二章 女人

文字数 23,122文字

助けてくれ、裕美子。


「うふふ」


僕は全くもって無力な存在だ。


「可愛い坊や」


裕美子、どこだ、どこに居る。助けてくれ、僕を、僕を助けてくれ。

鼻頭が痛い。豊満な胸に頬を挟まれ、胸の谷間の肋骨に僕の鼻が押し潰されている。咽るほどきつい『女の匂い』に包まれて、呼吸をするのが辛い。


「私の優ちゃん」


母はどう振る舞えば男が悦ぶのか知っている。精通前は悪戯のように僕の身体を弄び、精通後は母の慰み者として僕は生きていた。

裕美子、僕を助けろ。汚らわしい、汚らわしい。

僕は僕を成した技でもって、僕を楽しまれる。女というものが、どうしようもなく嫌いだ。

だから、


「ックソ!!」


昔の夢を見て飛び起きては啜り泣く日々を僕は送っている。そして、裕美子は幼子をあやす声色で僕の名を呼ぶのだ。


「優」

「煩い!」


外は薄暗い。日が昇り始めているのか、夜が薄らいで青くなっている。隣で寝ていた裕美子を見ると、叩き起こされたからか不機嫌な面持ちで、しかしその瞳にしっかりと僕への同情を揺らして僕を見つめていた。『母性』に満ちた、腹立たしい濡れた瞳で。裕美子は美しい女だ。母も美しい女だった。だから裕美子を見ていると、傍にいると、どうしようもなく辛くなる。その辛さが苛立ちなのか恐怖なのかはわからない。ただ、女という生き物が気持ち悪くて仕方がないのだ。

僕と裕美子は遠縁にあたる。十一歳になった時、僕は裕美子の両親に養子として引き取られた。借金で首が回らなくなった母が僕と無理心中を図り、失敗したのだ。苦労を嫌うくせに金遣いが荒い。母はそういう女だった。僕を殺し損ねた母は、夜の世界へ逃げた。『趣味』の情事を『商売』に変えたのである。女というのは、なんて傲慢な生き物なのだろう。僕は女を見るだけで身が竦む。話すと動悸がおかしくなる。攻撃的になる自分を律するのも難しく、涙が止まらなくなる。自分を花に例えるなんて、女はなんて傲慢な生き物なのだろう。どれだけ謙遜していても、女は皆、自分を花だと思っている。ただそこに佇んでいるだけで蝶のように美麗な男や、蜂のように働き者の男が自分に仕えてくれると思っている。そこに自身の美醜は関係ない。『女だから』という理由だけだ。そして、『女』とはそういう生き物だ。

母は相当まずい男に入れあげていたらしく、右の鎖骨から乳房の間に花に集う蝶の墨を入れている。借金を重ね続け、客に性病を移されたことをきっかけに夜の世界から逃げ出し、唯一の近縁である祖父(僕から見て曾祖父にあたる)の家に母は身を寄せた。曾祖父は都会で生まれ育ったが、趣味の山登りで立ち寄った栗野崎を気に入り、定年後に引っ越して静かな老後を送っていたらしい。母が幼い時分は随分と優しくしてくれたそうだ。曾祖父の元で面白おかしく暮らすつもりだったのだろう。匿ってもらって、甘やかされて。幼子の悪戯を優しく諭す好々爺の曾祖父を母は舐めきっていたのである。しかし、母の思惑通りとはいかなかった。当然だ。僕を引き取るに際して、裕美子の両親と曾祖父の間で一悶着あったのだ。

そもそも『曾孫』がいることを曾祖父は知らなかった。母の悪行についても何も知らなかったのだ。男に入れあげ、借金を苦に無理心中。それに失敗して殺し損ねた息子を捨てて、夜の商売で生計を立てている。長い長い人生の中で、最大で最悪の青天の霹靂だっただろう。祖父はのこのことやって来た母の顔を見るなり髪を掴んで引き摺り倒し、馬乗りになって母を殴りながら栗野崎中に響き渡る声で母を罵倒した。曾孫に一目会いたかったのか、母に対する情かは分からない。祖父は母の借金を肩代わりした。母を徹底的に躾け直して『真人間』にしてから、僕に謝罪させるつもりだったらしい。有難迷惑もいいところだ。

栗野崎での母の評判は『頭の悪い女』だ。祖父の『教育』に対する鬱憤を晴らすため、露出の多い派手な格好で出歩き、周りの女達を『田舎者』と馬鹿にしていた。住民と良好な関係を築かなければ孤立するというのに。本当に頭の悪い馬鹿な女だ。

結局、母が真人間になることはなかった。祖父が病で急死したのである。

母は祖父の家財を受け継いで暫く過ごしていたが、自身の煙草の不始末で住む家も飯を買う金も燃やし、素行の悪かった母はこれを機に虐められるようになった。今、母は心労で顔が窶れ、頼る当ても無く、性病のため夜の世界に戻ることも出来ず、祖父という『軛』が無くなっても栗野崎から出ることもできずに、河原で寝起きする悲惨な暮らしを送っているという。

いい気味だ。落ちぶれるところまで落ちた女。僕の人生の汚点。薄汚れた母を一目見なければ気が済まなかった。どこぞで野垂れ死んでいるだろうと、だから忘れようと必死になって僕は『僕』として生き始めたというのに。『人』としての生活に希望が湧いていたのに。所在を知ってしまった以上、事情を知ってしまった以上、僕の人生を歪めた女の末路を一目見て溜飲を下げなければ、この殺意に似た怒りは収まらないのだ。

裕美子の父が口を滑らせたあの日、僕は確かに『殺意』を抱いた。今は、分からない。ただ安心したいだけなのかもしれない。因果応報という言葉を信じたいのか、母がもう僕に纏わりつく力が無いことを確認したいのか。僕は普段全く冗談を言わない癖に、その日は冗談めかして、


「母を見たら、殺してしまうかもしれないな」


と言った。顔は全然笑えていなかったと思う。けれど裕美子はいつも通りへらへらとして、


「そりゃ大変だ」


ただそれだけ言って、僕と一緒に栗野崎に来た。何がしたいのかわからないまま栗野崎に来てしまった僕を、裕美子は何も言わずにじっと見つめてくる。僕を見守っているのか、監視しているのかは分からない。そしてそれが、裕美子の眼差しが酷く腹立たしい。僕に『そんな』意気地がないと言われているような気がするからだ。

裕美子は恵まれている。医者の父親と、奉仕活動が生きがいの母親。産まれ持った美しい顔と身体、勤勉であることを苦と思わない才女。誰もが羨む人生を送っているくせに、裕美子はひたすら孤独を感じている。僕にはそう見えた。飄々とふざけて誰とでも親しくなって、敵を作らない。孤独だと感じているくせに、自分の理解者など居ないと、誰も相応しくないと言うように『迷彩』を作っているのだ。

僕が思うに、裕美子は孤独に酔っている。処女である自分を崇高だと崇め、綺麗だと思っているのだ。他の花なんかより一等綺麗な、誰にも手折られない花だと。裕美子を悪く言う奴はいない。誰からも愛されている。それは表面上だけのことで、内心では妬んだり僻んだりされているのかもしれないが、裕美子が『優等生』であり、『人気者』であることに違いはないのだ。そんな女が、僕が『弟』だからというだけで少し特別に振る舞うのが気に入らない。僕なんかの為にこんな田舎町まで着いて来て。哀れで、馬鹿な女。


「どこに行くの?」

「決まってんだろうが、馬鹿」


僕は裕美子を跨いで部屋を出た。音を立てないようにする癖は幼少期に身についた。母が連れ込む男は皆、乱暴者で、僕の生活音に一々文句をつけて殴ってくるような男が多かったからだ。そういう輩を母は毛嫌いしていた。暴力が嫌いなのではなく、自分の『大事な玩具』に傷がつき、壊れるのが嫌だからだ。僕を庇うように男を突き飛ばし、僕を慰める。屑のくせに母親面をして、自分の母性に溺れるのだ。クソが。吐き気がする。

裕美子ならぎいぎいと鳴る階段の踏面も、がらがらと人の出入りを知らせる摺り硝子の玄関扉も音を鳴らさない。まだ薄暗い栗野崎で母を見つけるために、僕は今日も町を歩く。

この町は腹立たしいほどに小川と水路が多い。母は三つの川辺を転々としている。一所に留まっていると川辺の近くに住んでいる町民から『臭い。他所に行け』と怒鳴られるかららしい。町民の邪魔にならないようひっそりと寝起きできる場所が三つしかないので、数日おきに移動しているのだ。

時折町民に母のことを尋ねると、母を虐めている後ろ暗さからかあまり良い反応はされなかった。しかし僕が母の息子だと知り、僕の用意した『筋書き』を聞くと僕を無下に扱うことをせず、恐らく『自分は虐めを肯定する人間ではない』と示すためか、嬉しそうに、そして気まずそうに母について語ってくれた。

かつての華々しい容貌は老婆のように窶れ、顔の皺に汚れが溜まって黒く染まり、できものだらけの肌をしているという。歯は黄ばみと黒ずみで汚れて、虫歯で溶けて歪み、酷く臭う。髪は藁のように荒れ、川の水で洗った襤褸を着て、町民から嘲笑と共に『施し』を貰いながら、川辺で採れる草や鯉を食って飢えを凌いでいるそうだ。肺水虫や顎口虫、針金虫といった寄生虫だらけの鯉をだ。正気の沙汰ではない。そこまでして生きたいのかと呆れてしまう。そこまでしなければ生きられないのか。僕はその事実に堪らない喜びを感じる。

母の末路を一目見たくて堪らない。清々しい気持ちになって、母を忘れられるだろうか。母を忘れることが出来ず、母を殺してしまうのだろうか。


「兄ちゃん、兄ちゃんヨォ」


風景として通り過ぎようとした町民が僕を呼び止めた。頭は剥げて前歯が欠けている。痩せた身体にある皺が彼の年齢を容易に特定させた。老人だ。僕はうんざりする。この町の老人達は信心深い。一つの信仰の元に強く繋がり、信心が足らぬ者には排他的である。つまり僕のような、鯉を『ただの魚』と見ている人間には冷たいということだ。老人というのは長話が好きだ。鯉の歴史やら栗野崎の成り立ちやら熱狂するのは構わないが、興味のない話を聞く振りをするこちらの身にもなってほしい。


「迷子かナ?」

「えっ?」

「そんな顔、してらァ」


老人は用水路に居る鯉に餌をやっていたのか、右手に麩の入った袋を持っている。『早く寄越せ』と言うように鯉達が水路の中で暴れていた。


「母ちゃん探してこンな田舎まで、よう来たなあ」


と老人は言った。僕は少し思索して、町民達の情報網で僕のことが知られているのだろうと見当をつけた。


「あの、母をご存じで?」


僕が問いかけると、老人は牛蒡のように細い腕を組む。


「兄ちゃんの、歳ァ幾つだ?」

「二十四になります」

「ほっほ、若い若い。嫁さん貰ってもエエ歳や。けンど、生き別れた母ちゃんが忘れられず、苦労しとると聞いて一緒に住みたい言うてるんやろう?」

「そう、そうです」


老人は僕が用意した『筋書き』を掻い摘んで言った。そう、あの馬鹿女が話に釣られて現れるかもしれないので、僕は『釣り餌』として話を用意している。


『養父母の家から出て会社に勤めていたが、実母への恋しさを抑えきれず、必死に探し回った。そして、母が栗野崎に居ることを知った。母と一緒に暮らしたい。酷い生活を送っていると聞いて、とても心が痛い』


という話だ。勿論そこまで馬鹿じゃないことも考えている。報復を恐れて逃げ隠れしている可能性だってある。だから闇雲に歩き回って、見晴らしのいい場所、つまり目立つ場所から母を探すようなことはしていない。地の利は母にある。物影から僕を見て、こっそり逃げられてはどう仕様もない。六月の天候は清々しいとは言い難く、日中外に居続ければ身体をじっくりと蒸されるような暑さを感じる。そのため昼間は寝ることができない。母の活動時間は昼間だ。食事を得るために川辺をうろついているに違いない。僕は毎日毎日、昼間に日陰を歩いて、母を探している。


「黄泉戸喫」

「え?」

「知っとるか?」


予想外の言葉が飛び出てきたので、何と言われたのか聞き取ることができなかった。


「死人の食い物を食っちまったら、人の世に戻れなくなるという話よ」


『よもつへぐい』だと理解し、僕は頷く。


「はい。日本神話には余り詳しくありませんが」

「ほっほ、知っとるやないか!」


梟が鳴くように、ほうほうと老人は笑った。


「この町、見てみィ。まるで死人の国やな。床からよぅ起き上がらん歳ィ取りすぎた爺と婆ばっかりや。それを息子か娘が面倒見とる。その息子と娘も爺と婆や。兄ちゃんみたいな若い奴ァ殆ど居らん。『外』で暮らした方が幸せやろう言うて、男は『外』で仕事探して、女は『外』の男に嫁いでいった。ここに残っとる若い奴いうたら、『外』では生きていけんような子ォだけや」

「・・・と、言うと?」


何が言いたいのかわからず僅かに苛立つが、老人に不快に思われては今後の活動もしにくくなる。相手が望むように先を促すと、老人は地べたに腰を下ろした。細い体を折り曲げた姿は木の皮で編んだ籠のように見える。日陰に入るために僕も老人の横に膝をついて座る。用水路からの照り返しで目にきらきらとした光が入ってきた。眩しくて目を細める。睨んでいると誤解されないように僕は努めて笑顔を作った。僕は笑顔も作り慣れている。母の情夫が僕を気に入らず、母と寝ずに出ていけば、僕は母から強烈な折檻を受けたからである。


「身体弱い、身体欠けてる、頭欠けてる、どれかやな」


老人は困ったような、諦めたような表情を浮かべた。


「ここに来るとき、どれくらい時間がかかった?」

「丁度半日ですね」

「しんどいやろ、半日も電車に揺られるのは。昔は山を天辺まで登って、それから降りて『外』に出た。身体弱い子、欠けてる子はそんなことァできやせん。山ァ登っとる最中に身体が馬鹿ンなって、立ち往生してお終いや。どない仕様もない。けンど、電車が通ったかて、電車も乗られへん。『揺れ』っちゅうんは、健康の大敵じゃからのお」

「そうですね」


栗野崎の周りにはまるで壁の様に隔たる山がある。すり鉢状の地形で平地が少ない。その僅かな平地と山の傾斜に家を建てている。細い川や水路はまるで『櫛目』のようで、入り組んだ道と重なった傾斜のせいで町を歩くだけで一苦労である。道も全く整備されていない。山にトンネルを掘って鉄道を敷いても、往来が楽になったわけではない。


「頭の方は、そうやなあ。儂らにゃ『外』に出た後の伝手が無いのヨ。仕事も男も自分で探さにゃならん。他の子ォらも手助けはせん。自分のことで精いっぱい。手が空いてても助けはせんやろ。見返りがないわ。儂らが着いて出ることもできん。身体が持たん、気力も削られる。無理や。棺桶に片足突っ込んどるからのぉ」

「ふむ」

「出さんほうがええヤツも居るがの」


意味を含ませるように、老人は言う。


「妄言宣う、癇癪起こして暴れる、色に狂う。こういうのは『御子様』が一番嫌うヤツや。この町では、御子様に嫌われた奴は長くは生きられん」

「みこ、さま」


僕が幼児の様に台詞を繰り返すと、老人は目を見開いた。


「知らんか」

「すみません、詳しくは・・・」

「神様の嫁さんや、この町で一等偉い神様のな」

「はあ・・・」

「なんやなんや兄ちゃん。本を読まな分からん日本神話は知っとるくせに」

「す、すみません」


しまった、と思った。栗野崎で鯉についての情報は集めたが、『御子様』という存在については初耳だったのだ。老人の機嫌を損ねてしまったかと思ったが、彼は抜けた歯を見せてほうほう笑いながら僕の肩を叩く。女の裕美子より細い僕の身体は非力な老人の力でもがくんがくんと揺れた。


「うおお」

「知らんで当然。神様は神様でも、十八の娘の見た目や。それも大層なべっぴんさんやで。敬虔な爺婆共の中にゃ、御子様のためなら何でもやるような奴も居る。見世物なんかにされたら半狂乱になるやろうナ。秘密なんや、御子様のことは。兄ちゃんは『特別』やで」

「そ、そうなんですか?」

「そうや。この町のことなら、御子様はなんでも知っとる。この町のあっちこっちで鯉が泳いで、儂らを見とる。御子様は鯉の言葉が分かる。町のことは何でも知っとる」

「・・・母のことも、ですかね」


老人の目をしっかりと見て言うと、彼は気まずそうに目を伏せて、それから口をもごもごと動かした。


「兄ちゃん」

「はい」

「『九相図』は知っとるか」

「・・・はい、死体を野外に打ち捨て、朽ちていく過程を九段階に分けた絵画ですよね」

「見たことあるか」

「はい、あります」

「『土左衛門』は知っとるか」

「・・・ええと、水死体、のことですよね。色白の力士の名前が由来だとか」

「そうや。あのな、兄ちゃん。儂は見た。絵やない、力士やない、本物や。ええか、ええか兄ちゃん。儂は、見た」


そう言って老人は語り出した。薄気味悪い話題に僕は顔を僅かに顰める。話の意図が分からない。


「野晒しにされたモンは、少しすると膨らむ」


肪脹相。

腐敗したガスで死体が内側から風船のように膨らむ。眼球や舌も膨らむので目蓋が眼球にこじ開けられ、口の中は頬の肉と舌に押されて満杯になる。指も奇妙に折り曲がり、肌は人の物とは思えぬ、灰とも紫とも見える色に変色し、手足は硬直する。


「そん次ァ、身体から臭い汁が出てきて」


血塗相。

溶解した体液が体外に滲みだす。まるで塩をかけられたなめくじの様に辺りに染みを作り、骨に張り付いた肉は腐って黒みがかった青に変色する。髪も段々と抜けていく。


「身体が溶ける」


肪乱相。

筋肉や皮膚が溶解する。人は腐って溶けるのだ。死や死体を神聖視している者は、これを直視できるのだろうか。


「そんでな、肌の色が変わる。驚くほど青くなる」


青お相。

死体が黒みがかった青ではなく、青黒くなる。空の色でも海の色でもない。人が腐った青色だ。手首に透けて見える血管の色に肌が変色するのである。


「虫が沸く、鳥が食う。獣が散らかす」


だん食相。

食い散らかされ、腐った汁と肉があたりに散らばる。啄み噛みつき引きちぎり、死体はその度に命無く蠢く。食物連鎖に組み込まれ、虫と病原菌の苗床となる。


「そこまでしてようやっと骨だけになる」


骨連相。

若者が洒落で身に着ける頭蓋も骨も、死体を焼かなければこういった段階を必ず踏んでいるのだ。


「少しずつ少しずつ、雨風に削られて土に還る」


古墳相。

後に建てられた墓ですら、雨風に削られていずれは無くなる。文字通り生前の姿である『生前相』と死んで間もない『新死相』で合計九つになる。


「儂は見た」


と、老人は締めくくった。話し疲れたのか、それとも本当に思い返しての精神的疲労か。老人は肩をゆっくりと上下させて、深呼吸を繰り返している。


「土左衛門はな」


そうして呼吸を整えると、深く深く肺の中の空気を吐ききり、胸を膨らませて大きく息を吸った。


「それが水の中で起こるんや。まず、膨らんだ身体が水に浮きよる。ずうっと水ン中におるから皮がふやけて、柔らかァなって、あちこち剥げよる。青くはならん。肉の色で真っ赤や。腐りが酷ゥなると黒くなって、虫や魚や鳥に食われて、骨だけになって、白ゥなる。これを『鬼』やと例えるモンがおる程に恐ろしゅうてな。ええか、兄ちゃん。儂は見た。鯉隠しなんて戯言じゃ。こんだけ水が多い町で、足ィ踏み外して溺れた人間を、儂は見たことが無い。なんでや、なんで浮かんどらん。わかるか、兄ちゃん。儂は見たことが無いんじゃ」


一息で言い切り、老人は再び深呼吸を繰り返す。僕は老人に、何か、鬼気迫るものを感じた。


「あの・・・」

「それでええ」


何が言いたいのかさっぱり分からない。母の話に関係があるとも思えない。しかし、痴呆老人とは思えぬ理知的な発音での問答であった。


「はよ帰り、ここは地獄の入り口。呪いを持ち帰ることになるで。兄ちゃん、はよ帰り。迷子になる前に」

「あ、はい・・・」


帰る。どこへ。裕美子の家へ。養子の僕に、女が怖くて社会に出ることができない僕に優しい、裕美子の両親が居るあの家へか。家へ帰ってせめて何か役に立とうと家事をしようにも、完璧な母であることが楽しい裕美子の母が居る。うだつのあがらない文筆をずっと自室ですることになる。大学病院で産婦人科医として働いている裕美子の父の伝手で、小説家として末席を汚して。ずっとそうやって生きていくのか。駄目だ、それでは駄目なんだ。


「お前の母ちゃん、名は『明恵』やったか?」

「えっ?」


老人はゆっくりと指先で宙に字を書いた。僕はそれを目で追い、母の名前だと確認する。


「こんな字ィと違うかな?」

「そ、そうです!! 母を知っているんですか!?」


老人は少し言い淀み、枯れ木のような手で自分の顔をくしゃくしゃと撫でてから柔和な笑みを浮かべる。


「アレは可哀想な女やの。自分の悪行が後ンなっていっぺんにツケ取りに来よった。昼間はどっかで魚ァ釣っとるはずやで。自分の髪の毛を束ねて作った釣り餌でな。鯉には虫にでも見えるんかのお?」

「どこに居るかはわかりませんか?」

「うーん。人の目に付かんよう、隠れとるはずや。家を燃やしてから随分と虐められとったからな。見かねた奴がたまに金やら飯やら着る物を恵んでるみたいやけンどな。よう分からんわ」

「そう、ですか」


僕が俯くと、老人は僕の肩を掴んで優しく揺すった。


「言うてええことか分からんが、時々兄ちゃんのことを喋っとった。自分には可愛い息子が居る言うてな。町に居る『若い子』を連れてる女を見つけては、『わたしの産んだ子は健全よ』と言うてたからな」


僕はその言葉を聞いて目を見開くほどの怒りを感じた。身体が震える、体温が上昇するほどの怒りだ。老人は吃驚した顔で僕を見て、おろおろと慌てふためく。


「おお、薬缶みたいになってもうて。すまんな兄ちゃん。やっぱり言わん方が良かったなあ」

「い、いえ。すみません。ちょっと気分が優れなくて」

「ごめんなあ」

「大丈夫です。ありがとうございました」

「うん、うん。もう帰りや、兄ちゃん」

「はい、失礼します」


僕はゆっくりと立ち上がった。気温に蒸された身体と、おぞましい話を聞いて『それ』を想像してしまう気持ち悪さ。そして母への怒りでくらくらと眩暈がする。とても、とても身体が重い。結局、有益な情報はあまり得られなかった。しかし老人の妙な物言いが気になる。何故そんなことをするのだろうか。広い道には僕と老人しかいない。辺りの民家から生活音は聞こえない。静まり返っている。聞き耳を立てても水路のせせらぎと鯉の暴れる音で会話は掻き消えるだろう。だとすれば、鯉が御子様に『告げ口』するのを恐れているのか。最高に馬鹿馬鹿しくて下らない。その場を立ち去ろうとした僕に、老人は引き留めるようにもう一度こう言った。


「黄泉戸喫」

「あの、それはどういう意味で」

「ここの鯉は食うたか?」

「はい?」


聞き返した言葉が肯定に聞こえたのか、老人は細い身体を揺らして、一層高い声でほうほうと笑う。


「うまかったろ、うまかったろ。一度食うたら、他の魚なんてとても食えやせん。鯉の虜になってまた食いたくなる。兄ちゃんの曾爺さんみたいにな。『うまいモンは独り占めしたくなる』。儂の言う『黄泉戸喫』たァ、そういうことよ」

「観光客が増えれば、自分達の食い分が少なくなる」

「よーう分かっとるなあ! ほっほっほ!」


呼び止めたくせに追い払うように手を振って老人は去っていく。水路の鯉に笑みを浮かべ、何事か呟いている様子だった。


「・・・チッ、仕様も無い」


結局この日も母の姿を見ることはできなかった。このところは出歩くのも酷く億劫になって、眠ると明日が来ると思うと吐き気がしてくる。疲労の蓄積量が限度を越えつつあった。母への執念が僕の原動力だ。しかし燃料はあっても、機械である身体の方に『ガタ』がきている。何故、僕の人生はこうも上手く行かないのだろう。とぼとぼと帰路に就く。燃えるような夕焼けに馬鹿にされている気分だ。

葵荘に着いた僕は、音を立てずに玄関の引き戸を開け、階段を登る。これは一昨日知ったことなのだが、葵荘には僕と裕美子以外に宿泊客が居たようだ。井上誠という名の女だ。あまり化粧慣れしていないのか、綺麗に整えた眉と少し赤すぎる唇以外は特筆すべき個所が無い顔立ちである。小さな背丈と垢抜けない顔から一見少女のように見えるが、廊下に備え付けられた椅子に深く腰掛け、赤ら顔のまま彼女は眠っている。円卓の上には空の酒瓶が二つと、食べ物が盛られていたのだろう皿が数枚あった。きつい酒の香りが廊下に充満している。どういう訳だか昨日の朝から酒浸りの様子だ。田舎町とはいえ、不用心すぎる。しかし『部屋に戻って寝ろ』と言う親切心も文句も勇気も僕には無い。今日は酷く疲れている。早く眠ろうと自室の戸を開けるとそこからも酒の匂いがして僕は心底うんざりした。付き合わされたのか、自ら進んで呑んだのか。そんなのはどちらでもいい。座布団に座り、物思いに耽る裕美子を苛立ちを込めて軽く蹴った。裕美子はすぐにふざけた顔になった。


「きゃあ、家庭内暴力だわあ!」


けらけらと笑っている。僕は態と愚か者を蔑むような冷たさを視線に孕ませた。


「僕が嫌いなものは何だ?」

「酒と煙草と女と博打。健全ですねえ」

「で?」

「勘弁してよお、女なのはどうしようもない。酒だって好きで呑んだんじゃないんだしさあ?」

「ほーう? どういう言い訳なんだ? 情状酌量の余地があるか、聞いてもいいぞ」

「様子がおかしいんだよね。急にあんなに呑みだして。『お酒は得意じゃない』って言ってたのにさ。どうも何か隠してるみたいなんだ。一緒に呑んでいればそのうち口を滑らすんじゃないかと思って・・・ね?」

「滑ったか?」

「滑りませんでした」

「美味かったか?」

「美味しゅうございました」

「はー、使えねえ」


風呂に入るために寝間着を準備しながら僕は裕美子に悪態を吐いた。


「ふええ。お許しください、お代官様ぁ」

「これ以上、僕を疲れさせるんじゃない」

「で、お代官様。今日の釣果は?」

「変な爺さん一人」

「ふぅーん」

「妙なことを言ってたな。黄泉戸喫だの、九相図だの、水死体の話だの」

「・・・そう」


裕美子はふわあと欠伸を掻いた。その仕草は猫に似ている。本人はそう言われるのを激しく嫌っているが、その『猫らしさ』は裕美子特有の『女性らしさ』でもあった。


「少し前に雨が降ったでしょ」

「三日前、だな」

「彼女、藪の中に後ろ向きにこけたんだって。身体を庇った左手はぐちゃぐちゃ。傷は酷いけど、脱臼も骨折もしてない」

「・・・あ? おかしくないか? 後ろ向きで倒れるっていうのは、こう」


僕は座ったまま上体をゆっくりと後ろに倒した。左手で身体を庇おうとすると、手の平を地面に水平にして肩から手首まではぴんと伸びるはずだ。つまり左手首に全体重がかかる。肘や肩も無事では済まなさそうだ。


「妙だな」

「妙でしょ」

「チッ。いつ帰るんだ、あの女」

「あの子が居るから『現場不在証明』に私を使うのは苦しいんじゃないかなあ?」


冗談を言う口調と声色で裕美子はさらりと言ってみせた。


「・・・本気で言っているのか」

「優が本気なら」

「・・・はは。裕美子姉さんには、愚弟のことなんて全てお見通しという訳か?」

「そうじゃなくってさあ」


腹立たしい。裕美子の言いたいことが、長く一緒に居るせいで、僕には理解できた。人殺しになってほしくないのだろう。僕の衝動に、感情に『殺意』という答えをつけてほしくない。栗野崎に来て二週間になるというのに、母を見て、若しくは会ってどうしたいのか、僕は未だにわからないのだ。ぐちゃぐちゃの気持ちに『殺意』の名前をつけたが最後、迷うことをやめて開き直ることも自分で薄々わかっている。


「ねえ、不思議なことなんだけどさ」


考えに沈もうとする僕を、裕美子の声が現実に浮上させた。


「彼女、ここに来てから毎日毎日散歩してるんだよ。そのことを毎日私に話してくれるんだけど、かなり広い範囲を歩いてる。なのに一度も優に会ってない」

「そうだな、広い町じゃないのに。何故だ?」

「行動範囲が被っていないってことでしょ」

「・・・確かに、僕は三つの川辺を行き来してるだけだ」

「うん。で、私の推測なんだけどさ。あんたのお母さん、もう川辺に居ないんじゃないの」


確信しているのか、裕美子ははっきりと言い切った。


「どういう意味だ・・・?」

「情緒不安定になってたから、私も病院に着いて行ったの。左手の処置以外に背中の傷も診てもらったんだけどね。彼女の秘密の鍵を、医者が私にこっそり教えてくれたんだ」


裕美子は自分の服を捲り上げる。膨らんだ胸が見えかけて、僕は思わず怒鳴ってしまった。


「お、おい! 何して」

「この辺に大きな痣が二つあるんだって。それも、出来立てほやほやのやつだよ」

「あ・・・?」

「『誰かに殴られたものだろう』ってさ」


臍の周りを指差して、裕美子は真顔になる。


「争った形跡だよ」

「・・・誰と」

「そうなるよね、うん。あの子が隠してるのは、多分『誰かと争ったこと』なんだよ。白を切ってたけど、三日前の雨の日、何かあったんだ」

「誰かに、その、『襲われた』ってことか?」

「そういう感じじゃないね」

「じゃあなんだと思うんだ」

「私と間違われた、とか?」

「あ?」

「傷だらけになって帰って来たときにね、彼女、優のことを聞いてきたんだよ。背は高いかとか肌の色はどうだとか。あの顔からは想像もできないくらい、すごい形相でだよ」


訳が分からなくて、僕は首を傾げる。


「優が部屋から出て来たとき、酷く驚いた様子だった。若しかして、いや多分、うーん、高い確率で、あんたの母親があの子を襲ったんじゃないかな」

「僕の、母が?」

「傷を抉ることを言うけど、あんたの母親はあんたを気に入っていた」


僕は小さく呻く。


「父さんから聞いたでしょ、栗野崎で大人しくしてたのはお爺さんが怖いのもあったんだろうけど、優にもう一度会ってやり直せると思ってたからって」

「それがどうした!」

「あーっ、私に怒んないでよ」

「・・・あ。わ、悪い」

「あんたの母親は、頭がおかしい」

「知ってる」

「宿無しの物乞いになったのも、爪弾きにされてるのも『自分は悪くない』と考えているに違いない。そんな女がさ、自分が大好きで仕方がなくて、『この人の子供なら産んでもいいかも』と思って産んだ優が自分を迎えに来てくれてるわけで。それを知ったら嬉しくてじっとしてられないと思うんだ。狭い田舎町だ。噂話もすぐに知れ渡る。優が母親を探していることと、私という姉、つまり『女が一人』いることはあんたの母親の耳にも届いてるだろうね」

「母に物を恵むお節介な奴もいるみたいだしな。それで?」

「あの女の頭の中じゃ、優は息子だけど自分の情夫で、私の両親はそれを取り上げた怨敵なわけでしょう。おまけに『血の繋がりのない同い年の姉』ときた。下品な想像をするヤツが結構いるのは体験済みでしょ?」

「あー・・・」


確かに、僕と裕美子が男と女の仲だと疑うヤツはかなりいる。裕美子は『血の繋がりのない』と言ったが、正確には遠縁の親戚なのでごく薄くだが繋がりはある。しかし馬鹿には『義理の』という単語がつくだけでその辺の事情はもう訳がわからなくなるようで、僕に嫉妬した男達に嫌味を言われる経験は何度もしている。そして、母も間違いなくその馬鹿に分類されるだろう。


「つまり・・・」


僕は言葉を整理した。


「女として、裕美子に嫉妬した?」


裕美子の考える正解。それは、とても下らないものだった。裕美子が、ではない。母が、である。


「三日前、優の母親は葵荘に来ていた。『一緒に暮らしたい』って話に釣られてね」

「その先はこうか、葵荘に直接訪ねることはできない。嫌われ者だし、汚い身なりをしているからな。葵荘が見える場所で、僕が出てくるのを待っていた」

「そこに、運悪く誠ちゃんが散歩に出ちゃった。あんたの母親も一応ここの住人だから、誠ちゃんは旅行者だってすぐにわかっただろうね。私と誠ちゃんじゃ、歳も背格好も違うけど」

「彼女をお前と間違えて」

「優のことを聞き出そうとした。けれど誠ちゃんは何も知らない」

「知らぬ存ぜぬでとぼけている、ともとれるな」

「思い通りに事が進まないから苛立った。嫉妬も手伝って暴力に頼ることにした」

「有り得るか?」

「有り得そうじゃない?」


過去の経験から、僕は十分に有り得ることだと思った。頻繁に口にしていた父への未練、愛の言葉。母の情夫と(嫌々)遊んでいると僕を奪い返すようにして癇癪を起した姿。情夫を罵倒した夜は必ず僕を弄ぶ。恐らくは独占欲を満たすために。自分は正しく相手が悪いと思い込んでいる女だ。情夫に殴りかかっていたことだって何度も見たし、包丁や灰皿を振り回していたことだって何度もあった。母親としての奇妙なプライドと、周りの女は全てクズだと見下すあの態度。奇声を上げるのはしょっちゅうだったし、頭の病気を持っていると言われても、何らおかしくはない。


「目先の快楽以外どうでもいいっていう生き方をしてきたんだから、曾お爺さんのときみたいに痛い目にあわなきゃ自分が悪いとは思わない」

「だろうな。自分の情夫と寝ているかもしれない女を見れば、あの馬鹿女のことだ。暴力を振るわないと気が済まないだろう」

「で、だよ。話を戻すけど、誠ちゃん、左手と腹以外は本当に藪の中に突っ込んでできた傷みたいなんだよね」

「うん」

「誠ちゃん、あんたの母親と揉みあって、それで返り討ちにしちゃったのかなーって」

「は、はあ? 返り討ち?」

「人に暴力を向けたのは初めてだったんじゃないかな。気丈に振る舞って隠してるけどすごく怯えてるし。でもあんたの母親が暴力で彼女を脅してる様子もない。優のことを聞いてきたのは一度きりだし。医者の話じゃ手の傷は『切った』んじゃなくて『硬いもので潰れた』ような傷なんだって。石か何か握って、相手のことを殴りつけたんじゃない?」

「・・・だからってそれを隠すか?彼女の行動は『正当防衛』だろう?」

「手があんなになるまで相手を殴りつけたら流石に『過剰防衛』の域に入らない?」
 

僕は石を持ち、自分の手がぐちゃぐちゃになるまで相手を殴る想像をしてみる。滅多打ちだ。打たれる自分も想像してみる。生きた心地がしない。


「・・・おおう、そりゃ隠すな。個人的には称賛の拍手を送りたいが」

「酒も呑むなって言われてるのに、痛み止めの薬と一緒に呑んじゃって、誠ちゃん、結構動揺してるね」

「ああ、わかったぞ。何が言いたいのか・・・」

「え?」

「それが事実だとしたら、もう母は見つからない」

「だろう、ね」


饒舌だった裕美子が言葉を詰まらせる。僕は落胆した。そして同時に、酷く安堵した。安堵してしまった。あの女はもう見つからない。裕美子を恐れて、正確には『裕美子と間違えて襲った』井上誠を恐れて隠れているはずだ。だから拠点にしている川辺に居なかったのだ。自分がしたことを、『姉』を襲ったことを省みれば僕が迎えに来ないことくらい理解できるだろう。いや、そこまで頭が回るかどうかは少し怪しい。何せ子は親を無条件で慕っていると信じ込んでいる馬鹿だ。馬鹿は痛い目に遭わなければ事態を把握できない。報復を恐れて僕の傍に居る女を怖いと思うだろう。僕を惜しく思いながらも、僕に会うことを諦めるだろう。

僕もそうだ。惜しく思いながらも、母と会うことを諦めた。冷静になってみれば、馬鹿馬鹿しい。どうして母を見たいだなんて思ったのだろうか。あの暮らしぶりだ、遠くないうちに野垂れ死ぬ。そうなったら、呑めないけれど祝杯をあげてやればいい。

会って何になる。会ってどうしたかったんだ。相手を喜ばせるだけじゃないか。今の僕には優しい両親がいる。眠れない日は薬を飲んで、不器用だけれど家族の一員になって、そうやって『普通の人間』として生きていればよかったんだ。怒りを感じて、殺意を感じて、母を嘲笑いたいだなんて。下品にもほどがある。僕は、僕はそんな人間ではない。

そんな人間ではないのだから。


「無駄な時間を過ごしたな・・・」

「優?」

「なあ、帰ろうか」


裕美子はぴょんと跳ねて驚いた。


「えっ?」

「諦めがついた」

「本当に?」

「付き合わせて悪かったよ」

「ほ、本当に? 変なこと考えたりしてない?」


裕美子はしつこく真意を問うてくる。僕は肩と首をぐるりと回してから裕美子に応えた。


「変なことってなんだよ」

「世を儚んだりとか・・・?」

「馬鹿」


僕は笑って、裕美子の肩を叩いてみた。今まで足蹴にすることはあっても僕から裕美子に触れたことは一度も無い。裕美子はぽかんと呆けている。


「うん、思ったより大したことない」

「もう少し優しく触ってくれないと、心臓に悪いよ」

「・・・こうか?」


ゆっくりと裕美子に向かって手を伸ばす。


「あええええ!? な、なになに!?」


裕美子はらしくない間抜けな声をあげて身を引いた。僕は伸ばして掴み損ねた手をどうしようかと考えて、少し不自然に自分の口元に戻す。何故こんなことをしようとしているのか、好奇心というには奇妙な感情が渦巻いている。


「わからん。お前、女だよな?」

「喧嘩売ってんの!?」

「いや、わかってる。女なんだ。僕が知ってる女の中で、一番綺麗な・・・」


どうしてだろう。今は女に、裕美子に触れてみたくて仕方がない。じっと観察してみるが、恐怖も嫌悪感も不快感も沸きあがらない。

母に対する苦悶を捨てられたからか?

慣れている裕美子だから平気なのだろうか。廊下に居る井上誠は。いや、分からない。裕美子は僕と、何もかもが正反対だ。男とは違うでこぼこした身体、柔らかい肉感。恐怖の象徴であった膨らんだ胸も、今は怖くない。触ってみたい。


「大丈夫?」

「いや、大丈夫だ。わかったような気がする」

「何が?」

「女って、そんな悪いものじゃ、ないよな?」

「優、前向きになるのはいいけど、無理して女性恐怖症をなんとかしようとしなくたって」

「じっとしてろ」


僕は裕美子を抱きしめてみた。背をぴんと伸ばして、裕美子は硬直している。都合が良い。腕に力を込めて、身体を密着させた。怖くない。気持ち悪くない。普段見ている裕美子よりも実物は少し小さいようだ。服の下に細い身体がある。母の身体とは、何もかも違う。母の身体はぶよぶよした肉の塊で、汗と尿と涎と体液の匂いが染みついていた。髪は煙草と香水のにおいがして、臭い。長い爪は不潔だったし、肌もべたべたとしていた。裕美子は、違う。そうだ。裕美子は違う。ふかふかと柔らかい。裕美子の好きな牛乳石鹸の匂いがする。少し汗をかいて、肌はしっとりとしている。薄い産毛がある。身体を離して、手にも触れてみたが、平気だった。切りそろえた爪は貝のようにつるつるとしている。


「平気だ」

「す、すごい・・・」

「あ?」

「すごい進歩だよ!!」


きゃあきゃあと煩いくらい騒いで、裕美子は僕の肩に触る。


「平気だ!」

「すごい!」

「どうしてだ? 急に」

「いやこっちが聞きたいわそんなの。これ、お医者様に言ったら吃驚するんじゃない?」

「どうだろう。慣れてるお前限定かもしれないぞ」

「今までは慣れてても触れなかったじゃん」

「あー、そうだな。よし。風呂に入ってくる」

「うん、布団敷いておくよ」


そうして部屋を出てから、僕は心臓が酷くうるさいことに気付いた。自分でも訳が分わからない。どうして急に裕美子に触れるようになったのだろう。母を捨てられた喜びで、その場の勢いでできたわけではないようだ。シャワーの湯を浴びて冷静になっても女を触ったことに対する拒否反応が出ていない。


「馬鹿な女・・・」


僕の病気なのに、自分のことのように喜んで。

部屋に戻って裕美子を見ても、不思議と今まで感じていた苛立ちが湧き起らなかった。それどころか、今の僕には暖かい紅茶を飲んだときのような安らぐ気持ちがあった。


「ねえ、明後日に帰らない?」

「明後日?」


布団に寝転ぶと裕美子が部屋の電気を消す。暗闇の中で裕美子は仰向けになる。真っすぐ裕美子の、女の目を見ても平気だ。白い肌が月の光で輝いているのも美しく見える。


「観光したい、かな」

「観るものないだろ」

「何もないのを観るんだよ」

「何を言ってんだ、馬鹿」

「良いじゃない。優は一日ゆっくり休んだら? なんなら、荷物をまとめてくれてもいいんだけど?」

「・・・分かった」

「本当?」

「付き合わせたからな、それくらいはする」

「やったー、じゃ。おやすみ」

「おやすみ」


奇妙な満足感があった。布団に身体が沈み込んでいく。微睡み、無音の暗闇の中で僕はゆっくりと呼吸を繰り返した。眠るのは、あまり好きじゃない。昔の夢を見るからだ。色も、形も、音も、においも、味すらも鮮明な昔の夢。

駄目だ。

母に命じられ、僕は服を脱ぐ。僕の青痣と爪で引っ掻かれた傷に塗れた身体は母の指と唇に触れられていない箇所が無い。

駄目だ、助けてくれ。

生暖かい。ぐにぐにと柔らかい手は汗が滲んでいる。汗を塗り込むように僕の身体を撫で、不潔な舌を這わせる。母はとても楽しそうだ。僕は満足に言葉も話せない。七歳か、八歳くらいだろうか。学校に行っていないので文字という概念が無い。読み書きができないので言葉を知らない。幼児のように『うん』と『やだ』しか言えなかった。


「辛気臭い顔ねぇ」


痣と切り傷に触れられて漏らした呻き声が、母には快楽から漏れる吐息に聞こえるのだろうか。それとも、ただ単に甚振って楽しんでいたのか。執拗に患部を指で撫で、押し、弾く。

助けてくれ、誰か。


「私の優ちゃん、可愛い優ちゃん。ちっとも私に似ていないわ。素敵よ。あの人に、そっくり」


僕は父を知らない。しかし、百を越える数の男に股を開き、女の矜持がちり紙と同等の母は、父だけは愛していた。母は僕を見ていない。父の面影を見ている。僕の身体を貪りながら、母は言う。


「素敵。私が愛した唯一の人」


それが僕の父だ。


「愛おしいわ・・・」


助けて、裕美子。お父さん。お母さん。

だから父にそっくりな僕を好き勝手に弄りまわし、征服欲を満たすことが母の至上の喜びなのだ。幼いながらに、僕はそれに気づいていた。

助けてほしい。苦しい。こんなのは嫌だ。

どうにかしてくれ。助けてくれ、裕美子。

母は僕の首を締めながらするのが好きだった。僕が窒息しかけると『かたく』なって良いのだと言う。

助けろ、裕美子。

ゆっくりと首に伸びる手を振り払おうと、僕は無茶苦茶に腕を振った。


「ぐえ!?」

「あッ!?」


ぶつりと夢は千切れて、裕美子の脇腹を叩いた音で目が覚める。時計を見るが二時間と眠れていない。咳き込む裕美子を泣きながら見つめて、僕は途方に暮れた。


「わ、悪い」


背中を撫でようと伸ばした手が、それ以上動かない。怖い。気持ち悪い。裕美子がどうしようもなく女だからだ。僕はその場に崩れた。自分が情けなくて仕方がない。女に対する苛立ちをどうにもできない。


「優、大丈夫?」

「触るなッ!!」


ああ、どうして。

裕美子が困っているのが分かる。僕のことを嫌ってしまっただろうか。


「クソッ、クソッ!!」


何も喋らない。僕を想ってなのか。それすら腹立たしかった。


「クソ・・・」


翌朝、目が覚めると部屋に裕美子は居なかった。あのまま眠ってしまっていたようで身体のあちこちが痛い。泣き過ぎたせいか、頭も歯も、がんがんぎしぎしと痛い。背中に布団が掛けられているのを見て、僕は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


「この状態の僕を置いて観光に行くか、普通・・・」


甘ったれたことを言ってみても自分のことを嫌いになるだけだった。


「最悪だ・・・」


何も食べる気がしない。顔を洗うのすら面倒臭い。喉が渇いて、頭が痛くて、いっそ死んでしまいたい。裕美子が帰ってきたらなんと言って謝ろうか。考えれば考えるほど身体が重くなっていく。暇は嫌いだ。考えごとばかりぐるぐると回って、逆に疲れてしまう。静かすぎると思索してしまう。時間が経つにつれて感情がそれを邪魔をする。静かなのは嫌いだ。

廊下では、また井上誠が一人で宴会をしているようだ。耳を澄ませると酒を注ぐ音や箸が皿にぶつかる音が聞こえる。咀嚼音は男女関係なく不愉快に感じるが、こういう音は良い。単調な生活音は背筋が疼くような良さがある。音に集中している間は、考えことをしなくて済む。

暫く音に聞き入っていると、ぎい、ぎい、と階段の踏面が鳴った。裕美子が帰って来たのかと僕は飛び起きた。何と言おうかと逡巡していると、控えめに部屋の扉をこんこんと叩く音がした。


「あ?」


誰だ。


「佐伯さん、おりますかぁ?」


宿を切り盛りしている、裕美子が『おばさん』と呼ぶ女性の声だった。僕に用があるらしい。思考を切り替えるために僕は軽く頬を叩いた。


「はい。なんでしょうか?」

「ああ、荷物まとめてるところでした? ごめんなさいねえ。お客さん来てるんですよ。ちょっと出てもらってもよろしい?」

「・・・客?」


僕は隠すことなく訝しんだ。栗野崎に知り合いなどいない。母が訪ねてくることもないだろう。だとしたら、情報提供のために誰かが訪ねて来たのだろうか?


「そう。お願い。出てきてくださいナ。あたしではちょっと、どうにもできないんよ」

「誰が来たんですか?」

「・・・御子様です」

「・・・・・・は?」


御子様。先日老人に聞いた、鯉の話が分かるとかいう女か。一体何のために、どうして僕のところに。


「どうしてもお話したいって言ってはって・・・。お願いしますわ、ちょっと出てもらえません? なんなら、二日分の宿泊費、こちらが持ちますから」


落ち着いているように装っているが、明らかに切羽詰まった声色だった。御子様がどのようなものなのかよく分からないが、おばさんには金銭を口に出すほど差し迫った問題らしい。宿泊費に釣られたからという訳ではないが、僕は御子様とやらと会うことにした。


「わかりました、ちょっと待ってください」

「ごめんなさいねえ」


軽く身体を伸ばしてから部屋を出て廊下を見ると、井上誠はこっくりこっくり舟を漕ぎ始めていた。おばさんはそれを見て困ったような顔をしている。彼女を起こさないようにそっと階段を降りて一階の一番奥にある部屋の前まで僕を導くと、おばさんは少し怯えた表情で立ち止まる。


「ここです。じゃ、これで」


小声で中に入るように促して早々と立ち去ろうとしたので、僕はなんだか居心地が悪くなっておばさんを呼び止めた。


「あ、ちょっと待ってください」

「・・・何でしょ?」

「あ、ええと。御子様って、『あの』御子様ですか?」

「この町で御子様言うたら、一人しかおりません」

「その方が、旅行客の僕に、話を?」


そうだ、間抜けなことに今まで気付かなかったが、おばさんが何か用件を聞いているかもしれない。


「あたしに聞かれても困りますわぁ」


しかし、おばさんは苛立ちを穏やかな声に含んでそう言った。


「・・・そうですね、すみません」


『女』にそんな風に言われては、僕は強く出られない。仕方なく未知の会見に向けて僕は覚悟を決めた。女と二人っきり。個室に閉じ込められるのは拷問だ。だというのに、昨夜の裕美子との行為を思い出すと不思議と気分が落ち着いてくる。怖がったり平気だったり、自分でも自分がよくわからない。


「失礼します」

『どうぞ』


部屋の扉を開ける。正方形の小さな部屋だった。物が置かれていない。普段何に使っている部屋なのか全く想像できなかった。二階の造形には(素人判断だが)無駄が無いので、増築するために無理やり拵えた部屋なのかもしれない。その部屋の中央、座布団の上に鎮座している『御子様』とやら。どこからどうみても人間の少女だ。病的な程に肌が白い以外は神秘性など微塵も感じない。この季節に長袖の黒いワンピースを着ているのは不気味だが。


「どうぞ」


さっきと全く変わらぬ声で座布団に座るよう勧められた。僕は大人しくそこに座る。彼女との距離はあるが部屋が狭い。それが少し辛かった。背中にじんわりと汗が滲む。こっそり太腿をつねって己を奮い立たせ、乱れた呼吸を相手に聞きとられないように細心の注意を払った。


「あの、お話というのは」

「佐伯優さん?」

「・・・はい」


御子様は鳥が首を動かすように小刻みに首を左右に振っている。


「二十四歳」


どこでそれを、と言いかけた口を僕は引き締めた。


「明恵を探している」

「そう、です」


名を呼び捨てたことに違和感を覚えながらも僕は頷く。


「会ってどうするの」

「・・・どうも、しません」

「じゃあ、どうして探しているの」

「もう、探していません。荷物をまとめて、明日には帰るところです」

「そう・・・」

「あの、お話というのは」

「知ってるの」

「・・・・・・え?」

「どこにいるか、知ってる」


彼女はそう言ってポケットから写真を取り出した。僕に向けて細い腕を伸ばす。その手に握られた写真を見て、僕は思わず硬直した。母が、佐伯明恵が、あの女が映っていた。


「明恵」

「どこに・・・」


三枚の写真。その内の二枚は恐らく最近の物だ。妖怪か魍魎のような、『人』としての生活をしていない母。一枚は、木の枝に括り付けた糸を垂らして釣りをしている。もう一枚は、新聞紙に包まって草むらの中で眠っている姿だ。こちらはかなり至近距離から母を撮影している。最後の一枚は、恐らくこの町に来たばかりの母。胸元がざっくりと開いた赤い服に身を包み、下品な栗色の髪を揺らして、ポーズを取って撮影者に微笑みかけている。花に集う蝶の墨。化粧をして、自信満々と言った表情のその顔は、忘れたくても忘れられなかった顔だった。


「貴方の話をしたわ」


御子様は幼女のように拙く喋る。息苦しい。酸素が足りない。怖い。怒り狂っているのに泣きたくなる。


「右の太腿の内側と、左のお尻、菊座の横に、黒子があるんでしょ?」

「っ・・・!」


一瞬で怒りが僕の脳みそを煮えたぎらせた。


「『おしっこを見せなさい』って言うと、泣きながらやってくれて、とっても可愛かったって」

「あ、あ、あんた、本当に母を知って、話して!!」

「私のお腹で作ったモノなんだから、私の身体にぴったりなのは、当たり前よね、って」

「っぐ・・・」

「舐めるのがとっても『上手』なのよって。小っちゃな舌で一生懸命舐めてくれて、とっても気持ちよかったって言っていたわ」


呼吸が荒くなるのが分かる。

こいつ、こいつは、何処でその話を聞いた!


「何もしない? 会っても何もしない? 本当に? あの女に言い包められて、何も知らないんでしょ?」

「・・・裕美子のことか!?」

「賢いわね、噂通りよ。ねえ、何もしないの? 酷い目に遭ったのに、どうして何もしないの? 明恵は今でもあなたで遊びたいと思っているのに?」

「なんだと・・・」

「変なの。あんな馬鹿な明恵から、貴方みたいな聡い子が産まれるのね。・・・ああ、そう、そうだわ。貴方が一番怒ることをまだ言っていないわね。これを聞いても、まだ何もしないのかしら。何もしないと言うのなら、大人しく帰ります」


声色も、表情も全く変えずに、


『私が優ちゃんを男にしてあげたのよ』


と言った。


「あ、あ・・・」

「あ?」

「あの野郎、こ、殺してやっ・・・」


パンッ、と御子様は手を叩き合わせた。僕はびくりと身を竦ませ御子様を見る。彼女は僕を見て、うっとりと微笑んでいた。


「明恵ね、邪魔なの。好きにしていいわ」

「・・・どこに居るか、教えてくれるんですか」

「いいえ。捕まえているから。貴方に差し出す」

「何故、何故そんなことを?」

「あの女を差し出して」


ぴたりと静止して、瞬きすらやめて、御子様は僕をじっと見る。


「あの、女・・・。裕美子・・・?」

「賢い」

「ま、待ってください、裕美子が何を、何で、」


一度沸騰した脳みそでは、咄嗟のことに反応できない。


「邪魔なの。ねえ、あの女は嘘吐きよ。わたくしの周りを嗅ぎまわって、鬱陶しいの。あの子を利用したのね。名前はわからないけれど、毎日毎日、わたくしの町を歩いていた、あの子」


井上誠のことか。


「二人は、確かに接点があるが、それがどう、」

「あの子を襲ったのは明恵じゃない。襲ったのは男よ。『誰に』襲われたのか、あの子に聞いてみることね。それから貴方が判断して。裕美子を差し出すかどうか。返事はその辺の子に伝えてくれればいい。待ってるから」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

「なあに?」

「いえ、あの、あの・・・すみません・・・」

「なにが?」

「少し、考えさせてください」

「そう。じゃあね」


するすると空気が抜けるように御子様は部屋から出て行ってしまった。僕は髪を掻きむしる。


「どうして・・・」


手元に残ったのは母の写真。惨めな姿を一目見て、すっきりして、忘れる。できるのか。できていないじゃないか。写真を食い入るように見つめる。極限まで窶れて汚れたその顔は、それでも母だとはっきりとわかる顔だ。僕が見たかったのはこれだ。凄惨な生活を続けるしかない、死すら選んでも惨めな末路へ向かって、じりじりと這っている姿だ。怒りを感じて、殺意を感じて、母を嘲笑いたいだなんて。下品にもほどがある。僕は、僕はそんな人間ではない。そんな人間ではないのだから。

本当に、そうか?

あの女の血が流れている僕が、

人として生きていいのか?

他人に迷惑を掛けなければ生きていけないような、一人では何もできない、無力な、どう仕様もない僕が。僕なんていなくなってしまえばいいのに。そうだ、僕さえいなければ、あの健全な両親の愛情は実の娘である裕美子が独り占めしていたはずである。それを僕が横から入って、半分どころか殆ど持って行ってやしないか。裕美子にもいらぬ迷惑や苦労を強いている。僕みたいな出来損ないがいなければもっと自由に生きていただろう。生きているだけで三人の人間を縛り付ける僕という重石。もう何度も『死にたい』と思ったあの気持ちは、あんなにも苦しかったあの気持ちは嘘だったのだろうか。母を殺して、僕も死ぬ。僕は確かに母に殺意を抱いた。だから、裕美子のあの台詞、


『そりゃ大変だ』


裕美子は、いつものように僕のことなんて何もかもお見通しだったのだ。養子の僕がとんでもない事態を引き起こして自分の家名に傷がつかないように僕を見張りに来ていたんじゃないのか。一度そうやって疑問に思うとあとは堂々巡りだ。違う、違う。どれも本心だが、言い訳だ。

僕はやはり母を許せない。

『母と同じ生き物』なのだ。


「裕美子・・・」


けれど代償が大きすぎる。人一人の命をどうするつもりなんだ。

『御子様』は一体何を考えているんだ!

裕美子が彼女を嗅ぎまわっている?

何故そんなことをする必要があるのか。駄目だ。所在を知ってしまった以上、事情を知ってしまった以上、僕は母への復讐を、愛した男の面影に殺されるという一番の苦痛をあの女に味わわせなければ、この怒りは僕を追いかける。きっといつか捕まってしまう。戯言だ、御子様の戯言の可能性だってある。僕はふらふらとした足取りで階段を上がった。余裕がない。踏面がぎいぎいと鳴っている。井上誠は寝ている。田舎町とはいえ不用心だ。起こさなくては。手間をかけている時間はない。僕にそんな余裕なんてない。早急に確かめたいのだ。『女』に触れることが、話しかけることができず、僕は呻くようにくぐもった声を出すことしか出来ない。相手は寝ている。落ち着け。昨日は裕美子に触れられたんだ。酒を呑んで体温が上がっているのか汗を掻いている。髪が濡れて額や首に張り付いている。それが艶めかしい。だから、怖い。熱くて肌蹴たのだろうか、シャツのボタンが殆ど外れて素肌が見えている。臍の周りの汚い色の大きな痣も、見えている。


「んん・・・」


井上誠が身を捩り、ぱちぱちと瞬きをした。起きたのだ。僕は慌てて、彼女の対面のパイプ椅子に腰かけてしまった。


「あらぁ? ええとぉ、貴方は確か、佐伯先生?」

「ど、どうも」


井上誠はぐにゃぐにゃと身体を動かしている。酒のせいで肉体が鈍り、脳の信号通りに動かないのだろう。


「どうです? 先生も一緒に」

「いえ、結構」

「えー、美味しいのに。・・・いてて。あら、なんで前が肌蹴てるのかしら」


余程酔っているのか記憶がない様子だ。肌蹴ていることに疑問も持たず、酒で震える手でゆっくりとボタンを留めている。なるべく視線を合わせないようにしながら、僕は井上誠に問いかけた。


「痣ですか?」

「え?」

「いえ、今、ちらりと見えてしまいました」

「あ、ああ。違うんですよ、先日こけたときに、私、どじで鈍間だから、変なところ打っちゃって」


何が違うのだろうか。


「男に殴られたような大きさですね」


『かま』をかけるつもりでそう言った瞬間、僕は裕美子が言っていたことが嘘だと、御子様の言っていることは本当だと確信した。井上誠の顔はみるみる青褪めていく。ふるふると震え、歯をかちかちと噛み合わせて犬の唸り声のようなものを喉から漏らしていた。


「違いますッ!!」


辺り一帯に響き渡りそうな大声で彼女は叫んだ。突然のことに吃驚して、僕は身を竦ませる。


「違う、違いますから!! 私はこけただけです!! 変なことを言わないでください!! 気持ち悪い!!」

「す、すいません」

「あっちへ行って!! 私に構わないでッ!!」


僕は部屋に退散した。扉を閉めた途端に彼女が大泣きする声が聞こえた。僕も泣いている。女に怒鳴られた怖さと、裕美子が嘘を吐いていたことが信じられなくて。どうしたらいいのか、どうすべきなのか。何もできずに混乱している。


「どうしろっていうんだ・・・」


頭を抱えた。酷い頭痛だ。母に対する怒り、井上誠に怒鳴られたことに感じる女への苛立ち、恐怖。僕に隠しごとをしている裕美子。脳は蛋白質だ、怒りは熱だ。蛋白質は熱を通すと固まる。固まってしまう。どうすればいい。どうすればいいんだ。井上誠の泣き声を聞きながら、僕も泣くしかなかった。
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