第1話

文字数 3,295文字

『全ての始まりは、貴方の終りでした』

 俺はまず、紙にそうしたためた。誰が読むわけでもない。俺の生涯を綴るための手紙だ。だってそうだろう。どうせ俺はこれからまさに始まり、終わっていくのだから。この陽さえ差し込まない狭いアパートで終わる、くそったれな人生に、最期にでっかい花火を咲かせてやろうというわけだ。
 しかし、それだけで終わっては誰の記憶にも何の記録にも残らない。だから、選んだのが文章だ。物書き経験の少ない俺でも、文字を書くくらいは出来るのだから。
「そうだろ? なあ、俺の両腕」
――ああ、今僕はこれを書きたかったんだ!
 もしこれを誰かに聞こえてたら、俺は相当な変人だと映ることだろう。だけど、この場に居るのは間違いなく俺一人だ。
 俺が話しかけているのは俺自身の体。おそらく俺は何かの病気なのだろうと思うが、物心が付いた頃から自分の体の声が聞こえていたのだった。どこが弱っているとか、どこが最近働いてないだとか、そういった呟きのようなもの。
 俺自身、それがおかしいことなのだと気付くことも出来ず、親からも気味が悪いと見放され友人も失った頃には全てが手遅れだった。だが、この性質のおかげで今日まで孤独に殺されることもなく生きてこられたという側面もあり、皮肉なものだと笑みがこぼれた。
 自分自身の体全てが理解者であり友人なのだ。生きていくにあたってこれ以上の強みはない。
――ねえ、お酒飲まないの? まだお昼だけど、少しくらいは平気よ?
 俺の肝臓がそう囁く。俺はそうか、と相づちを打ちながら……氷を入れるのも面倒になってウイスキーの瓶にそのまま口を付けた。熱いアルコールの感触に食道が驚いたような悲鳴を上げた。

 大学生の頃だったか、俺は右目を失った。原因は車との事故だった。あの光景は今でも脳裏に焼き付いて離れない。人通りも少ない路地でのことだった。車に轢かれそうになっていた老婆が道に倒れていて、その時俺の中の全細胞が叫んだのだ。
――助けなきゃ!
 気付いたら、俺は走り出していた。自分にこんな速度が出せるのかと思うほど速く、俺は老婆の元に駆けつけて彼女を道の脇に突き飛ばしていた。
 その瞬間、ドライバーはようやく自分が人を轢きそうになっていることに気付いたらしく、老婆とは逆の方向に車を走らせ急ブレーキを踏んだ。そして、まるでコマ撮りのように電信柱にぶつかって車は破裂した。大量のガラス片が視界を埋める様は、今でも夢に見る。

 そこまで自分の人生を振り返って、手紙が何かの液体でしわになっている事に気付いた。まあ……誰に見せるわけでもない。問題ないだろう。
「俺は……助けなけりゃ良かったのかねえ。一番仲の良かった右目君まで失ってさ……」
 その言葉への返事は、何も無かった。

 結果的に誰も死なずに済んだ。だが、老婆は突き飛ばされた時の衝撃で二度と立てない体になり、親族に感謝されることもなかった。
 ドライバーの男も怪我を負い、当然車は大破。そこまではまあ、よくある話だ。だが、彼が取り付けていたドライブレコーダーに映っていた映像が問題だった。なんと、あの状況のまま放っておいても、老婆を轢かずに避けることが出来たという事実が確認された。
 そうなると俺はもはや四面楚歌。老婆の親族もドライバーの彼も俺を焼き殺そうとする勢いで責め立ててきたのだった。

 その話は大学にも広まり、無駄に時間のある彼らの標的となった。授業の一つに出るだけでも俺は何度も顔を蹴られるような思いをすることになり、やがて学校生活からも疎遠になった。
 出来上がったのが、酒を片手にアルバイトの少ない賃金を食い潰す俺という図だ。だけど……そこで俺の支えともなったのは、とある警官の耳打ちだった。

『君は誰にも讃えられないかもしれない。だけど、私は君は正しいことをしたと思うよ』

 今思えば、誰に言われたかなんて覚えてない。俺の持病でもある幻聴の一つだったかもしれない。だが、俺は確かにそれに救われた。そこから警官を目指そうと思ったのは自分でも安直だと思う。
 だが、現実は非情だ。右目がない人間は、警察官になることが出来ない。ちょっと調べれば分かることも、俺には分からなかった。理解したくなかった。諦めたくなかった。俺も誰かを救いたいと、そう願った。だが、奇跡など起こらない。失った右目はもう戻って来ない。

「……文章を書くってのも案外疲れるもんだな」
 少し酔いも回ってきたか、頭の芯がぼう、となる。だが、脳はそれでもゲラゲラと笑っていた。まあ、こんなテンションじゃなきゃ遺書なんざ書けないよな。そう思って、俺は筆を進めた。

――なあ、オレは確かに見てたぜ。お前の勇姿を。そんな奴がよ、夢を諦めて人に殴られたくれぇで死んでよ。こんなことで終わっていいのかよ? そんなこと、右目だって望んでねえよ。
 そう俺に語りかけてきたのは、残った左目だった。
――許せねえだろ。やってやろうぜ。十分理不尽な目に遭っただろう。だったら、あいつらにも同じだけの理不尽を返してやっても、俺達の中の誰も責めねえよ。やるんだよ。復讐を――。
 それには同意だった。どうせ夢も何もない人生だ。俺を止めてくれる奴も責める奴もいない。事の後、牢に入るのも逃亡生活もゴメンだ。だから、遺書を書いた。書き終えてしまった。もう、引き返せない。

 そして俺は、ついにウイスキーの瓶を空けて横になった。こうなると、俺の体の声も遠くなる。俺にも訪れる、最も静かな時間だ。明日大学に行って……この安いナイフであいつらの目を抉って……それから……それから……。
――ぃて。聞こえて……。
 眠りに落ちる瞬間、今まで聞いたことのない声が聞こえた気がした。だが、アルコールの力には勝てなかった。

 ◇

 目覚めたのは夕方だった。俺は鞄の中にナイフを仕込み、綺麗に片付けた部屋のテーブルに遺書だけを置いて家を出ようとした。
「……ん、あれ?」
 だが、扉を開ける寸前で体の動きが止まった。外へ出ようとしても体が言うことをきかないのだ。
――なんだよ。早く殺りにいこうぜ。
――私の準備も万端よ。思えば、長い付き合いだったわね。
――俺は問題ねぇぞ。さあ。さあ。
 そんな声、声、声……。だが、変わらず俺の体は動かず、妙な汗ばかりが噴き出て止まらない。自分の体のことが理解できない。こんなことは初めてだ。

――あなたの書いた遺書を……手紙を、もう一度読んでみて。

 誰だ。この声は。知らない、こんな全てを包み込むような優しい声。だが、それにつられるように俺の体は翻ってテーブルの上に置かれた遺書を開いていた。
 随分長い文章を書いた気がしたけれど……そこにあったのは、ただ一文だった。

『綺麗に、幸せに生きたい』

「……なんだよ……。俺の腕よぉ。そんなこと考えてたのかよ」
――違うんだ。僕もこんなの書く気持ちは無かった。だけど……。
 そして、またあの声が聞こえた。
――どうか、あの時の……正しいあなたの声に、気付いて。
 視界が歪む。文字が見えなくなるほどに。それは滴となって落ちていく。もはや聞こえてくる声は一つだけ。毎日うるさいくらいに聞こえていた全身の声もいつの間にか聞こえなくなっていた。

――誰かを救いたい。その一心だけだったでしょう。

 ああ、ああ……。これは、そうか。そういうことか。右目を失って聞こえてきた声は……俺の、良心だったか。
 俺は立っていられなくなり、声を上げて泣いた。床に落ちる滴に反射しているのは……随分久しぶりに見た、自分自身の顔だった。

 ◇

 そして、俺はずっと聞こえていた自分自身の体の声は失い、夢も何も無い生活に戻った。所詮そんな程度の男だ、俺なんてな。
 だから、今度は……俺自身だけで、文章を書いてみようと思った。戒めとして残った傷である失った右目に手を添えて、ペンを手に取る。そうだな、書き出しは……。

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