いかさま

文字数 1,446文字

 西暦二〇〇三年、広島。
 とある建物の前で、フィデル・カストロが思い起こしたのは、かつての同志、チェ・ゲバラと一九六二年のある夜に行なったポーカーの勝負のことだった。


「ロイヤルストレートフラッシュだ」
 そう言って、ゲバラはテーブルの上にカードを広げた。
「これで決まりだな。ソ連とは手を切る」
 カストロが驚いたのは、勝負の結果よりも、ゲバラがいかさまをした、というその一点だった。これまで、ゲバラがそのような真似をしたことは一回もなかった。いつも彼は実直であり、曲がったことは許せない性質(たち)だった。
 その彼がいかさまをした。
「……そんなに君はこの国(キューバ)が核兵器を備えることに反対なのか」
「あれは人間の持つ物じゃないよ、フィデル」
 ゲバラは肩をすくめる。
「悪魔の兵器だ」
「だが、このままではキューバはアメリカに擦り潰されてしまう!」
 テーブルに拳を叩きつけたが、ゲバラの表情は変わらない。
「なあ、頼むよ」
 カストロの口調が懇願の色を帯びた。
「もうソ連とは話がついてる。あとはGOサインだけなんだ。私と、そして君の」
「誰が何と言おうと、俺は首を縦に振る気はない」
 ゲバラは頑なだった。
「アメリカは打倒すべきだ。だが、それは核兵器によってではない。断じてない」
「かつては君も、核軍備に賛成していたじゃないか、ゲバラ」
「ああ。俺の人生で唯一恥じるべき点があるとすれば、そこだろうな」
「……どうあっても、核軍備には反対だと?」
「そうだ。アメリカを打倒するには剣や槍をもってすべきだ。核兵器などを持てば、我々はあの資本主義に毒された虫けらどもと同じ類の人間になる。そんなのは、俺はごめんだ」
「私がこの部屋の外に官憲を待機させているとしても、かね。君を抗命罪で拘束することもできるんだぞ」
「君がそうしないことは分かっているが、もしそうだとしても俺の決意は変わらないよ、フィデル」
 しばし、二人はにらみ合った。
 やがて、降参したのはカストロの方だった。視線をそらす。
「了解だ、ゲバラ。ソ連には、核軍備を見送ると伝える」
「賢明な判断をありがとう、議長」
 そう言って、ゲバラは部屋を出て行こうとして、
「そうだ」
 思いついたように、顔だけで振り返った。
「いつか、機会があれば、ヒロシマに行ってみるといい。俺の言ったことの意味が分かるはずだ」
 そう言うと、今度こそゲバラは部屋を後にした。
 カストロは無言のまま、ただじっとテーブルの上の手札を見つめていた。


 ――いま、この建物を前にして、あの時の君の気持ちが分かったよ、ゲバラ。
 カストロは、目の前の建物をもう一度観察した。
 みすぼらしい建物だ。
 崩れかけた壁。高い空からさんさんと陽光が降り注いでいるにも関わらず、その色は全体的にくすんだ鈍色(にびいろ)で、円筒形の頭頂部などは骨組みがむき出しになっている。
 よく見た光景だ。革命の戦いの最中では、このような建物を見るのは日常茶飯事だった。
 それでも。
 それでも、この建物はそうした建物とは一線を画していた。
 原爆ドーム。
 ――ゲバラ。
 カストロはゲバラに、かつての友に心の中で語りかけた。
 もし、君と同じように一九六二年のあの危機より前に、ここを訪れていれば、いまも我々は志を同じくしていただろうか。君は、いまもキューバの重鎮としてこの国に、私の傍らに留まってくれていただろうか。
 考えても詮無いことだ、とカストロは首を振る。
 もう一度、原爆ドームの姿を、その朽ちた人間の原罪の形を目に焼きつけると、彼はそこに背を向け、歩き出した。
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