猫じゃなくて
文字数 4,729文字
三月の終盤といえば学生なら春休みの時期だ。
私も学生に戻ったつもりになって会社の休日をだらだらと過ごしていた。同居人がいるけど気にしない気にしない。
紺色のカーペットに腹這いになり、友人から借りたコミックスを読んでいた。私立高に通う女の子たちが白一転の男の子と一緒に高校吹奏楽の頂点を目指す話だ。私は知らなかったけどアニメ化もしているそうな。ワーオ! こいつは是非とも観なければ。
原作者のはくまいおこげ先生はいわゆる覆面作家でミリオンセラー連発のすごい人。何だかとってもミステリアス。どんな人なのかな?
一冊目を読み終え次に手を伸ばしかけたときドアチャイムが鳴った。
「あ、はーい」
反射的に返事をしてしまい私は後悔する。
うーん、早く続きが読みたいのに。
けど、もう居留守は使えないよね。
私はローテーブルの向こうの同居人に声をかけた。彼は現在おやつの真っ最中だ。お昼を食べたばかりなのにコンソメ味のポテトチップスをバリボリやっている。
「きーさん、応対してきて」
「あ?」
身長一八〇センチ以上ある大男が不機嫌そうに返してくる。イケメンだけど凶暴そうな顔が結構怖い。あれはすでに何人か殺している顔だ。お巡りさんこいつです!
「私、今手が離せないから。きーさんどうせ暇でしょ」
「手が離せないって……俺には小梅(こうめ)がめっちゃ暇そうに見えるんだが」
「そんなことないよ。あのね、これから私は高校生たちの運命を見届けてあげないといけないの」
「……」
きーさんの目が何か言いたそうに鋭く細まる。ただでさえ鋭くて殺傷力ありそうな目なのに。
ううっ、か弱い私にその目は恐過ぎるよぉ。
なんて。
はぁっとため息を吐くときーさんはのろのろと立ち上がった。
「しょうがねぇなぁ」
やれやれと肩をすくめつつきーさんは玄関の方へと歩いて行く。何だかんだ言ってもこの同居人は優しい。顔は恐いけど優しい。見た目悪人かもだけど優しい。
これで人の物を勝手に食べなければもっと好感度上がるのに。一応イケメンだしね。
*
「ねぇ、きーさん」
私はさっききーさんが受け取ってきたアパートの回覧板を指差した。高校生たちの運命を見守るのは一旦休止です。
「この河合稲子(かわい・いねこ)ってどんな人?」
「ああ、そういや小梅はまだあいつに会ってなかったか」
ローテーブルに肘をつけながらバリボリと二袋目のポテトチップスを食べていたきーさんがその手を止める。ビッグサイズのポテチは二袋とも昨日私がスーパーで自分用に買ってきた物だ。以前から思っていたけどやっぱりきーさんに人の物を無許可で食べてはいけないと言い聞かせるべきかもしれない。
あとポテチ二袋は食べ過ぎです。
「稲子はあれだ、いわゆるヒッキー?」
「……」
え?
私はその返答に一瞬時間を止めてしまう。もちろん比喩です。そんなのできる訳ないじゃないですか。
と、ちょい動揺してみたり。
私の反応がおかしかったのかきーさんが口の端を上げた。赤みがかった茶髪に鋭い目つきのきーさんがそんなふうにすると悪人面がさらに悪そうに見える。これは五歳児なら泣いちゃうレベル。それもわんわん泣く。お巡りさんやっぱりこいつです。
「あいつが201号室から出て来ることは滅多にねぇな。たまに宅急便の兄ちゃんとかミトの奴に応対するために玄関ドアを開けるがそうでもなければずっと閉じこもったままだ」
きーさんがポテチの袋に手を突っ込んだ。
がさごそと中を漁る。
「ま、小梅ならそのうち中に入れるんじゃねぇか? お前ならなりもちっちゃいしドアとか窓の隙間から忍び込めるだろ」
「忍び込めません」
ぴしゃりと言ってやった。
そ、そりゃ私は小さいですよ。
二十五歳のレディなのに未だに中学生と間違われますよ。
コンビニで缶ビールを買おうとしたら「ごめんね、未成年者にお酒は売れないの」って店員のおばちゃんに謝られますよ。
一四八センチの身長は私にとって一番のコンプレックスだ。それに比べたら不幸続きで住まいと仕事先を転々としていた過去など些末なことである。
三週間前から私は家賃一万円の事故物件に自称幸せを呼ぶ狐と同居生活を送っていた。家具・家電・狐付きの毎日だ。
その狐、きーさんに何か彼のためになることをするとそのお返しに幸運が訪れるのだそうだ。実際、それでいろいろ助けられたりもしている。
「小梅ならこっそり稲子の家に忍び込めると思うんだがなぁ」
「……」
まだ言うか。
私がジト目で睨むときーさんはどこ吹く風といった様子でポテチを口に放り込んだ。
バリボリ。
残り少なくなってきたのかきーさんはポテチの袋を持ち上げ一気に口へと流し込み始めた。繰り返しになるけどそれ私が自分用に買ってきたんだよ?
「むう」
自分のポテチを取られたことに腹が立たないかと問われたらもちろん腹は立つ。
でもなぁ、相手はきーさんだし。
私は嘆息して回覧板に目を戻した。
河合稲子。
201号室のヒッキー(らしい?)。
私の住む202号室のお隣さん。
……そういやこの回覧板、持ってきたのミトさんなんだよね。
何で隣人の河合さんじゃなくて他の部屋のミトさんが持ってきたんだろ?
*
私の疑問はすぐに解消した。
「そりゃあれだ。ミトはうち(浅間荘・あさまそう)の管理人みたいなもんだからな。外に出られねぇ稲子の代わりに回覧板を回したんだろうよ」
「あぁ」
私の想像の中で栗色のツインテールの小柄なメイドさんが回覧板を運んでいた。可愛い。お持ち帰りしたい。
とか思っているとスマホがメールの着信を知らせた。
ニヤリときーさんが笑う。
「早速か」
「毎度ながらきーさんってすごいよね」
「だろ? 俺がこの部屋に憑いてて良かったろ?」
口角とご機嫌メーターを上げるきーさんに身振りで促されつつ私はスマホを操作する。
うん、本当にきーさんってすごい。
メールは先週私が応募した国産牛肉セットの当選通知で数日以内に発送されるとのことだった。この前は地鶏の焼き鳥丼のレトルトパック一年分も当たっているからしばらくお肉には困らないかもしれない。
自慢げにふんぞり返るきーさんに苦笑し、私はスマホをローテーブルの上に置いた。
「今回は国産牛肉だって」
「おおっ、牛か。そいつはいいな」
「でも食べ過ぎないようにね。ポテチもお肉もほどほどにしないと」
「安心しろ、俺の胃袋はそこらの人間より丈夫だ。それこそ昔は牛一頭くらい余裕だったぞ」
「……」
私の頭の中できーさんが牛の喉笛に噛みついていた。人間の姿だとなかなかシュールなので本来の姿である狐になっています。うん、これならシュールじゃない。
とはいえ狐の姿でも牛一頭は多くないですか?
私は尋ねた。
「きーさんの胃袋は四次元なんたらとかなの?」
「なんたらって何だなんたらって」
「具体的に言うと角が立つかもしれないじゃない。で、どうなの?」
「ふむ」
きーさんが空になったポテチの袋に目を落とし、物欲しそうな顔をする。あ、こいつまだ食べ足りてないな。
「今でこそ毎日食べられているが昔は一週間何も口にできなかったりしたからな。獲物を狩るって楽じゃねぇんだぜ」
「……」
えーと。
そんなワイルドとかサバイバルとかって単語が浮かびそうな話をされても困るんだけど。
求めてないよ、そんなハードな答え。
きーさんがニヤリと笑いその場でポンッと音を立てて変化する。もわんと上がった白い煙が晴れるとそこに一匹の狐がいた。
赤っぽい茶色の毛並みの狐はふさふさの尻尾をゆらりとさせると前足をローテーブルに伸ばした。身を乗り出すように後ろ足で立つ。
「どうだこの雄々しい姿。こんな俺なら牛一頭なんて朝食の納豆ご飯を食うより簡単だって思わねぇか?」
「……」
思いません。
私は無言で即答した。いや、だって普通に答えたら怒るし。怒るよね?
黙っていたからかきーさんはフフンと鼻を高くした。ワオ、なーんか得意げ。ムカつく。
「あまりの格好良さに声も出ねぇか。ま、当然だな。けど惚れるなよ、小梅みたいなちんちくりんはタイプじゃねぇからよ」
「……」
「でもあれだ、小梅の作る飯は好きだぞ。あれを毎日たんまり食わせてくれるならちっとは考えてやっても……」
「だ」
「だ?」
「誰がちんちくりんですって?」
私が発した言葉にきーさんが反応した。
あ、やべ。
そんな心の声がしそうなほどきーさんの顔が引きつる。だらだらと流れる汗はなるほど滝のようだ。
私はゆっくりと立ち上がった。拳をぐっと握る。
ポキポキと指の間接だって鳴らしちゃうもんね。
きーさんが狐の姿のままずささっと後退した。だが残念ながら我が家はそんなに広くない。すぐに壁へと追い詰められる。
「こ、小梅。暴力反対。ここは話し合おう。な、暴力は何も解決しねぇぞ」
「暴力なんて振るわないよ」
自分でも冷たい声だと思う。
「ただ、口の利き方のなってない狐にお仕置きするだけ」
*
私にお仕置きされたきーさんが部屋の隅に転がっている。これは動物虐待ではないですよ。れっきとした躾です。
「ふんっ!」
私は一つ鼻を鳴らすと読みかけになっていたコミックスを手にした。回覧板を回すのはもうちょっとしてからにしよう。怒りで顔も恐くなってるかもしれないしね。
吹奏楽に情熱を注ぐ高校生たちの話で気持ちを落ち着けようと私は再びカーペットの上に腹這いになった。
「それ、面白いか?」
早くも復活したきーさんが人間の姿に化けて訊いてくる。くっ、さすが人外。少々のダメージでは屁でも無いか。
「面白いよ」
まだ機嫌の直ってない私はややぶっきらぼうに応える。
心が荒ぶっているからか、読み進めても内容が頭に入ってこなかった。そのせいで自分で言うほど面白くなくなっているけど、悔しいからそのことは黙っておこう。
きーさんが脇に置いてあった他の巻を拾い上げた。
「おっ、これ稲子の小説が原作のコミックスじゃねぇか」
「えっ?」
「はくまいおこげって稲子のペンネームだぞ」
「……」
私は驚きのあまり硬直してしまった。いわゆる石化です。誰か状態異常回復のポーションを持ってきてください。
「前にミトが教えてくれたんだ。別の本も読んだことあるぞ。あいつヒッキーの癖に面白いの書くのな」
「……」
ま、まじですか?
ミリオンセラー作家のはくまいおこげ先生って私のお隣さんなの?
えっ?
てことは、あれ?
ひょっとしてはくまいおこげ先生も人外なんじゃ……。
私は恐る恐るきーさんに尋ねた。
「あ、あのー、はくまいおこげ先生は人間だよね?」
「は? 何を馬鹿なこと言ってるんだ?」
心底呆れたようにきーさんがため息をついた。そうだよね。人間に決まってるよね。
「人外に決まってるだろ。このアパートで人間は小梅だけだぞ」
「……」
再度石化しかけたのをどうにか踏み止まる。というか何となくそんな気してたよ。ミトさんも兎の妖怪だったしね。
だとするとはくまいおこげ先生は何なのかな?
えっと、河合稲子って名前なんだよね。かわいいねこ……わぁ、何だか猫っぽい。
猫娘とかかな? めっちゃ可愛いかも。
じいっときーさんが私を見つめ、またため息をついた。今度はやたら深い。いわゆるクソデカため息だ。何故?
「あのな、何を想像しているか知らねぇが稲子は狼女だぞ」
「え」
「満月の夜に狼になるんだ。遠吠えとかは控えているらしいが見た目もちゃんと狼に変身するぞ」
「……」
ええっ。
猫じゃないの?
そんなの名前詐欺なのでは?
これ、訴えたら勝てそうな案件じゃない?
あまりのショックでしばらく石化が解けない私であった。
お客様の中に回復魔法の使い手はいませんか?
了。
私も学生に戻ったつもりになって会社の休日をだらだらと過ごしていた。同居人がいるけど気にしない気にしない。
紺色のカーペットに腹這いになり、友人から借りたコミックスを読んでいた。私立高に通う女の子たちが白一転の男の子と一緒に高校吹奏楽の頂点を目指す話だ。私は知らなかったけどアニメ化もしているそうな。ワーオ! こいつは是非とも観なければ。
原作者のはくまいおこげ先生はいわゆる覆面作家でミリオンセラー連発のすごい人。何だかとってもミステリアス。どんな人なのかな?
一冊目を読み終え次に手を伸ばしかけたときドアチャイムが鳴った。
「あ、はーい」
反射的に返事をしてしまい私は後悔する。
うーん、早く続きが読みたいのに。
けど、もう居留守は使えないよね。
私はローテーブルの向こうの同居人に声をかけた。彼は現在おやつの真っ最中だ。お昼を食べたばかりなのにコンソメ味のポテトチップスをバリボリやっている。
「きーさん、応対してきて」
「あ?」
身長一八〇センチ以上ある大男が不機嫌そうに返してくる。イケメンだけど凶暴そうな顔が結構怖い。あれはすでに何人か殺している顔だ。お巡りさんこいつです!
「私、今手が離せないから。きーさんどうせ暇でしょ」
「手が離せないって……俺には小梅(こうめ)がめっちゃ暇そうに見えるんだが」
「そんなことないよ。あのね、これから私は高校生たちの運命を見届けてあげないといけないの」
「……」
きーさんの目が何か言いたそうに鋭く細まる。ただでさえ鋭くて殺傷力ありそうな目なのに。
ううっ、か弱い私にその目は恐過ぎるよぉ。
なんて。
はぁっとため息を吐くときーさんはのろのろと立ち上がった。
「しょうがねぇなぁ」
やれやれと肩をすくめつつきーさんは玄関の方へと歩いて行く。何だかんだ言ってもこの同居人は優しい。顔は恐いけど優しい。見た目悪人かもだけど優しい。
これで人の物を勝手に食べなければもっと好感度上がるのに。一応イケメンだしね。
*
「ねぇ、きーさん」
私はさっききーさんが受け取ってきたアパートの回覧板を指差した。高校生たちの運命を見守るのは一旦休止です。
「この河合稲子(かわい・いねこ)ってどんな人?」
「ああ、そういや小梅はまだあいつに会ってなかったか」
ローテーブルに肘をつけながらバリボリと二袋目のポテトチップスを食べていたきーさんがその手を止める。ビッグサイズのポテチは二袋とも昨日私がスーパーで自分用に買ってきた物だ。以前から思っていたけどやっぱりきーさんに人の物を無許可で食べてはいけないと言い聞かせるべきかもしれない。
あとポテチ二袋は食べ過ぎです。
「稲子はあれだ、いわゆるヒッキー?」
「……」
え?
私はその返答に一瞬時間を止めてしまう。もちろん比喩です。そんなのできる訳ないじゃないですか。
と、ちょい動揺してみたり。
私の反応がおかしかったのかきーさんが口の端を上げた。赤みがかった茶髪に鋭い目つきのきーさんがそんなふうにすると悪人面がさらに悪そうに見える。これは五歳児なら泣いちゃうレベル。それもわんわん泣く。お巡りさんやっぱりこいつです。
「あいつが201号室から出て来ることは滅多にねぇな。たまに宅急便の兄ちゃんとかミトの奴に応対するために玄関ドアを開けるがそうでもなければずっと閉じこもったままだ」
きーさんがポテチの袋に手を突っ込んだ。
がさごそと中を漁る。
「ま、小梅ならそのうち中に入れるんじゃねぇか? お前ならなりもちっちゃいしドアとか窓の隙間から忍び込めるだろ」
「忍び込めません」
ぴしゃりと言ってやった。
そ、そりゃ私は小さいですよ。
二十五歳のレディなのに未だに中学生と間違われますよ。
コンビニで缶ビールを買おうとしたら「ごめんね、未成年者にお酒は売れないの」って店員のおばちゃんに謝られますよ。
一四八センチの身長は私にとって一番のコンプレックスだ。それに比べたら不幸続きで住まいと仕事先を転々としていた過去など些末なことである。
三週間前から私は家賃一万円の事故物件に自称幸せを呼ぶ狐と同居生活を送っていた。家具・家電・狐付きの毎日だ。
その狐、きーさんに何か彼のためになることをするとそのお返しに幸運が訪れるのだそうだ。実際、それでいろいろ助けられたりもしている。
「小梅ならこっそり稲子の家に忍び込めると思うんだがなぁ」
「……」
まだ言うか。
私がジト目で睨むときーさんはどこ吹く風といった様子でポテチを口に放り込んだ。
バリボリ。
残り少なくなってきたのかきーさんはポテチの袋を持ち上げ一気に口へと流し込み始めた。繰り返しになるけどそれ私が自分用に買ってきたんだよ?
「むう」
自分のポテチを取られたことに腹が立たないかと問われたらもちろん腹は立つ。
でもなぁ、相手はきーさんだし。
私は嘆息して回覧板に目を戻した。
河合稲子。
201号室のヒッキー(らしい?)。
私の住む202号室のお隣さん。
……そういやこの回覧板、持ってきたのミトさんなんだよね。
何で隣人の河合さんじゃなくて他の部屋のミトさんが持ってきたんだろ?
*
私の疑問はすぐに解消した。
「そりゃあれだ。ミトはうち(浅間荘・あさまそう)の管理人みたいなもんだからな。外に出られねぇ稲子の代わりに回覧板を回したんだろうよ」
「あぁ」
私の想像の中で栗色のツインテールの小柄なメイドさんが回覧板を運んでいた。可愛い。お持ち帰りしたい。
とか思っているとスマホがメールの着信を知らせた。
ニヤリときーさんが笑う。
「早速か」
「毎度ながらきーさんってすごいよね」
「だろ? 俺がこの部屋に憑いてて良かったろ?」
口角とご機嫌メーターを上げるきーさんに身振りで促されつつ私はスマホを操作する。
うん、本当にきーさんってすごい。
メールは先週私が応募した国産牛肉セットの当選通知で数日以内に発送されるとのことだった。この前は地鶏の焼き鳥丼のレトルトパック一年分も当たっているからしばらくお肉には困らないかもしれない。
自慢げにふんぞり返るきーさんに苦笑し、私はスマホをローテーブルの上に置いた。
「今回は国産牛肉だって」
「おおっ、牛か。そいつはいいな」
「でも食べ過ぎないようにね。ポテチもお肉もほどほどにしないと」
「安心しろ、俺の胃袋はそこらの人間より丈夫だ。それこそ昔は牛一頭くらい余裕だったぞ」
「……」
私の頭の中できーさんが牛の喉笛に噛みついていた。人間の姿だとなかなかシュールなので本来の姿である狐になっています。うん、これならシュールじゃない。
とはいえ狐の姿でも牛一頭は多くないですか?
私は尋ねた。
「きーさんの胃袋は四次元なんたらとかなの?」
「なんたらって何だなんたらって」
「具体的に言うと角が立つかもしれないじゃない。で、どうなの?」
「ふむ」
きーさんが空になったポテチの袋に目を落とし、物欲しそうな顔をする。あ、こいつまだ食べ足りてないな。
「今でこそ毎日食べられているが昔は一週間何も口にできなかったりしたからな。獲物を狩るって楽じゃねぇんだぜ」
「……」
えーと。
そんなワイルドとかサバイバルとかって単語が浮かびそうな話をされても困るんだけど。
求めてないよ、そんなハードな答え。
きーさんがニヤリと笑いその場でポンッと音を立てて変化する。もわんと上がった白い煙が晴れるとそこに一匹の狐がいた。
赤っぽい茶色の毛並みの狐はふさふさの尻尾をゆらりとさせると前足をローテーブルに伸ばした。身を乗り出すように後ろ足で立つ。
「どうだこの雄々しい姿。こんな俺なら牛一頭なんて朝食の納豆ご飯を食うより簡単だって思わねぇか?」
「……」
思いません。
私は無言で即答した。いや、だって普通に答えたら怒るし。怒るよね?
黙っていたからかきーさんはフフンと鼻を高くした。ワオ、なーんか得意げ。ムカつく。
「あまりの格好良さに声も出ねぇか。ま、当然だな。けど惚れるなよ、小梅みたいなちんちくりんはタイプじゃねぇからよ」
「……」
「でもあれだ、小梅の作る飯は好きだぞ。あれを毎日たんまり食わせてくれるならちっとは考えてやっても……」
「だ」
「だ?」
「誰がちんちくりんですって?」
私が発した言葉にきーさんが反応した。
あ、やべ。
そんな心の声がしそうなほどきーさんの顔が引きつる。だらだらと流れる汗はなるほど滝のようだ。
私はゆっくりと立ち上がった。拳をぐっと握る。
ポキポキと指の間接だって鳴らしちゃうもんね。
きーさんが狐の姿のままずささっと後退した。だが残念ながら我が家はそんなに広くない。すぐに壁へと追い詰められる。
「こ、小梅。暴力反対。ここは話し合おう。な、暴力は何も解決しねぇぞ」
「暴力なんて振るわないよ」
自分でも冷たい声だと思う。
「ただ、口の利き方のなってない狐にお仕置きするだけ」
*
私にお仕置きされたきーさんが部屋の隅に転がっている。これは動物虐待ではないですよ。れっきとした躾です。
「ふんっ!」
私は一つ鼻を鳴らすと読みかけになっていたコミックスを手にした。回覧板を回すのはもうちょっとしてからにしよう。怒りで顔も恐くなってるかもしれないしね。
吹奏楽に情熱を注ぐ高校生たちの話で気持ちを落ち着けようと私は再びカーペットの上に腹這いになった。
「それ、面白いか?」
早くも復活したきーさんが人間の姿に化けて訊いてくる。くっ、さすが人外。少々のダメージでは屁でも無いか。
「面白いよ」
まだ機嫌の直ってない私はややぶっきらぼうに応える。
心が荒ぶっているからか、読み進めても内容が頭に入ってこなかった。そのせいで自分で言うほど面白くなくなっているけど、悔しいからそのことは黙っておこう。
きーさんが脇に置いてあった他の巻を拾い上げた。
「おっ、これ稲子の小説が原作のコミックスじゃねぇか」
「えっ?」
「はくまいおこげって稲子のペンネームだぞ」
「……」
私は驚きのあまり硬直してしまった。いわゆる石化です。誰か状態異常回復のポーションを持ってきてください。
「前にミトが教えてくれたんだ。別の本も読んだことあるぞ。あいつヒッキーの癖に面白いの書くのな」
「……」
ま、まじですか?
ミリオンセラー作家のはくまいおこげ先生って私のお隣さんなの?
えっ?
てことは、あれ?
ひょっとしてはくまいおこげ先生も人外なんじゃ……。
私は恐る恐るきーさんに尋ねた。
「あ、あのー、はくまいおこげ先生は人間だよね?」
「は? 何を馬鹿なこと言ってるんだ?」
心底呆れたようにきーさんがため息をついた。そうだよね。人間に決まってるよね。
「人外に決まってるだろ。このアパートで人間は小梅だけだぞ」
「……」
再度石化しかけたのをどうにか踏み止まる。というか何となくそんな気してたよ。ミトさんも兎の妖怪だったしね。
だとするとはくまいおこげ先生は何なのかな?
えっと、河合稲子って名前なんだよね。かわいいねこ……わぁ、何だか猫っぽい。
猫娘とかかな? めっちゃ可愛いかも。
じいっときーさんが私を見つめ、またため息をついた。今度はやたら深い。いわゆるクソデカため息だ。何故?
「あのな、何を想像しているか知らねぇが稲子は狼女だぞ」
「え」
「満月の夜に狼になるんだ。遠吠えとかは控えているらしいが見た目もちゃんと狼に変身するぞ」
「……」
ええっ。
猫じゃないの?
そんなの名前詐欺なのでは?
これ、訴えたら勝てそうな案件じゃない?
あまりのショックでしばらく石化が解けない私であった。
お客様の中に回復魔法の使い手はいませんか?
了。