第2話 人形

文字数 2,873文字

 重賢には日課が3つある。
 1つ目は夕暮れ時の庭を三階にある自室の窓から眺めることだ。夕日が沈みきるまで明かりを点けずに眺めると、世界と自分の境までなくなるようで重賢は心が慰められた。
 2つ目は2階の図書室へ行き、古今東西あらゆる種類の本を読むことだ。別邸の図書室には代々の当主の趣味の本がところ狭しと並べられている。今は亡き代々の当主たちの顔が見えるようで、重賢は図書室の本を読むことが好きだった。
 そして3つ目にして重賢の最も好きなことが、屋根裏部屋で先祖たちの遺品や古い家具などを見て回ることだった。
 その日も重賢は朝の読書の後、屋根裏部屋へと足を伸ばした。
 3階の廊下の突き当たりに、先に爪のある長い棒が掛けられている。重賢はその棒を手に取り、遥か頭上にある天井のくぼみへ棒の先を引っ掛けた。そのまま重賢が引くと天井の一部が開いて、収納されていた屋根裏への梯子が降りてくる。重賢は棒を元の位置に掛け、淡々と梯子を上っていった。
 屋根裏には重賢以外ろくろく入らないため、舶来の珍しい美術品も古めかしい家具も等しく埃に埋もれている。観る者がなければ価値ある宝もこの通りだと、重賢は気まぐれに床に転がる置物をひとつ手に取って、埃を手のひらでさっと拭った。
 明り取りからの白い日差しの下に、見事な彫りの鯉の滝登りの木像が現れる。それを重賢はただ眺める。角度を変え、木像の台座の裏を見ると、誰でも知っている彫刻家の銘が彫り込まれているのに重賢は気付いた。だがすぐに別の角度に変え、存分に眺め回すと、重賢は邪魔にならない場所へ木像を置いた。別の物、また別の物と重賢は埃まみれの美術品を発掘していく。重賢にとって屋根裏部屋は芸術に文字通り触れられる美術館で、同時に学芸員にもなれる場所だった。
 そんな重賢の足が止まった。重賢の目が乱雑に折り重なった絵画に埋もれる白木の箱に留まったのだ。
 国宝級の品が転がる屋根裏において、その飾り気のなさは一種異質であった。だからだろうか、重賢はその箱の側へ吸い寄せられるように歩いて行き、絵画の山から引き抜いた。そして改めて手に取った箱を眺めて重賢は眉をひそめた。
 箱は縦80センチ横30センチ高さ20センチほどの大きさがある。意外にもとても軽く、絵画に埋もれていたために日焼けも無ければ埃も付いていなかった。その代わり不穏な物が付いていた。札だ。文字と記号の中間のようなものが書かれ、黄土色に変色している。そんな札が白木の箱の両脇に一枚ずつ貼り付けてあり、蓋をしっかりと固定していた。
 重賢はしばらくその箱を見つめた。見つめながら替えの仮面の下顎を撫でる。この中には明らかに、いわくつきのものが入っている。どんなものかは知らないが、疎まれた結果、こうした前時代的な封が施されたのは間違いない。そんなことを考えながら何度か下顎を撫でた後、重賢は蓋の縁へ指を掛けた。ちらりと前時代的な想像が脳裏を過り重賢は自嘲する。科学の時代にそんな想像は恐れるに足りない。重賢は一気に蓋を持ち上げた。箱の札は何の抵抗もなく千切れて落ちた。重賢が中を覗くと、碧い瞳に金の髪を持つ、赤いドレスの人形が寝かされていた。

         *

 二十代前半の女が早朝の旧華族屋敷前通りで時給980円のティッシュ配りのバイトをしていた。足元に置かれた青いプラスチックの籠には、山のようにポケットティッシュが積まれている。
 女はフリーターで、ここ三か月ティッシュ配りのアルバイトを朝に、ファミレスのウエイトレスを昼に、コンビニのレジ打ちを夜に入れ、細々と食いつないでいた。
 本当は女ももっと実入りの良い、かつ華のある仕事がしたい。具体的には世界的有名ブランドの洋服店や化粧品店の販売員になりたい。最近ファンになった人気ジュエリーショップの販売員でもいい。好きな業界の好きな職場で好きな物に囲まれて働けたなら、きっとこの上なく幸せだろう。
 しかし現実は厳しい。ライバルたちに蹴落とされ、女は仕方なく満面の笑みを浮かべながら、見たくもない交通安全のティッシュを配っている。それを思うと女は胸の内を長く伸びた爪でかきむしられるようだった。
「すみません」
 女は不意に後ろから声を掛けられた。振り返って、驚いた。そこにはゴシック風の格好をした女がいたのだ。
 その女は明らかに外国人で、陶器のように澄んだ白い肌に、丸みのある碧い目をもっている。腰まで届くウェーブのかかった金髪は結ばず後ろへ垂らしている。ワインレッドの華やかなロココ調ドレスに、揃いの手袋と花びらの薄い花のコサージュ、ハイヒールを身にまとった姿は、古い絵画のようだ。朝っぱらから攻めた格好だなと女はまじまじとゴシック女を見る。
「夫を見かけませんでしたか。濃紺のスーツに山高帽を被っているんです。マフラーも巻いて、金の懐中時計を持っています」
 ゴシック女の流暢な日本語に再び女は驚かされた。同時に日本語がゴシック女に通じることに女は安堵する。
「見てません。ごめんなさい」
 女がそう返すとゴシック女は静かに目を伏せる。
「ふたりでお散歩していたんです、私たちはお散歩が好きだから。でも私、はぐれてしまいました。夫との日課なんです」
 ゴシック女は左胸の花のコサージュをそっと撫でる。
「夫が私にくれたんです。私のお気に入りなんです。彼は美術品が好きなんです。懐中時計も舶来品だと聞きました。夫とはぐれるなんて、どうしましょう」
「そうですか」と返しつつ女は困った。この女、やけに絡んでくる上に話がよく分からない。まさかずっとここで夫が夫がと繰り返し続けるつもりだろうか。もしそうなったら堪らない。シフト中にノルマをさばききれなければ安い給料が減額されてしまう。女は足元に積まれたポケットティッシュをちらと見た。とかく世間は冷たく厳しい。よく分からない外国人にまで、生活を脅かされてなるものか。
「すみませんが――」
「ここにいたのか。探したぞ」
 低く落ち着いた声が掛かった。いつの間にか女の間近に全身濃紺で固めた、いかにもひと昔前の紳士といった格好の男が立っていた。男は山高帽を深く被り、マフラーで口元を覆っていた。
「あなた!」
 ゴシック女は男に駆け寄り、その胸に飛び込んだ。ゴシック女をあやすように、男は軽く抱きしめ背を叩いている。女はまるで古い恋愛映画のラストを見せつけられているようだとふたりに冷めた目を向けた。
「申し訳ない」
 女の視線に気付いた男が山高帽に手をやると、それを外して会釈をした。
「連れ合いが迷惑をおかけした」
 山高帽の下現れたのは、下顎の醜くひしゃげた骸骨だった。
「おい!」
 先輩の男性スタッフに肩を叩かれ女は我に返った。慌てて辺りを見回すも、周囲は駅から流れてくるスーツと学生服ばかりで、もうどこにもあのふたりはいなかった。女は狐につままれた思いでふたりのいた場所を見つめる。
「どうした。しっかりしろ」
 男性スタッフにそう言われ、女はやっと言葉を発した。
「迷うんですね、人って死んでも」
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