第1話 本文

文字数 5,307文字

 僕は腹が減っていた。時刻はもう、午前十一時をすでに過ぎていた。午前は理学部の専門学舎で、植物生理学の授業であった。授業の担当は、厳めしい顔つきのM教授で、相変わらずの辛辣な言葉で僕たち学生に、鋭い質問を投げ掛けて授業は緊張の連続であったのだ。このO大学は従来から、先鋭的な指導方針で、多くの個性的で学究的な研究者を輩出してきていたのだ。
 「ええ?君はアンティバイオティクスという言葉すら知らんのかね?いったい、高校で何を勉強してきたのかねえ」
 そう言って、M教授は皮肉げに僕を立たせたまま、しばらく黙っていた。辛かった。しかし、実際のところ、高校で抗生物質の英訳を学ぶものか?と僕は疑問に思った。訳が分からん。そして、僕は何も言えなかった。
僕は席に着き、やがて話題は植物ホルモンのオーキシンの作用へと変わっていった。どうやらオーキシンというものは植物の成長を促す生理物質らしい。オーキシンは光に対して芽を曲げる光屈性にも関与する生理物質であるらしい。植物だって、生き残るために全力を尽くしている筈だ。それに対してあとから、人は何にでも名称をつけたがる。変な生き物だ。
 その時、隣の席でまた姫島がゴホンゴホンと咳払いした。よく咳払いする男だ。当人は風邪を引いているというが、知れたものじゃない。やたら咳をする。しきりと咳を繰り返している。僕から見れば、一種の強迫神経症ではないかと、内心で疑っている。まあ、世の中には変わった一癖ある奴はいくらでもいるからいいんだけれど。
 講義室は、二十人足らずの若い学生が、皆、青い鼻水を垂らしながら、馬鹿面をさらけ出して、一生懸命に白いノートの上に講義内容をひたすらに筆記している。意味がない。いっそのこと、講義内容をコピー用紙に写して全員に配ってしまえばそれで済むのにとも思う。僕にはよく分からない。
 そんなこんなで、取り合えず、講義は事なきを経て、終了した。難しい悩ましげな表情でもなく、ただ満足げな笑顔を浮かべて、M教授は分厚い専門書を小脇に大事そうに抱えては、講義室を去っていった。
 僕たちは講義が済んで、みな一様に感嘆の溜め息を突いた。僕はまだ教授に指名されて恥をかかされた後味の悪さに嫌な思いをしていた。
 僕は講義室の一番、後ろの席にいた。講義室は綺麗だ。白い。学舎自体は朽老しているが、内装は新築したように美麗である。その場にいる者まで華やいだ気分になるのだから何とも不思議である。小ぶりな教室だが、アットホームな感慨を覚えさせてくれる。
 僕は何気なく、筆記用具を鞄に戻した机の上に、四枚の百円硬貨を四角に配置して、得意にしている奇術の練習を始めてみた。手のひらを机の硬貨の上にかざして、手のひらを動かすと、それに合わせて、置いた硬貨はいつの間にか位置を移動している。見る分には実に不思議だが、演技している方からいくと、手品というものはテクニックの自然らしさの向上以外の何者でもない。タネ明かしは詰まらないから、あえて、ここでは省いておく。そんな芸当を何とはなく披露していると、近くにいた連中が露骨に冷やかしに来るから面白い。しかし中にいた男の一人に種を見破られてしまったのは、奇術師としての立場からは全くの不遜である。
 そうこうしているうちに、講義室の窓に持たれて外の道路を眺めていた連中が、突然にこんなことを言い出した。
「おい、また車が騒がしいぞ。どこの誰が一体悪いんだ、頭に来るな.........」「全く、本当だぜ」
 頭に来るのはこっちの方だ。訳のわからない会話を聞かされて、少し精神的に混乱してきた。またいやな思いを抱いて席を立ち上がった途端に、終業のチャイムが僕達の耳に鳴り響いた。
お昼休みの時間が来たのだ。
 退屈な講義もそうなのだが、昼の休憩時間となると、ことさら僕は純粋に思索に耽って時間を潰すと言う個人的な性癖がある。その日も例のごとく、僕の灰色の脳内は、反物質と光の興味深い疑問に関して、純粋な思考活動のみで事実関係の整理整頓に費やしている最中であった。その間も僕の足は、いつも日課となっている道順に向かっていた。暗くて不潔な階段を降りて、狭いロビーを回ってから、表に出ると当時、内ゲバで死者まで出たという曰くつきの朽ち果てたような学生寮の脇を通って、大学構内から一般道に出る。走っている車の姿はほとんどなかった。道路は狭いが、通りに並んで、何軒かの学生向きの小造な料理店があった。粋な眺めである。
 そのうちの一軒に、小さな持ち帰り専門のホカホカ弁当の店が出ていた。
「鯨屋弁当」という店だった。
 何時ものように僕が店の前に立つと、元気のよいでっぷりと肥えた女将さんが、店先にメモ帳をもって現れた。反応が早い。
 僕は、唐揚げ弁当の特盛をひとつ注文しておいてから、即座に、弁当屋の店先のすぐ横にある狭くて急な階段を上っていった。
 弁当屋の二階は、手狭な休憩室になっている。急な階段を上ると、八畳ほどの間に、簡素なテーブルがふたつと黒いパイプ椅子が四脚ほど並んでいる。通りに面した窓はあったが、頑丈に鍵が掛けられている。壁に背の低い整理ボックスがひとつあって漫画の単行本がぎっしりと詰まっている。照明はついていないが、表からの明かりで充分に満足できた。僕は腹が減っていたが、飯が来るまでは埒もないから、近くにあったボックスから本を抜き取って、気もなく漫画のページをパラパラと繰っていた。暇であった。そもそも、人生はいかに有意義に暇を潰すかで決まるのだ。そういう意味では、僕はまだ若いのだろう。未熟だ。
 しかし、そうこうしているうちに、やがてギシギシと音を鳴らせて、階段を上ってくる、ゆっくりとした足音がした。そして、あの女将さんが、いかにも忙しい最中にやって来ましたよ、という気ぜわしい様子で現れて、僕のテーブルに、鶏肉の唐揚げを山盛りにした白いトレイと、ご飯パックと、サービスの麦茶が入ったコップを置いて、また急いで階段を降りていった。
 唐揚げの芳ばしい香りがあたりに漂う。旨そうだ。早速、僕は箸を手にして、生命体の生存本能の充足にかかった。箸の休む暇は皆無であった。
 ゴトゴトと物音がした。
 唐揚げの肉を置いて、耳を澄ませる。誰かが階段を上がってくるようだった。音が大きい。こんな時にいったい誰だろうか?我知らずの間に、僕は精神的に身構えていた。
 やがて、二階の休憩室の戸口に、二人の人物が姿をみせた。
 二人ともに、高校生らしき制服を着た若いカップルであった。
 男の方は、長髪でワイルドで男性的な顔立ちの大柄な男である。いかにもアクティブな男の印象を僕に与えた。
 女の方は、ボーイッシュな短髪の娘で、全体的なイメージとしてセクシーだった。若い僕としては正直、目のやり場に困るプロポーションをしている。弱った。
 ふたりは、大胆にも、僕の向かいの席に腰を下ろして話を始めた。
 容赦ない。プライバシーも糞もない。いったい、このような個人的な狭い密閉された空間で、見ず知らずの人間同士がいるという異常な状況で勝手に話をしているということが、僕にはかなりの抵抗感がある。本当に弱った。落ち着いて食事できない。
 彼らは、何やら話している様子だが、僕としては、今日は楽しい昼食は潔く断念して早々に切り上げて、この部屋をあとにしよう。
 そう決意して、僕は残りの唐揚げの肉と白米を急いで口に運ぶのである。
 その時である。
 突然に、向かいにいた二人のカップルは、僕の方を向いて何やら話していたが、やがて男の方が、席を立ち、休憩室を去りながら、あとに残った娘に向かって大声で言ったのだ。
「お前、頑張れよ!」
 娘は、無言でうなずいて、恥ずかしそうに僕の方を盗み見ている。
 な、何だ、いったい?
 突然のことで、まったく僕には訳が分からない。とにかく、口に残った鶏肉をゴクンと喉に飲み込んで、その娘を興味深々に観察してみた。
 肉感的な娘である。とにかく巨乳がいい。紺色の制服に包まれた娘の肉体に見惚れていると、ついつい淫靡で淫らな夢想に浸っている自分に気づいた。その娘が、僕に恥ずかしげで焦らすように熱い視線を向けている。
 思わず僕は、娘が僕に「愛の告白」でもするのかと想っても無理なくないのだ。
 しかしである。こんな状況だ。
 ひとりの大学生が、昼飯で、弁当屋の二階を借りて唐揚げ弁当を喰っている最中だ。僕に何が言える?
「あのう、僕に何か?」
とでも言えばいいのだろうか?そんな気の利いた言葉でもかければよいのだろう、と考えているうちに、突然、その娘が急に、席を立ち上がると、さっきの男のあとを追うようにして、
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
と叫んで、あっという間に二階の部屋から姿を消してしまった。
 それで僕は、呆気に取られて、あとに残されたまま、黙って二階の戸口を眺めているだけであった。

午後は、専門課程ではなく、一般課程の授業時間である。学舎も、理学部の学舎から、広い校内道路を超えて教養キャンパスの校舎で授業を行うのだ。頑丈な教養学部のキャンパスの門の傍らには、ヘルメットをかぶってタオルで顔を隠した○核派のセクト学生が片手に大きな木の棒を握って見張り番に立っている。懸命な主張なのである。青春の息吹きを感じさえする。
 門の真正面にある校舎の二階にある
大講義ホールで美術論の講義時間である。
 だいたいにおいて、美術論は訳が分からない。1.168の黄金比率は美的に調和が取れているとか、ロダンの「考える人」が、同じくロダン作の「地獄の門」の上に座っているのが世界に7体あるとかどうとか言うことはどうでもいい。ただ人間が何故、本能的に美的な存在に魅かれるのかという単純な謎にまだ結論が出ていないということが僕には分からないだけだ。
 僕の眼の前の講義ホールの教壇の一面に貼られたスクリーンには、スライド写真で、様々な古今東西の美術遺産の写真が暗い室内で映写されている。あまり僕は興味を惹かれなかった。ただ、アルフォンス·ミュシャのデザイン画とサルバドール・ダリのシュールな絵画には今でも個人的に関心があり、機会があれば画集を購入したいとさえ思っている。センスが合うのだ。ようわからん。細微で神経質なタッチが良いのかも知れん。僕自身の性格の投影だろう。人間の心理ってそんなものだろう。
 ともかく、さっきの娘のことなのだ。恋の告白か?どうだったのか?それとも、単に僕の何かの勘違いに過ぎないのか?
 世の中ってよく分からない。個人的解釈を遥かに超えて、人間社会は予想もしない各個人の個人的思惑で動き続けていく。あの娘が、いったい、どこの誰かなんてことも僕は一切知らないのだ。もしかしたら、あの二人は、単純に見ず知らずの他人であったのかもしれない。そして、何かの用事があって、男は去った。そして、娘は昼ご飯を、僕と同様に、あの二階で食べようとしていただけなのかも知れないのだ。そして、見ず知らずの僕に気兼ねして昼食を断念したのかも知れない。
 そう想うと、僕は自分自身が馬鹿らしく思えてきて思わず笑える。
 ふと気づくと、眼の前のスクリーンでは、弥生式土器と思われる小さな茶褐色の壺の画像が大きく映されていた。
 僕を担当する細胞生物学のF教授は、元来、教え子である僕に、とても思いやりのある指導熱心な教官であり、日本でも有数な名門校出身のエリート階級の人物である。背が高くて、恰幅がある男性だ。。N県の旧家に住む裕福な身分で、週末に一度の女性とのデートと大相撲観戦が趣味で、若い頃は、独力でアフリカのサハラ砂漠をバイクで横断したという突拍子もない経験を持っている。面白いが、僕には基本から厳しく細胞培養実験のノウハウを教え込んでくる。過去に謎の自殺した教え子もいるという曰くつきの教官なのだ。このF教授が僕に、「君、君は、ふたつの趣味を持てば良い。それでうまく行くかもしれんからね」
と教えてくれたことがある。それで僕は、手品と推理小説だ。この大学でも放課後の時間は、推理小説同好会で暇な時間を有意義に潰している。あの狭い穴ぐらみたいな部室で、友人たちとアガサクリスティやエラリークイーンや鮎川哲也、と言って、ミステリ作家の殺人トリックに花を咲かせる訳だ。
 昨日はミナミにある某手品ショップで、小さなクローズアップの新しいマジックグッズを入手したばかりだ。さっそく、ミステリクラブの部員の友人をコインマジックのトリックで煙に巻いてやろうと僕は勢い込む。
 暗い講義ホールのなかを、席を立った僕はこっそりと抜け出して、明るい廊下に出た。まだ日は明るい。
 大きな窓からは、燦々と陽の光が差して、繁った落葉樹の黒いシルエットを廊下の床に延々と落としていた。
 ミステリクラブの汚い部室のあるキャンパスの裏庭へと続く校舎の渡り階段を上りながら、空手に下げた僕の学生鞄の中では、先刻の昼飯の弁当屋からこっそり盗んだ一冊の漫画本が、さりげなくポケットの中でコトコトと揺れているのであった..........。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み