」
「そうか? まぁ、こんな疲れた爺さんでも、その気になれば何でもできるってことさ」
「じゃあ今夜のステージは楽しみだな」

 私達がそんな話で盛り上がっていると、ルカとバンドリーダーらしい男がやって来た。

「すばらしいドラムでした。みんな感動していました。本当に来ていただいてありがとうございます」

 ルカが深々と深々と頭を下げると、グレッグは照れたようにはにかんだ。

「こんなドラムで良かったら、いつでも呼んでいいよ」

 私がルカに彼のアメリカンネームは『グレッグ』だと教えると「イメージにぴったり!」と喜んでいた。その背後からリーダーが曲の打ち合わせをしたいとグレッグの隣に寄り添い、小さなメモを広げて今夜の曲順を決めているようだった。

 やがて開場が近づいてくるとジュディやルカ、バンドメンバーも着替えると言って、順番に奥の部屋に入り、出て来た時には華やかな衣装に変っていた。私もいつもの黒のTシャツではなく、五〇年代を意識して首に黒の蝶ネクタイをしたボーイ姿に変っていた。

 店の中には黒い壁一面に原色の飾りが映え、天井のスポットライトは今日はお休みで、小型のミラーボールが吊り下げられている。黒が基調の地味な私の店は、今夜に限ってはいつもと全く違う様相を見せていた。

 ついに時間となり、開場と共にジュディ達と同じ服装の女の子達や、サムやグレッグほど本格的ではないが、それなりに身づくろいした若い男達が、二人連れ三人連れで嬌声を上げながら入って来た。店の中が彼等の発する若い香りで一杯になるにはそう時間はかからなかった。

 そして定刻となり、グレッグを含めたバンドメンバーが定位置に付くと、ルカがマイクの前に立ち、一言二言挨拶したあと小さなクラッカーを鳴らした。それと同時に店内に定番のロックンロールが流れ始め、店の中央ではこの時を待っていたように踊りだす者がいた。
 アップテンポな曲であっても、スローな曲であっても、グレッグのドラムワークは全くぶれることはなかった。その正確さは完全無比と言えるほど正確で、その上にベースが乗ると安定したリズムラインが構築され、さらにその上でギターやピアノが華麗に音の祭典を繰り広げることが出来るのだ。ここにいる誰もが心 地よさを体感しているに違いなかった。

 パーティーは三〇分程度のバンド演奏の後、しばらくは休息を兼ねて歓談の場に変る。この時に男達の多くは事前に目を付けていた女の子達に声をかける。
 あるグループは意気投合し、次のバンド演奏の時には一緒に踊ったりする。残念ながら声掛けが上手くいかなかった連中は、次の相手を探すべくあちこちに目線を送るのだった。

 その中でサムとグレッグは彼等とは別の時間を過ごしているようだった。何かを語る訳でもなく、わずかに微笑みを浮かべながら目の前で踊り、そして談笑する若い年代を眺めているのである。

 私は手の空いた時に、それとなく尋ねてみた。

「どうです? 楽しんでますか」

 サムは目の前の様子から目を離すことなく答えた。

「ああ、楽しいよ。まるで昔の私達をみているようだ」

 グレッグもサムと同じ様に目の前の若い世代から目を離さず答えた。

「そうだな。俺達にもこんな時代があったよな。何だか俺達、オールドジョージみたいだ」

 グレッグは昔を思い出しているのか、懐かしそうにミラーボールを見上げた。

「オールドジョージってどなたですか?」

 私が二人の隣に腰を下ろすと、サムは照れたように笑って言った。

「昔私達が、今ここで踊っているような皆のように弾けていた頃の話さ。順ちゃんがドラムを叩いていた店に、黒人の米兵がいてね。厳密に言うと元米兵だな。名前はジョージって言うんだが、ジョージなんて名前はありふれていたから、周りの親しい連中はオールドジョージって呼んでたんだ」
「なぜオールドなんですか?」

 今度はグレッグが教えてくれた。

「なーに、年を取っていただけさ。確かあの頃、もうすぐ七〇歳だとか言っていたな」
「へーそんなアメリカ兵がいたんですか。じゃあ、こっちに定住したとか」
「まあ結果的にはそうなんだろうけど、アメリカに残してきた奥さんが彼の兵役の間に亡くなってね。子供もいなかったから、好きな日本に住み着いたらしい」
「そうなんですか。悲しい話ですね」

 サムは今日、珍しくウイスキーのハイボールを飲んでいる。そのせいか今日の彼の口は軽かった。

「それで、私達が音楽に合わせて店の中で踊っていると、オールドジョージはいつもカウンターのいつもの席から、何とも言えない優しい顔で私達を眺めているんだ」
「なるほど、それで今のサムさんやグレッグさんが似ていると?」
「そう、それでいつだったか尋ねたことがあるんだ。オールドジョージは何を見ているんだってね」
「彼はなんと答えたんでしょう」

 グレッグがまた懐かしそうに宙を見上げて言った。

「彼は言ったよ。自分は戦争で右足が不自由になって、もう踊ることは出来ない。それに歳を取りすぎて若い連中と意見も合わない。だけど、こうやって歌い踊る姿を見ていると、自分自身も楽しくなる。そしてあの血みどろの戦いを知らないこの若い連中には、このまま永遠に知って欲しくはない……ってね」

 私達の隣のテーブルでは数人の男女が何かの話題で盛り上がっている。その奥のテーブルでも何人かのグループが集まり、身振り手振りで何事かを話し、女の子達は大きな口を開けて笑い転げていた。

 サムとグレッグは若い頃、おそらくこの連中のように歓声を上げながら光り輝く時代を過ごしていたのかもしれない。そしてそこには凄惨な戦いの後、やっと掴んだ幸せの有難みを知るオールドジョージがいて、行く末を思っていたのだ。

 それを今の時代に置き換えれば、サムとグレッグはまさにあの当時のオールドジョージの心境なのかもしれない。
 私も彼等の世代に近い分、何か心に相通じるものがあり、つい二人にならって店の中の若い彼等を肉親でもないのに、ついそんな目で見てしまっていた。

 私達がぼんやりと眺めていると、あのバンドリーダーがやって来てグレッグに言った。

「グレッグさん、時間です。お願いします」
「お! もう時間か。じゃあもう一汗かくかな」

 それを聞いていたサムが笑っていた。

「一汗かくなんて、今時誰も言わないぞ」
「かくものは、かくんだ」

 グレッグは袖口のボタンを外し、二度三度まくり上げるとスティックを持ってドラムセットに向かった。
 今度のステージの幕開けはビル・ヘイリーの『Rock Around The Clock』、誰もが一度は耳にするオールディーズである。どうやら後半は否が応でも盛り上がる曲で押してくるようだ。若く、体力が無ければついて行けない世界である。
 今夜のパーティーはグレッグの飛び入りというハプニングがあったにせよ、いつも以上に盛り上がり、最後には紙吹雪まで舞い散ってしまった。


 ジュディやルカはまだパーティーの余韻に浸りたいのか帰るのを渋っていたが、気の合う男から次の店を誘われると、まんざらでもない顔で付いて行くのだった。バンドのメンバーも突然のオファーに嫌な顔一つせず、歳のハンデなど全く感じさせなかったグレッグに何度も礼を言って店を後にした。

 最後には私とサムとグレッグだけになってしまった。
 私はカウンターの中から、嵐が去った後のようになっている店内を見て、さてどこから片づけたらいいものか考えていた。こんな店を見ていると、つい愚痴も口にしてしまう。

「いつもながら、パーティーが終わると兵どもが夢の跡だな」

 するとサムがしみじみと言った。

「いつもこうなのか?」

 グレッグも明るくなって凄まじい事になっている店内を見回して言った。

「あぁ、しかしこうなるのも、私達の時代と同じじゃないか。これも若さの特権だと思えば気にもならないさ。まぁ、マスターはうんざりだろうけどな」
「そうでもないですよ。好きでやっていますから」

 私は取りあえず散らかった紙吹雪をほうきで一か所に集め始めた。
 グレッグは時計を見ながら立ち上がると、サムに言った。

「そろそろ俺達も行こうか」

 しかしサムは椅子に座ったまま、片手を上げて軽く振った。

「今夜は止めておくよ。何だか疲れたみたいだ」
「なんだよ。久しぶりだから、少し飲もうかと思っていたのに」
「悪いな。やっぱり年なのかな」

 私は掃除の手を止めることなく二人の会話を聞いていた。いくら見た目は造りこんでいても、あくまで後期高齢者の会話である。今までの店内の大騒ぎと打って変わった枯れた会話に、心なしか寂しさを感じた。

「じゃあ先に行くぞ。マスター、今日は楽しかったよ」
「ありがとうございました。是非また来てください」
「あぁ、こっちこそよろしく」

 グレッグは汗とドラムワークで乱れた髪を、胸ポケットから出した櫛で撫でつけるようにセットし直すと、意気揚々と出て行くのだった。

 静かになった店内で、私の掃除の音だけが響いていると、一人ポツンと残っているサムが気になって仕方がなかった。私はサムの後ろから尋ねてみた。

「何か飲み物でも出しましょうか」

 サムは私を振り返ることなく答えた。

「いや、ありがとう。でも今夜はもういよ。悪いね、最後まで残ってしまって」
「いいんですよ。それより何か曲でも掛けましょうか」

 私がそう言うと、彼は初めて振り返って私の顔を見た。

「マスター、私の頼みを聞いてくれるかな」
「なんですか改まって、いいですよ。後は店の掃除だけですから」

 サムはズボンのポケットから小さく畳まれたメモを渡してくれた。

「最後にこれをかけてくれないか」

 私がそのメモを広げると、サムの性格を表すように几帳面な文字が書かれていた。
『Can't Help Falling In Love』、プレスリーの定番中の定番である。サムが今、何を思ってこの曲をリクエストしたのかは分からないが、これはダンス曲としては最適のスローバラードである。

 まさか私に一緒に踊ってくれなどと言うのではないだろうか。私は一抹の不安を覚えながらCDの中からプレスリーを探し、彼の希望通りにした。ついさっきまでの大騒ぎがまるで嘘のように静まり返った店内に、気だるいイントロが流れ、やがてプレスリー独特の甘く囁くような声が聞こえてきた。
 サムは初めいつものように目を閉じてゆったりと体を揺らせていたが、曲が進むにつれてその揺れが小刻みになって来た。そして不自然に上下にも揺れ出した。私が心配になり、そっとサムを伺うと、彼は泣いていた。目を閉じたままだが、その閉じた目から一筋二筋と涙が流れていた。

 私はどう声をかけてよいのか分からず、ただじっと肩を震わせているサムを見つめるしかなかった。やがて両手で涙を拭うと、赤くなった目で私を見た。

「恥ずかしい所をみせてしまったね」
「どうしたんですか。何かあったのですか?」

 サムは目を腫らしたまま笑っていた。

「何でもないよ。いや……何もなさすぎかもしれない」
「何もなさすぎ?」

 人生の先輩の言葉はいつも重い。しかし今のサムの一言の意味は、一度では内容が理解できなかった。
 不思議な顔をしている私を思ってか、彼は胸の内ポケットから財布を取り出し、さらに一枚の写真を取り出すと、大事そうに見せてくれた。もうすでにセピア色に変色しているそのモノクロ写真には、若い男女が写っていた。

 若い男はちょうど今日のサムのようにリーゼントをがっちり決め、白のシャツにおそらく黒の細いタイ、スーツの色ははっきりとは分からないが上下とも細いデザインで、どうみてもロカビリースタイルである。
 若い女の方も、まさに今日のジュディやルカが着ていたようなフワッとしたフレアスカートに、モノクロなのでよく分からないが、おそらく同系色のシャツでベルトのウエストマークがアクセントになっていた。
 二人は顔を突き合わすようにして弾ける笑顔を見せていた。背景にフルバンドを想像させる指揮者の背中が映りこんでいる所をみると、何処かでパーティーでもやっているのではないだろうか。

「古い写真ですね」

 私が見たままを口にすると、サムが照れた笑いで教えてくれた。

「それ、私だ」
「えっ!」

 確かに言われてみれば顔の輪郭はサムだ。そして彼だと思って改めて見直すと、この若い男がサムであるのが分かった。

「随分と若い頃ですね。まだ十代でしょう」
「そうだなぁ、十七か十八くらいかな」
「サムさんにもこんな時代があったんですね」

 私が感慨深く言うと、サムは一段と照れた顔で隣に映っている少女を指差した。

「その女の子が、私の妻だ」
「へー!」

 意外だった。会社勤めの頃のサムは知らないし、今のサムからは想像するのも難しいのだが、私の勝手な思い込みではサムの奥さんは至極真面目でおとなしくて控えめ、絵に描いたような大和撫子を想像していた。それがこの写真のように、当時の流行の最先端を行っていたとは、全く予想外であった。

 私は写真をサムに返しながら言った。

「奥さんも一緒に来れば良かったじゃないですか。そんな昔があったのなら、きっとこの曲で踊れたかもしれませんよ」
「そうかもな」

 そうぽつりと言うサムは寂しそうだった。写真を手の平に乗せると、愛おしそうに撫でていた。
 サムは寂しさの中にも、幾らかの笑みを浮かべて教えてくれた。

「実を言うと今日は、彼女の誕生日なんだ」
「奥さんの誕生日、それはおめでとうございます。そんな大切な日に、こんな場所に来ていていいのですか?」
「いいんだ。妻はもう、手の届かない所に行ってしまっているから」

 私は思わず息を飲んでしまった。

「生きていれば夫婦そろって後期高齢者だった」

 サムはまた写真を撫でているが、その顔には寂しさが満ち溢れていた。

「幾つの時に逝かれんですか?」
「十年前、ガンだった」

 十年前と言えば、サムが私の店に顔を出し始めた頃になる。もしかするとサムは寂しさを紛らわせるために店に顔を出すようになったのかもしれない。

 私はじっと古い写真を見つめているサムに、何と声をかけてよいか分からない。実際、私は結婚したことがないので伴侶と共に暮らすなどという経験はないのだから、言葉など浮かぶはずがなかった。
 しかし、目の前のサムの寂しい姿はいつまでも観ていられるものでもなく、当たり障りの無い話を持ち出すしかなかった。

「何処で知り合ったんですか?」

 サムは写真をテーブルの上に置き、遠くの方を眺めるように語りだした。

「あれは確か……どこのロカビリーハウスだったかな。今夜みたいなパーティーがあってね。あの頃、私や順ちゃんは高校三年で、翌年の春には卒業して就職が決まっていたんだ。働き出すと、そうそう踊りにも行けないし、髪型も会社員風にしなければならなかったし、最後の大騒ぎって感じで、毎晩のように踊っていたな」
「じゃあ、その時に」
「ああ、バンド演奏の合間にちょっとした空き時間があって、何気に見回したら偶然目が合った女の子がいたんだ」
「その子が、奥さん?」
「そうなるかな」

 サムは照れていた。十分な老人にもかかわらず、頬を赤くしている。今夜に限って珍しく口にしたハイボールのせいかどうかは分からない。

「私の妻は女子高の出でね。男子と付き合うなんて、なかなかむずかしい時代だったんだ。でも私達は初めて会った時から、意気投合してね。それから何度も一緒に踊りに行ったものだよ」

 私はそんな昔を臆面も無く語るサムが羨ましくなってきた。愛し合い、信じ合っていたからこそ、それがごく普通になり、ごく普通に口にできるのだ。

「じゃあ初恋の人が奥さんだったって事ですか」
「あの頃はそれが当り前だったような気がするな」
「へー、そうなんですか」
「だってそうだろう。私が生まれ育ったのは戦争直後だぞ。いくら戦争が終わったとは言え、頭の固い連中がまだまだ多い時代だ。自由恋愛なんてもう少し後の時代だからね。親が決めた相手と一緒になるか、初めて好きになった相手と一緒になるか……そんな時代だったからね」

 私はサムとサムの奥さんの若かりし頃を想像してみた。今と違って『無い物』があまりにも多すぎる時代である。娯楽にしても今ほど選択肢があった訳ではない。
 そんな時代であっても、サムと奥さんは当時の最先端の流行の中で、自分達の感性を大切にしながら愛を育んできたのである。それを思うと、サムが奥さんを亡くした喪失感は、私の想像できるものではない。

「でもお子さんやお孫さんがいれば、寂しくはないのじゃありませんか?」

 私は気落ちするサムを少しでも慰めるつもりで言ったつもりだった。サムは私をちらっと見ただけで、また視線を写真の奥さんに戻していた。

「私達には子供が出来なくてね。だから孫もいないんだ」

 訊かなければよかった。私は猛烈に自分を恥じていた。先入観で軽口を叩いてしまったことも猛烈に悔いていた。私は慌てて別の話題を探すのだった。

「じゃあ、この曲は奥さんとの思い出の曲なんですか?」

 サムがゆっくりと頷いてくれた。

「そう。妻が体を壊す前には、お互いの誕生日と結婚記念日には、いつも踊っていたな」

 サムはまた懐かしそうに遠くを見ていた。

「もう一度かけましょうか」

 私がそう訊くと、彼も嬉しそうに「そうだね」などと笑っていた。


 私がまたCDをセットしようとした時、扉が開きルカが入って来た。

「すいません。まだ良かったですか?」
「どうした? 忘れものか」
「ええ、ポーチを忘れたみたいで」

 ルカはそう言って、パーティーの時自分がいたと思われるテーブル付近をあちこち探し、やがて椅子の下から赤いポーチを拾い上げた。

「あった! こんな所にあったんだ」

 ルカは嬉しそうにそれを肩から下げると、私達の方にやって来てサムの隣に座った。彼女の着けている甘い香りの香水が辺りに漂った。

「どうしたんですか二人とも、深刻な顔して」
「そうかな? そんなに深刻な顔をしていたかな」

 私はサムとの会話の流れを知られないように、あえて何でもないような顔をした。

「サムさんはグレッグさんと一緒じゃなかったのですか?」
「うん、ちょっとゆっくりしたくてね」

 サムはそう言いながら何気なく財布を胸ポケットに仕舞っている。私の頭の中で、何も知らないルカの笑顔と、写真で見たサムの奥さんの顔が重なっていた。

「そうだ。ルカはもう帰るのか?」
「そう。皆が別の店で待っているから、何か用でも?」
「用ってほどじゃないけど、十分か十五分くらい貰えないか」
「いいですよ、それくらいなら」

 私はプレスリーのCDジャケットをルカに見せながら言った。

「サムと一曲だけ踊ってくれないか」

 サムは「おい、おい」と驚いていたが、ルカは全く気にならないようで二つ返事で答えていた。

「いいですよ。踊りましょう」
「いや、私はいいよ」

 ルカがサムの手を取ってフロアに誘うのだが、サムの腰は重かった。私はそんなサムの姿を見ながらスタートボタンを押した。
 店内にまたゆったりとしたイントロが流れて来た。すると、今まであんなに拒んでいたサムが「じゃあ」などと言って、逆にルカの手を取り自らフロアの方に歩いて行った。

 私は店の明かりを落とし、ミラーボールの丸い輝きの中心に踊る彼等がいるように光線を調節した。店内の壁に、曲に合わせてゆっくりと光の玉が流れていく。
 サムはルカの腰に右手を廻し、もう一方の手で彼女をリードしていた。始めはぎこちなかったルカのステップも、サムのリードに合わせる内に次第に形になって来た。

 私はつい壁にもたれ、ふたりの踊りに見とれてしまっていた。今から五〇年以上前、何も無い時代に知り合った二人が、長い長い年月を経ても昔と変わらず踊っている。その間、二人にどんな苦労があったかは知らない。どんな辛い出来事があったのかも知らない。でも二人で踊れるだけで、そんな嫌な思い出は消えて行く。
 サムと奥さんにしてみれば至福の時だったのかもしれない。しかしそれは、今となっては叶わない夢なのだ。
 私はなぜか涙が溢れてならなかった。なぜ今ここにサムの最も愛する人がいないのか。そう思うだけで泣けてくる。こんな悲しい愛の形があって良いのだろうか。

 涙で霞む二人を眺めていた私だったが、曲も終盤になるとサムに変化が訪れていた。それまでは孫のようなルカを上手にリードしていたのだが、いつの間にかしっかりと抱きしめているのである。ルカも嫌がる素振りなど全く見せず、ただサムの胸に顔を埋めている。私はサムが感極まったのだと思った。
 曲が終わり最後の生ギターの「ポーン」と言う音がずっと響く中で、二人はしばらくそのままの姿でいた。やがてサムの方から両手でルカの肩を抱き、小声で何か言うと、ルカも嬉しそうに小さく頷いていた。

「じゃあマスター! 私行くから」
「そうか。またおいで」

 ルカはスカートの裾が翻るのも気にせず駆けて行った。

 光るミラーボールの下に立ったままルカを見送ったサムは、さらにしばらく立っていた。そして両手をだらりと下ろしたままカウンターに戻ると、私が目の前にいるのに両手で顔を覆い、泣き始めた。それは号泣に近かった。
 サムは嗚咽を漏らしながら泣いている。覆った両手の下から涙が零れ落ちるのがわかるくらい泣いていた。

「どうかしましたか?」

 私は思わず尋ねていた。これまでに、こんな取り乱したサムは見たことが無い。一体彼に何が起こったのか気が気ではなかった。

「どうしました?」

 私がもう一度尋ねると、ようやくサムは両手を下ろし話し始めた。

「家内だった」
「はぁ? どういうことですか」
「あの子が、いつの間にか家内になっていたんだ」

 そう言われても私には理解するのは無理だった。サムの嗚咽が止まり、号泣するほどの動揺も収まって来たようで、私が差し出した冷たい水を彼は美味そうに喉に流し込んだ。

「あの子と踊っていると、急に彼女の目が泳ぎ出してね。どこか虚ろになったかと思うと、いきなり彼女が言うんだ。『忘れないでいてくれたんですね』って、私が『何を』と訊くと、『誕生日と結婚記念日はいつもこうやって踊っていたじゃないですか』と答えるんだ」

 サムの目にまた涙が溢れてきていた。

「私が『おまえなのか』と訊くと、彼女は小さく首を振った。その仕草は家内の癖と全く同じだった」

 私は曲の途中からサムがルカを抱きしめたのを不思議な目で見ていたが、今の彼の話を聞くと、どうやらそんな事があったようだ。

「たまらなかった。もう忘れかけていた家内の仕草を目にすると、悪いとは思っても体が動いてしまった」

 サムは悪い事でもしたように両手を揉み合わせ、頻りと唇を噛んでいた。こんな姿のサムを見るのも初めてだった。
 そんな不思議な事が起こるものだろうか。しかし現実にサムはルカの中に亡き奥さんの姿を見ている。今日はその奥さんの誕生日、何か目に見えない力が働いたのだろうか。こんな不思議な体験が出来るのも、この街ならではなのかもしれない。

「でも良かったじゃないですか。奥さんと話しが出来て。奥さんも喜ばれていたんじゃありませんか?」

 サムは濡れた目で笑って見せた。

「そうだといいがな……」
「そうに決まってますよ」

 サムは我に返ってハンカチを取り出すと、涙で濡れていた目や頬を拭いた。

「見苦しい所を見せてしまったようだね」
「いいえ、気にしないでください。逆に私は羨ましいですよ」
「羨ましいって……何が」
「そこまで旦那さんに愛された奥さんですよ」

 サムはまた照れた顔をしていた。

「それでルカは曲の終わりには元に戻ったんでしょう」
「うん、今の事は覚えているかと彼女に訊いたんだが、『何かありましたか』なんて、何も覚えていないようなんだ」
「ヘー、不思議なこともあるんですね」
「そうだね」

 サムはグラスに残っていた冷たい水を飲み干して言った。

「マスター、今夜は楽しかった。それに最後には家内との約束も守れたし、感謝しているよ。いつか御礼をしなきゃいけないな」

 サムは立ち上がると軽く襟元を直し、多少乱れたリーゼントをグレッグがそうしたように、ポケットから櫛を取り出すと軽く髪に当てていた。

「そんな気にしないでください。私の方こそサムさんのお蔭で良い夜になりました。多分今夜の寝つきはいいでしょうね」
「そう言ってもらえると有り難いな」

 サムはそう言うと声を上げて笑い、軽く右手を上げて店を出て行った。彼が髪に手を伸ばしたのでポマードの香りが残っていた。


 それから数日後、私が表で店開けの準備をしているとジュディとルカがやって来た。

「マスター、この前はありがとうございました」
「あれからどうした? まだ盛り上がったのか」

 ジュディが申し訳なさそうにもじもじしていた。

「結局終電に間に合わなくて、私達ネットカフェに泊っちゃいました」
「なんだ外泊かよ。あまり感心しないな」
「すいません。今度から気を付けます」

 同じようにもじもじしていたルカが、サムが気になるらしく尋ねて来た。

「サムさんはあれからまだいたんですか?」
「いや、ルカが帰ってすぐに彼も店を出たけど、何か?」
「いいえ、何でもないんです。いつもながらサムさんはダンディだなと思って」
「それだけ?」
「ええ、それだけです」

 やはりサムが言う通り、ルカにはあの時の記憶が無いようだ。しかし、それはそれで良いことかもしれない。

 私が二人に店に入るか尋ねると、今日は別件でコンパがあるという。数日前にあれだけ騒いで終電に遅れたというのに、懲りもせずにまた飲み会などと、若くなければ出来ないことだ。私は彼女達の若さについ嫉妬している自分が恥ずかしかった。

 何も無い時のライブハウスは静かなものである。たまにはこんな時間も無ければ、この世界に慣れた私でも疲れてしまう。私は、店は開けたものの特に客が来ることなど期待せず、好きなブルースをかけながら昨日までの請求書や領収書の整理を始めるのだった。
 誰も来ないまま時刻は八時を過ぎていた。小腹が空いたこともあり、パスタでも作ろうかと腰を上げた時、一人の客が入って来た。

 グレイの地味なスーツを着た年配の男だった。
 その男はキャスター付の大きなキャリーバッグと、抱えられるほどの大きさのボストンバッグを持っていた。黙って突っ立ている男が口を開いた。

「マスター、今晩は」
「今晩はって……誰?」

 私が目を細めて出入り口の方に視線を送ると、その男が明るいライトの下までやってきた。その顔を見て私は驚いてしまった。

「サムさんじゃないですか。どうしたんですか? その恰好は」

 私が驚くのも当然だった。今夜のサムはいつもの派手なロカビリーシャツではなく何処にでもあるスーツ姿で、何より今夜の彼の頭はリーゼントではなく、白髪だらけの頭髪をきっちりと七対三に分けていたのである。彼は二つのバッグを持ったままカウンターの私の前まで来た。

「マスター、そんなに私の姿が可笑しいかい?」
「い、いや、そんなんじゃなくて……驚いたな」

 サムはそれも当然と、笑いながら椅子に腰を下ろした。

「いや、マスターが驚くのも無理はないさ。こんな姿で店に来るのは初めてだからね」

 確かにその通りである。彼との付き合いは何だかんだと十年はあるが、こんな格好で顔を見せたのは、後にも先にも今日しかない。

「いきなりどうしたっていうんですか?」

 サムは「コーヒーを入れて欲しい」と私に頼むと、年相応の落ち着いた口ぶりで話し出した。

「実はねマスター、私はアメリカに行こうかと思っているんだ」

 サムの口からいきなりアメリカなどという単語が出て来たので、私は思わず目を見開いていた。

「へー、それもまたいきなりですね」
「そう、いきなりだと私も思う。でも、私も後何年生きるか分かったものじゃないから、体が少しでも動くうちに、やりたい事をやろうと思って」

 私はコーヒーを立てながらサムの話を聞いていた。

「この前の夜、しばらくぶりに家内の声を聞いてから、私は気がついたんだ。家内が生きているうちにやりたかった事が、今もって出来ていないことに。もちろん家内が先に逝ってしまったから出来なかったってこともあるけど、ここは思いきろうと思ったんだ」
「それが渡米するってことですか」
「そうなんだ。私達には子供はいない。だから誰かの為に財産を残す必要も無いから、私に働く必要が亡くなった時、一緒にアメリカに行こうと二人で決めていたんだ」

 私は出来上がったばかりのコーヒーを彼の前に差し出した。

「私はいいと思いますよ。サムさんが今日までがんばったご褒美と思えばいいじゃないですか」
「そうだろう? マスターもそう思うだろう」

 サムはまだ熱いコーヒーをブラックのまま口元に運び、その香りを楽しんでいた。

「それでいつ発たれるんですか? その荷物からすると今夜とか」

 私は冗談のつもりで言ったつもりだったのだが、以外にもサムに「そうさ」などと軽くいなされてしまった。

「えっ! まさか本当に今夜行くんですか?」
「そうだよ。今夜の深夜便で日本を発てば、明日の丁度いい時間帯には向こうに着けるからね」
「へー!」

 私にすれば驚きの連続である。この前のあの夜のことがサムの心に火を点けたのだろうか。

「それで滞在はどれくらいなんです? その荷物だと二週間くらいですかね」

 サムはコーヒーカップを持ったまま意味深に笑っている。そしてゆっくりとソーサーに戻すと、軽く一息ついた後言った。

「定住しようかと思っている」

 開いた口が塞がらないとはこんな時を言うのだろう。後期高齢者の男が身一つで渡米し、しかも見ず知らずの土地に定住しようと言うのだ。私にすれば無謀としか思えない。

「でもアメリカに定住するってことは、アメリカ人になるってことじゃないんですか? そんな簡単になれるものですかね」

 サムはまだ笑っていた。

「マスターは、何を古臭いことを言っているんだ。アメリカは自由の国だ。やりたい事は口にして、自分から動けば何とかなるものさ」
「言葉はどうなんですか? サムさんは英語は出来るんですか」
「できないよ。でも三ヶ月も英語だらけの中にいれば、少しは話せるようになるさ」
「はぁ」

 これが二〇代前半の若いやつが言うのなら「がんばってこい」と背中も押せるが、サムはあくまで皺が目立つ老人なのである。彼のどこにそんなエネルギーがあるのだろう。

「まぁ、サムさんがそこまで決めたことなら、私は何も言いませんが、くれぐれも無理しないでくださいね」

 サムが今度は悪戯っぽく笑って言った。

「実はマスター、今急に決めたような話をしていたけど、実は違うんだ」
「違う? どういうことですか」
「実は三年前にロスアンゼルスの郊外に、日本で言う老人ホームを買っていたんだ。当時はまだ分譲を募っていた頃だったけど、いずれそこで家内の思い出と一緒に過ごそうと思ってね。それで、その老人ホームが一年前に完成して、いつ渡米しようか考えていたところだったんだ。そこにきてこの前のパーティーの夜のような幸せな一時を過ごせたんだから、ここらが潮時かなと思ってね」

 サムが白い歯を見せていた。
 それから彼は今住んでいるマンションは親戚が使うことや、車は業者に販売委託したこと、そして古い友人達に短い手紙を書いたことを話してくれた。

 そしてサムは最後に、ボストンバッグをカウンターの上に置いた。

「マスターにはこれを貰って欲しいんだ」
「何ですか」

 私がそう言ってバッグを開けると、おびただしい数のCDが出て来た。どれもこれも五〇年代から六〇年代の洋楽CDであった。
 私の店にもこの年代のCDやレコードはあるが、数にしてみればこの三分の一程度である。ここまで凝った収集には相当な時間とお金が必要だったと思う。

「いいんですか? 向こうに持って行けばいいじゃないですか」

 サムはカップに残ったコーヒーを飲み干して言った。

「マスター、私がこれから何処に行くか聞いただろう? そんなCDでなくても、これからは本場の音楽を生で聴けるんだよ」

 全くその通りだった。わざわざ日本から持って行く必要など、何処にも無かったのである。私もサムにつられて笑ってしまっていた。
 彼が支払いをしようと財布を出すので、私は「餞別です」と言って受け取りを拒んだ。彼は「安い餞別だね」と言って、また笑った。

 サムはキャリーバッグを引きながら歩き、最後に言った。

「じゃあ、ジュディやルカによろしく言っといてくれ。それから順ちゃんがもし顔を出したら、私は張り切って旅立ったと伝えてくれるかな」
「あの人には何も言わないで行くんですか?」
「照れ臭いんだよ」
「分かりました。じゃあサムさんも向こうで落ち着いたら連絡をください」

 サムは後ろ手に右手を振って店を出て行くのだった。


 それから半年後、彼から航空便で葉書が届いた。今の時代、エアメールという物も珍しく、ジュディやルカには大うけだった。何もメッセージは無かったが、葉書の裏側が自由に編集できる写真になっていて、そこにはオールドアメリカンを思わすパブのような場所で、若い連中に囲まれて笑っているサムの姿があった。その写真を見ながら私は思った。きっとサムはこう呼ばれているだろう『オールドサム』と。

            ー了ー
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