一話完結

文字数 1,989文字

 妻が亡くなったと連絡が入った。出張先で事故にあったらしい。即死だったと聞かされた。
 お悔やみ申し上げます。警察官の義務的な言葉のあと、通話は途切れた。ツー、ツー、という切れた音が耳に響く。携帯を耳から離すことができない。
 紙が擦れる音。キーボードをたたくタイピング音。上司の怒号。聞こえてくる鮮明な音が、自分の居場所を告げていた。ふわふわした感覚だけが自分の意識の全てだった。呆然と立ち尽くしている私の前で、周りの人は忙しなく動いている。景色は進んでいるのに、自分だけ取り残されて、時が止まってしまっている。タイムスリップしているように、周りだけが加速していく。
 ゆっくり、ゆっくり呼吸をする。している。のか、分からない。
 空気が肺に入るたびに、だんだんと意識が鮮明になってくる。電話越しに聞こえてきた言葉が、脳みそに繰り返し伝えられる。
——さんですか?
奥様が——。
——いえ、それが——。
——はい。そうです。
——あの、その、お悔やみ、申し上げます。
 胸の奥底に、一文字ずつポチャンと音をあげて落ちてくる。
 妻が死んだ。妻が、死んだ。
 去年、彼女はウェディングドレスに身を包んで、あんな綺麗な笑顔を見せて、ブーケを投げていた、私の妻が死んだ。
 激しくなる呼吸は、やがて周りにも聞こえるほど荒くなり、歩いてた人は立ち止まって私のことを見ている。近くでデスクワークをしていた人も立ち上がり近づいてくる。肩に誰かの手がかかる。振り返ると、先輩がいた。驚いた顔をして、お前、大丈夫か、と尋ねてきた。答えることもできず、先輩の顔を見てから先のことは覚えていない。気が付いたら病院にいた。

 お通夜。葬式。埋葬。全てが教科書のように順当に行われた。
 白い煙を放ちながら骨になった妻を見ても、その骨が墓の底に眠っても、私は何も感じなかった。妻はどこかで出張に行っているような感覚が残っていた。彼女の母親が涙を流して、嗚咽をもらしても、なぜ彼女が泣いているのか分からなかった。
 会社からは一週間、休みをもらった。伝えれば、もっと休んでも構わないと上司に言われた。先輩からは何かあったら必ず連絡しろと告げられた。何を言っているのか分からなかった。
 真っ暗な家に帰ってきた。ただいま、と言っても静かだった。部屋の電気をつけて、ソファに座り、テレビを流しても、まだ静かで暗かった。
 三日ほど、そうした生活を送っていたら、お腹が鳴った音が聞こえた。ぐるるぅっと大きな音が鳴った。私はソファから立ち上がり、冷蔵庫に向かった。
 冷蔵室を開けても、食品は全くなかった。賞味期限の切れたタマゴに納豆、あとは調味料だけ。野菜室も同様に、トマト一つとニンニク三玉。そして半分に切られたカボチャだけ。なにもないと思いながら、冷凍庫を開けると、そこには大量の食材が詰まっていた。おにぎりにハンバーグ、豚の角煮にサラダチキン。妻の得意だったじゃがいものグラタンも入っていた。どれも丁寧にラップで包まれていた。
 グラタンを手に取り、私はその重みを感じながら電子レンジに入れた。
 温めている間に漏れてくるグラタンの甘い匂いが鼻の中をやさしく包んだ。チンっと音が鳴った。グラタンはグツグツと踊っており、チーズのとろけた眩しい色が目にうつり、手をのばしたら火傷した。真っ赤になった指を、冷やすことなく、そのまま取って机に置いた。ラップを外したら、ほくほくした暖かい煙が私の顔を撫でた。
 スプーンですくって、そのグラタンを口に含んだ。一口、飲みこんで、また一口。咀嚼して、また一口。もう一回、もう一回。
 夢中で食べてると、だんだんグラタンがべちゃべちゃと湿りけが口に感じた。べちゃべちゃ、ぐちゃぐちゃ。まるで雑炊のようにグラタンが水に浸っていた。食べるたびにグラタンは濡れた。食べるたびに口は震えた。

 いい?ご飯はいっしょに食べるの。あんた知らないでしょ。ひとりの高級料理よりも、ふたりの貧乏飯のほうがうまいのよ。
 ほら見なさい、この記事。あんたの大好きな科学も言ってるわ。誰かと食べると幸福度が上がるって。ほら、ほら、言ったでしょ。
 好きな料理なんなの?——グラタン?嫌よ。グラタンって作るのに時間かかるから。おにぎりで妥協しない?
 あんたは一人だと、飯とか適当にすませちゃうでしょ。出張に行ってる間に餓死しても困るからなんか適当に作っとくよ。誰か誘って一緒に食べなさい。浮気はダメだから。
 分かった?先に出るけど、ご飯は誰かとしっかり食べるの。ひとりは寂しいから。

 声が聴こえる。胸の奥から声が聴こえてくる。
 聴き慣れた優しい声。煙のように、すぐ消えていく声。
 私は押し殺しても漏れる嗚咽を抑えて、携帯を手に取って電話をかけた。
 ガチャリ、繋がった音がした。

「ごちそうさま」

 少しして、電話は途切れた。
 ツー、ツー。ツー、ツー。
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