第1話
文字数 6,772文字
猫を三匹
志水崇
心の平穏を失いかけると、私は決まって店の窓辺に目を移す。そこに置き去られたツイードのキャップが、《彼》の底抜けに解放的な笑顔を思い起こさせてくれるからだ。
〈いずれ取りに戻るだろう――〉
そう思っていたのだが、《彼》の最初で最後の来店から、間もなく一年が過ぎようとしている。奇妙な印象の若者だった……。
「ここのコーヒーは本物?」
まるで満開の向日葵のような笑顔で彼は、私が営む喫茶店に入って来た。私は、かつて彼以外にあれほど鮮やかな笑顔の人物を目にした記憶がない。しかも、彼は、笑うと、可愛らしい笑窪ができるのだ。
「人工物です。今は、本物を置いている店はない、と思いますよ」
「《あの星》では、本物を栽培しているらしい」
「ああ」
年齢は二十代半ばほどだっただろうか。若さの割に服装も変わっていた。遠い昔のアメリカ映画に出て来る田園紳士のようなひどくクラシカルな格好。ツイードのキャップをかぶり、ジャケットもダークブラウンのツイード。ウールのフィールドシャツはブラウンとバーガンディーのオンブレーチェック地。パンツはダークグレーのフランネルで、履いているスエードの靴はダークブラウンのウイングチップ・フルブローグだった。
「でも香りはすごくいい!」
大きく息を吸い込んで、彼は言った。
「お飲みになりますか?」
「もちろん! 少し濃い目に。砂糖もクリームもいらない」
「わかりました。では、おかけください」
私は彼にカウンター席をすすめた。
「少し時間がかかりますが」
彼は、キャップを取り、カウンターに置くと、席に着いた。
「いっこうに構わない」
私がサイフォンでコーヒーを入れ始めると、途端に地面が激しく揺れた。私は慌ててサイフォンのスタンドを掴み、アルコールランプを手で押さえた。
「こんなんじゃ、コーヒー一杯入れるのも一苦労だ」
「もう慣れました。気にしても仕方ないですから」
「そろそろだ、って話もある」
「噂は聞きます。でもその噂はもうずいぶん前から耳にしていました。本当かどうかは、誰にもわからないです」
コーヒーをサイフォンの下ボウルからカップに移し、ソーサーに載せて、カウンターに置いた。
「どうぞ」
彼は、カップに顔を近づけ、香りを確かめると、入れ立てのコーヒーを一口啜り、ゆっくり味わいながら、飲み下した。
「本物に負けてない、と思う」
「ありがとうございます」
私が笑うと、彼の笑顔は一層華やいだ。
「通りから店の内装が見えてね」
また一口コーヒーを飲み、彼は窓の外に目をやった。
「僕好みだったんで、入ってみたくなって」
「そうですか」
なるほど。彼の田園紳士風の装いは、店のレトロな雰囲気に違和感なく溶け込んでいた。私と趣味が合うのかもしれない。
「素敵なお召し物ですね」
「中古品なんだ」彼ははにかんだ。「実は、目をこらすと、あっちこっちに小さな穴があいている」
「中古でもいい品物なら……。本物は、どんどんなくなっていきますから」
「残念だね」
「まったくです」
不意に会話がとだえた。正確には、私が声をかけるのをやめたのだ。目の前のカウンターにいる彼が、驚くほど生真面目にコーヒーを味わっていたからだ。ただし、その間も終始、彼は笑顔のままだった。
「おいしかった」
コーヒーを飲み終えると、彼は言った。
お世辞ではないように、私には聞こえた。
「よろしければ、もう一杯いかがですか?」
そう私が彼に声をかけた時だった。はるか頭上からすさまじいごう音が響いて来たのは。
「船だ!」
彼は、そう叫ぶと、カウンターの上のキャップを引っつかんで、立ち上がり、店の出窓に向かって駆け出した。
「窓を開けても?」
窓辺に着くと、彼は、私を振り返り、大声で訊ねた。
「どうぞ!」
私も大きな声で答えた。
彼は、キャップを出窓のテーブル板に置き、両開きの窓を全開にすると、窓の外に身を乗り出し、上空を見上げた。ごう音を発している《アレ》を眺めるために。ごう音は更に激しさを増した。彼は何かに熱中する幼い子供のように一心に空を見上げ続けた。
十分近くたった頃だろうか。ようやくごう音は遠ざかり、やがて完全に消え去った。
ごう音の主を最後まで見送り、窓辺の彼は、窓を閉めると、私の方に向き返った。
「マスターは行かないの? 《あの星》に」
戻って来ながら、彼が訊ねた。
「私には、とてもあの莫大な金額の渡航費は払えません」
「じゃあ、このまま、ここで、ただ待つつもり?」
私の正面に立ち、彼はかさねて訊ねた。
「私はもう若くありません。家族もいませんし、妙な夢は見ないことにしています」
彼は不思議そうな顔で私を見詰めた。
「夢は持つべきだ、と思う。たとえどんな状況でも」
私は、適当な言葉が見つからず、苦笑するしかなかった。
「お金がなくても、行く方法はある」
ずっと笑顔を絶やさずにいた彼が、その時だけ、真剣な顔で私に言った。
「滅多なことは口にしない方が……」
「ほかに客はいないし、僕とマスターの二人だけじゃない」
「最近じゃ、《連中》は盗聴もやる、という噂です」
「マスターがその気なら、僕の知っている業者を紹介するけど」
私は黙ってかぶりを振った。
「僕らの選択肢は二つある。この現実を受け入れるか、それとも、挑んで、乗り越えようとするか」
「私の選択肢は端からひとつだけです。あきらめる──それが私の唯一すべての選択肢です」
彼は、憐れむように私を見詰めた後、ふと感慨にふける表情をした。
「僕には家族がいる。最近、娘が生まれたんだ。そう。マスターと同じで、僕の選択肢もひとつしかない。家族を連れて、《あの星》を目指す──それしか僕の選択肢はない」
「不正が見つかれば、家族も含めて処刑されます。その選択は、危険すぎる。それよりも、残された時間を家族と安らかに過ごすことの方が、賢明ではないですか?」
彼はまた不思議そうに私を見た。そして、店に入って来た時と同じ鮮やかな笑みを浮かべて、言った。
「たとえどんな状況に置かれていても、やはり夢は持つべきだ、と思う。新天地があるのなら、僕は家族をそこへ連れて行く」
彼の決意を祝福するようにふたたび激しく地面が揺れたが、彼は相変わらず笑顔を絶やさなかった。
彼が窓辺にツイードのキャップを置き忘れたのに私が気づいたのは、彼が店を出ただいぶ後のことだった──。
彼の来店から三日後。
二人の男が店にやって来た。二人とも揃いの堅苦しい黒のフロックコートを着ていた。礼装ではない。《あの組織》の制服だ。事実、二人とも左の上腕に組織のシンボルマークの入った赤い腕章をしていた。威圧的な気配と鋭い眼光から、コーヒーブレークに訪れた普通の客でないことは、一目で私にも理解できた。
「《渡航警察》だ」
二人のうち年上の方──四十過ぎぐらいの刑事が、コートの内ポケットから身分証を取り出し、私に見せて、言った。
「わざわざお疲れ様です」
「この男が店に来たはずだ」
今度は、もう一人の三十前後の刑事が、同様に内ポケットに手を入れて、写真を二枚取り出すと、私に見せた。写っていたのは彼だった。通りにある監視カメラの画像らしい。一枚は、店に忘れて行ったツイードのキャップをかぶり、通りから店の中をのぞいている彼の姿。もう一枚は、店の出窓から身を乗り出し、上空を見上げていた時の彼の姿だった。テーブル板に載ったキャップも写っている。
「ええ、覚えています。確か二、三日前に」
「三日前だ」
年上の刑事が厳かに言った。
私は、気圧され、訊ねた。「それで──その人が何を?」
「おや。知らないのか?」
年上の刑事はからかい口調で言ったが、黒々したその瞳はまるで射るように私の目を見詰めていた。
〈この刑事はすべて知っている〉
私はそう感じた。やはり私と彼の会話を盗聴していたのかもしれない。
「我々の仕事は、密航を事前に阻止することだ」
年上の刑事は、そう言うと、若い方の刑事が手にしている写真を一枚つまみ取り、眺めた。
「こいつは密航の準備をしている。知っているな?」
私は頷いた。「たぶんそうだ、と思います……」
「店に来たのは一度きりか?」
年上の刑事は、店内を見回しながら、訊ねると、ある一点に目をとめた。出窓のテーブル板に載っている彼が置き忘れたツイードのキャップだった。
「はい。一度きりです」
私は急いで答えたが、年上の刑事の関心は出窓のキャップに移っていた。すぐに窓辺に向かい、キャップを手に取ると、持っている写真と交互に見比べた。
「この帽子は奴の物だな?」
年上の刑事がまた私に訊ねた。
「そうです……」
「奴の忘れ物?」
「はい」
年上の刑事は、意味ありげに微笑み、キャップを元あった出窓のテーブル板に静かに置いた。
「引き上げるぞ」
年上の刑事は、若い方の刑事に呼びかけると、写真をコートの内ポケットに仕舞いながら、そのまま店の玄関に向かった。
若い方の刑事も、写真を内ポケットに仕舞い、同じように玄関に歩いて行った。
年上の刑事は、玄関手前で足を止めると、私を振り返った。
「奴が現れたら、かならず《渡航警察》に通報するように」
「わかりました」
年上の刑事は、一端玄関の取っ手に手をかけてから、もう一度私を振り返って、訊ねた。
「ところで、あんたは考えていないよね? 密航しようなんて」
「もちろんです」
「妙な夢は見ないことにしている?」
「その通りです」
「それなら、けっこう」
年上の刑事は、愉快そうに笑うと、勢いよく取っ手を引き、若い方の刑事と一緒に店を出て行った。
二人の刑事がいなくなると、私は、年上の刑事が彼のキャップを窓辺に戻した時の微笑の意味を想像して、不安にかられた。彼は間違いなく服装にこだわりを持っている。忘れて行ったツイードのキャップにも、きっと愛着があるだろう。もし彼が、キャップを取り戻しに、ここをふたたび訪ねて来たら──。《渡航警察》はかならずこの店を監視しているはずだ。彼は、決して無事では済まないだろう。
〈どうかキャップを取りに来ないでくれ〉
あの時、私は本気でそう祈った。
以来、およそ一年──。
《彼》は二度と店に現れなかった。だが、そのことが、《彼》の無事をただちに保証する訳ではない。《渡航警察》もまた、一度訪ねて来たきり姿を現さないからだ。それは、《彼》がすでに連中の手に落ちたことを示唆しているとも考えうるのだ。
〈あの鮮やかな笑顔がこの世界から消え去ったとしたら──〉
そう思うたび、心がすさむ私は、いつしか平静になるための儀式として、《彼》が窓辺に置き忘れたツイードのキャップを眺めるようになった。
〈キャップが窓辺にある限り、ふらりと《彼》は現れる──〉
それは根拠の乏しい単なる私の空想だった。
毎週水曜日の深夜。
私はこの公園を訪れる。水曜日に特別な意味はない。ただ経験的に水曜日が最も他人とでくわす可能性が低いのだ。以前、たまたま出会った老人に私のしていることを非難された。
「責任を負い切れないことをするべきじゃない」
老人は正しい。だが、間もなく消滅するこの星で見捨てられた命に誰が寄り添うのか。長い時間のことではない。私は非難を無視した。私のしていること──それは、飼い主に捨てられた野良猫たちに、週一度、餌をやることだった。
私は孤独を愛している。少なくとも恐れてはいない。やがて滅び去るこの星に自分の血を引く者が存在しない――その事実はしばしば私の心を安らかにした。しかし──。
野良猫たちを集めて、こうして餌を撒いている時、私はふと考えるのだ。私が野良猫たちを救っているのではなく、救ってくれているのは野良猫たちの方ではないのか、と。私は、無意識に心のどこかで、自分と同じ寄るべなき者たちとの共感に満ちた連帯を求めているのではないか。もしそうだとしたら、私は、自分で固く信じ込んでいるほどには《単独者》という立場になじんでいないのかもしれない。
〈おかしい――〉
さっきから公園を照らす電灯の下に、一匹だけ野良猫たちの食事の輪に加わろうとしない猫がいる。あたかも観察するように私をただじっと見詰めているのだ。ダークブラウンの長い毛を持つペルシャ猫のような──。
〈ああ! ランボオ! あれはランボオじゃないか! 戻って来たのか!〉
気まぐれで、気位の高いあの猫に、私は自分の好きな詩人の名をつけた。だが、一年以上前に姿を消してから、それっきりついぞ見かけることがなかった。帰って来ていたのか、ランボオ。
ランボオは、私を見詰めたまま、ついて来い、とでも言うように小さく横に顔を振り、歩き出した。
私は、驚いて、残りの餌をすべて地面に撒くと、すぐに後を追った。
ランボオは、二十メートルほど進んで、ベンチに飛び乗った。
ベンチの上には別な猫が二匹丸まっていた。
私が駆けて行くと、ランボオは、私を見上げて、一声啼いてから、二匹の毛をつくろうように代わる代わる舐めた。
「お前の家族なのか?」
私がランボオに声をかけると、誰かに背後から訊ねられた。
「◯◯さんですか?」
私は、ぎくりとして、振り返った。見知らぬ中年男だった。
〈なぜ私の名を知っているのだろう?〉
「水曜日のこの時間に、ここに来れば、あなたに会える、と人に聞かされました」
きちんとスーツを着ている。会社員なのだろうか。
「私に何か御用でも?」
「ある人に頼まれて、あなたにお渡ししたい物があります」
中年男は、そう言うと、私に封筒を差し出した。
私は、それを受け取って、中身を引き出した。何かの券のようだった。
「宇宙船に乗るのに、必要な《渡航許可証》ですよ」
「なんだって!?」
私はとっさに封筒ごと中年男の胸に押しつけた。
「いらない! どうせ偽造した物だろう!?」
その瞬間、ベンチのランボオが、「ギャア!」と私に向かって、歯をむいて叫んだ。
「決してばれないくらい精巧にできています」
私に偽の《渡航許可証》をプレゼントしてくれようとする人物は、私にはたったひとりしか思い浮かばない。私は、中年男の胸に偽の《渡航許可証》と封筒を押しつけたまま、訊ねた。
「これを、私に渡せ、と言ったのは、笑うと頬に笑窪のできる若者かい?」
「そうです」
中年男はあっさりと認めた。
「私は《彼》の名前すら知らないんだ」
「知る必要はありません。あなたはただこれを受け取るだけでいいんです。受け取った後、どうするかはあなたの自由。実際にこれを使って、この星を脱出するのも、使わない、と決めて、破り捨てるなり、燃やすのも、すべてあなたの自由です」
「しかし──」
「私の役目はこれをあなたにお渡しするところまで。そこから先のことは、あなた自身が自分で考えて、結論を出して下さい。では」
中年男は、《渡航許可証》と封筒をもう一度私に掴ませると、くるりと背を向けて、足早に去って行った。
呆然としている私に、ベンチのランボオが声をかけるように啼いた。目をやった私は、その時、信じられない光景を見た。ランボオが満面に笑みを浮かべているのだ。見覚えのある笑顔だった。
「お前は……」
私は、そう言ったきり、絶句した。
十日後──。
喫茶店をたたんだ私は、宇宙船に乗り込むため、搭乗手続きの列に並んでいた。ツイードのキャップをかぶり、両手に猫の入ったキャリーケースをさげながら。
「次の人」
カウンターの係員が言った。
「ペットを連れて行ってもいいんですよね?」
私は、進み出て、係員に訊ねた。
「検疫を受けた犬猫三匹まで」
「私は、猫を三匹」
《たとえどんな状況に置かれていても、やはり夢は持つべきだ、と思う》
あの日、《彼》に聞かされた言葉は、守るべき者を得た今、私自身の信念に変わった。私は、《彼》のはからいを受け入れ、ランボオ一家を引き連れて、われわれの新天地になるであろう《あの星》を目指して、今日、旅立つことにする。
〈了〉
志水崇
心の平穏を失いかけると、私は決まって店の窓辺に目を移す。そこに置き去られたツイードのキャップが、《彼》の底抜けに解放的な笑顔を思い起こさせてくれるからだ。
〈いずれ取りに戻るだろう――〉
そう思っていたのだが、《彼》の最初で最後の来店から、間もなく一年が過ぎようとしている。奇妙な印象の若者だった……。
「ここのコーヒーは本物?」
まるで満開の向日葵のような笑顔で彼は、私が営む喫茶店に入って来た。私は、かつて彼以外にあれほど鮮やかな笑顔の人物を目にした記憶がない。しかも、彼は、笑うと、可愛らしい笑窪ができるのだ。
「人工物です。今は、本物を置いている店はない、と思いますよ」
「《あの星》では、本物を栽培しているらしい」
「ああ」
年齢は二十代半ばほどだっただろうか。若さの割に服装も変わっていた。遠い昔のアメリカ映画に出て来る田園紳士のようなひどくクラシカルな格好。ツイードのキャップをかぶり、ジャケットもダークブラウンのツイード。ウールのフィールドシャツはブラウンとバーガンディーのオンブレーチェック地。パンツはダークグレーのフランネルで、履いているスエードの靴はダークブラウンのウイングチップ・フルブローグだった。
「でも香りはすごくいい!」
大きく息を吸い込んで、彼は言った。
「お飲みになりますか?」
「もちろん! 少し濃い目に。砂糖もクリームもいらない」
「わかりました。では、おかけください」
私は彼にカウンター席をすすめた。
「少し時間がかかりますが」
彼は、キャップを取り、カウンターに置くと、席に着いた。
「いっこうに構わない」
私がサイフォンでコーヒーを入れ始めると、途端に地面が激しく揺れた。私は慌ててサイフォンのスタンドを掴み、アルコールランプを手で押さえた。
「こんなんじゃ、コーヒー一杯入れるのも一苦労だ」
「もう慣れました。気にしても仕方ないですから」
「そろそろだ、って話もある」
「噂は聞きます。でもその噂はもうずいぶん前から耳にしていました。本当かどうかは、誰にもわからないです」
コーヒーをサイフォンの下ボウルからカップに移し、ソーサーに載せて、カウンターに置いた。
「どうぞ」
彼は、カップに顔を近づけ、香りを確かめると、入れ立てのコーヒーを一口啜り、ゆっくり味わいながら、飲み下した。
「本物に負けてない、と思う」
「ありがとうございます」
私が笑うと、彼の笑顔は一層華やいだ。
「通りから店の内装が見えてね」
また一口コーヒーを飲み、彼は窓の外に目をやった。
「僕好みだったんで、入ってみたくなって」
「そうですか」
なるほど。彼の田園紳士風の装いは、店のレトロな雰囲気に違和感なく溶け込んでいた。私と趣味が合うのかもしれない。
「素敵なお召し物ですね」
「中古品なんだ」彼ははにかんだ。「実は、目をこらすと、あっちこっちに小さな穴があいている」
「中古でもいい品物なら……。本物は、どんどんなくなっていきますから」
「残念だね」
「まったくです」
不意に会話がとだえた。正確には、私が声をかけるのをやめたのだ。目の前のカウンターにいる彼が、驚くほど生真面目にコーヒーを味わっていたからだ。ただし、その間も終始、彼は笑顔のままだった。
「おいしかった」
コーヒーを飲み終えると、彼は言った。
お世辞ではないように、私には聞こえた。
「よろしければ、もう一杯いかがですか?」
そう私が彼に声をかけた時だった。はるか頭上からすさまじいごう音が響いて来たのは。
「船だ!」
彼は、そう叫ぶと、カウンターの上のキャップを引っつかんで、立ち上がり、店の出窓に向かって駆け出した。
「窓を開けても?」
窓辺に着くと、彼は、私を振り返り、大声で訊ねた。
「どうぞ!」
私も大きな声で答えた。
彼は、キャップを出窓のテーブル板に置き、両開きの窓を全開にすると、窓の外に身を乗り出し、上空を見上げた。ごう音を発している《アレ》を眺めるために。ごう音は更に激しさを増した。彼は何かに熱中する幼い子供のように一心に空を見上げ続けた。
十分近くたった頃だろうか。ようやくごう音は遠ざかり、やがて完全に消え去った。
ごう音の主を最後まで見送り、窓辺の彼は、窓を閉めると、私の方に向き返った。
「マスターは行かないの? 《あの星》に」
戻って来ながら、彼が訊ねた。
「私には、とてもあの莫大な金額の渡航費は払えません」
「じゃあ、このまま、ここで、ただ待つつもり?」
私の正面に立ち、彼はかさねて訊ねた。
「私はもう若くありません。家族もいませんし、妙な夢は見ないことにしています」
彼は不思議そうな顔で私を見詰めた。
「夢は持つべきだ、と思う。たとえどんな状況でも」
私は、適当な言葉が見つからず、苦笑するしかなかった。
「お金がなくても、行く方法はある」
ずっと笑顔を絶やさずにいた彼が、その時だけ、真剣な顔で私に言った。
「滅多なことは口にしない方が……」
「ほかに客はいないし、僕とマスターの二人だけじゃない」
「最近じゃ、《連中》は盗聴もやる、という噂です」
「マスターがその気なら、僕の知っている業者を紹介するけど」
私は黙ってかぶりを振った。
「僕らの選択肢は二つある。この現実を受け入れるか、それとも、挑んで、乗り越えようとするか」
「私の選択肢は端からひとつだけです。あきらめる──それが私の唯一すべての選択肢です」
彼は、憐れむように私を見詰めた後、ふと感慨にふける表情をした。
「僕には家族がいる。最近、娘が生まれたんだ。そう。マスターと同じで、僕の選択肢もひとつしかない。家族を連れて、《あの星》を目指す──それしか僕の選択肢はない」
「不正が見つかれば、家族も含めて処刑されます。その選択は、危険すぎる。それよりも、残された時間を家族と安らかに過ごすことの方が、賢明ではないですか?」
彼はまた不思議そうに私を見た。そして、店に入って来た時と同じ鮮やかな笑みを浮かべて、言った。
「たとえどんな状況に置かれていても、やはり夢は持つべきだ、と思う。新天地があるのなら、僕は家族をそこへ連れて行く」
彼の決意を祝福するようにふたたび激しく地面が揺れたが、彼は相変わらず笑顔を絶やさなかった。
彼が窓辺にツイードのキャップを置き忘れたのに私が気づいたのは、彼が店を出ただいぶ後のことだった──。
彼の来店から三日後。
二人の男が店にやって来た。二人とも揃いの堅苦しい黒のフロックコートを着ていた。礼装ではない。《あの組織》の制服だ。事実、二人とも左の上腕に組織のシンボルマークの入った赤い腕章をしていた。威圧的な気配と鋭い眼光から、コーヒーブレークに訪れた普通の客でないことは、一目で私にも理解できた。
「《渡航警察》だ」
二人のうち年上の方──四十過ぎぐらいの刑事が、コートの内ポケットから身分証を取り出し、私に見せて、言った。
「わざわざお疲れ様です」
「この男が店に来たはずだ」
今度は、もう一人の三十前後の刑事が、同様に内ポケットに手を入れて、写真を二枚取り出すと、私に見せた。写っていたのは彼だった。通りにある監視カメラの画像らしい。一枚は、店に忘れて行ったツイードのキャップをかぶり、通りから店の中をのぞいている彼の姿。もう一枚は、店の出窓から身を乗り出し、上空を見上げていた時の彼の姿だった。テーブル板に載ったキャップも写っている。
「ええ、覚えています。確か二、三日前に」
「三日前だ」
年上の刑事が厳かに言った。
私は、気圧され、訊ねた。「それで──その人が何を?」
「おや。知らないのか?」
年上の刑事はからかい口調で言ったが、黒々したその瞳はまるで射るように私の目を見詰めていた。
〈この刑事はすべて知っている〉
私はそう感じた。やはり私と彼の会話を盗聴していたのかもしれない。
「我々の仕事は、密航を事前に阻止することだ」
年上の刑事は、そう言うと、若い方の刑事が手にしている写真を一枚つまみ取り、眺めた。
「こいつは密航の準備をしている。知っているな?」
私は頷いた。「たぶんそうだ、と思います……」
「店に来たのは一度きりか?」
年上の刑事は、店内を見回しながら、訊ねると、ある一点に目をとめた。出窓のテーブル板に載っている彼が置き忘れたツイードのキャップだった。
「はい。一度きりです」
私は急いで答えたが、年上の刑事の関心は出窓のキャップに移っていた。すぐに窓辺に向かい、キャップを手に取ると、持っている写真と交互に見比べた。
「この帽子は奴の物だな?」
年上の刑事がまた私に訊ねた。
「そうです……」
「奴の忘れ物?」
「はい」
年上の刑事は、意味ありげに微笑み、キャップを元あった出窓のテーブル板に静かに置いた。
「引き上げるぞ」
年上の刑事は、若い方の刑事に呼びかけると、写真をコートの内ポケットに仕舞いながら、そのまま店の玄関に向かった。
若い方の刑事も、写真を内ポケットに仕舞い、同じように玄関に歩いて行った。
年上の刑事は、玄関手前で足を止めると、私を振り返った。
「奴が現れたら、かならず《渡航警察》に通報するように」
「わかりました」
年上の刑事は、一端玄関の取っ手に手をかけてから、もう一度私を振り返って、訊ねた。
「ところで、あんたは考えていないよね? 密航しようなんて」
「もちろんです」
「妙な夢は見ないことにしている?」
「その通りです」
「それなら、けっこう」
年上の刑事は、愉快そうに笑うと、勢いよく取っ手を引き、若い方の刑事と一緒に店を出て行った。
二人の刑事がいなくなると、私は、年上の刑事が彼のキャップを窓辺に戻した時の微笑の意味を想像して、不安にかられた。彼は間違いなく服装にこだわりを持っている。忘れて行ったツイードのキャップにも、きっと愛着があるだろう。もし彼が、キャップを取り戻しに、ここをふたたび訪ねて来たら──。《渡航警察》はかならずこの店を監視しているはずだ。彼は、決して無事では済まないだろう。
〈どうかキャップを取りに来ないでくれ〉
あの時、私は本気でそう祈った。
以来、およそ一年──。
《彼》は二度と店に現れなかった。だが、そのことが、《彼》の無事をただちに保証する訳ではない。《渡航警察》もまた、一度訪ねて来たきり姿を現さないからだ。それは、《彼》がすでに連中の手に落ちたことを示唆しているとも考えうるのだ。
〈あの鮮やかな笑顔がこの世界から消え去ったとしたら──〉
そう思うたび、心がすさむ私は、いつしか平静になるための儀式として、《彼》が窓辺に置き忘れたツイードのキャップを眺めるようになった。
〈キャップが窓辺にある限り、ふらりと《彼》は現れる──〉
それは根拠の乏しい単なる私の空想だった。
毎週水曜日の深夜。
私はこの公園を訪れる。水曜日に特別な意味はない。ただ経験的に水曜日が最も他人とでくわす可能性が低いのだ。以前、たまたま出会った老人に私のしていることを非難された。
「責任を負い切れないことをするべきじゃない」
老人は正しい。だが、間もなく消滅するこの星で見捨てられた命に誰が寄り添うのか。長い時間のことではない。私は非難を無視した。私のしていること──それは、飼い主に捨てられた野良猫たちに、週一度、餌をやることだった。
私は孤独を愛している。少なくとも恐れてはいない。やがて滅び去るこの星に自分の血を引く者が存在しない――その事実はしばしば私の心を安らかにした。しかし──。
野良猫たちを集めて、こうして餌を撒いている時、私はふと考えるのだ。私が野良猫たちを救っているのではなく、救ってくれているのは野良猫たちの方ではないのか、と。私は、無意識に心のどこかで、自分と同じ寄るべなき者たちとの共感に満ちた連帯を求めているのではないか。もしそうだとしたら、私は、自分で固く信じ込んでいるほどには《単独者》という立場になじんでいないのかもしれない。
〈おかしい――〉
さっきから公園を照らす電灯の下に、一匹だけ野良猫たちの食事の輪に加わろうとしない猫がいる。あたかも観察するように私をただじっと見詰めているのだ。ダークブラウンの長い毛を持つペルシャ猫のような──。
〈ああ! ランボオ! あれはランボオじゃないか! 戻って来たのか!〉
気まぐれで、気位の高いあの猫に、私は自分の好きな詩人の名をつけた。だが、一年以上前に姿を消してから、それっきりついぞ見かけることがなかった。帰って来ていたのか、ランボオ。
ランボオは、私を見詰めたまま、ついて来い、とでも言うように小さく横に顔を振り、歩き出した。
私は、驚いて、残りの餌をすべて地面に撒くと、すぐに後を追った。
ランボオは、二十メートルほど進んで、ベンチに飛び乗った。
ベンチの上には別な猫が二匹丸まっていた。
私が駆けて行くと、ランボオは、私を見上げて、一声啼いてから、二匹の毛をつくろうように代わる代わる舐めた。
「お前の家族なのか?」
私がランボオに声をかけると、誰かに背後から訊ねられた。
「◯◯さんですか?」
私は、ぎくりとして、振り返った。見知らぬ中年男だった。
〈なぜ私の名を知っているのだろう?〉
「水曜日のこの時間に、ここに来れば、あなたに会える、と人に聞かされました」
きちんとスーツを着ている。会社員なのだろうか。
「私に何か御用でも?」
「ある人に頼まれて、あなたにお渡ししたい物があります」
中年男は、そう言うと、私に封筒を差し出した。
私は、それを受け取って、中身を引き出した。何かの券のようだった。
「宇宙船に乗るのに、必要な《渡航許可証》ですよ」
「なんだって!?」
私はとっさに封筒ごと中年男の胸に押しつけた。
「いらない! どうせ偽造した物だろう!?」
その瞬間、ベンチのランボオが、「ギャア!」と私に向かって、歯をむいて叫んだ。
「決してばれないくらい精巧にできています」
私に偽の《渡航許可証》をプレゼントしてくれようとする人物は、私にはたったひとりしか思い浮かばない。私は、中年男の胸に偽の《渡航許可証》と封筒を押しつけたまま、訊ねた。
「これを、私に渡せ、と言ったのは、笑うと頬に笑窪のできる若者かい?」
「そうです」
中年男はあっさりと認めた。
「私は《彼》の名前すら知らないんだ」
「知る必要はありません。あなたはただこれを受け取るだけでいいんです。受け取った後、どうするかはあなたの自由。実際にこれを使って、この星を脱出するのも、使わない、と決めて、破り捨てるなり、燃やすのも、すべてあなたの自由です」
「しかし──」
「私の役目はこれをあなたにお渡しするところまで。そこから先のことは、あなた自身が自分で考えて、結論を出して下さい。では」
中年男は、《渡航許可証》と封筒をもう一度私に掴ませると、くるりと背を向けて、足早に去って行った。
呆然としている私に、ベンチのランボオが声をかけるように啼いた。目をやった私は、その時、信じられない光景を見た。ランボオが満面に笑みを浮かべているのだ。見覚えのある笑顔だった。
「お前は……」
私は、そう言ったきり、絶句した。
十日後──。
喫茶店をたたんだ私は、宇宙船に乗り込むため、搭乗手続きの列に並んでいた。ツイードのキャップをかぶり、両手に猫の入ったキャリーケースをさげながら。
「次の人」
カウンターの係員が言った。
「ペットを連れて行ってもいいんですよね?」
私は、進み出て、係員に訊ねた。
「検疫を受けた犬猫三匹まで」
「私は、猫を三匹」
《たとえどんな状況に置かれていても、やはり夢は持つべきだ、と思う》
あの日、《彼》に聞かされた言葉は、守るべき者を得た今、私自身の信念に変わった。私は、《彼》のはからいを受け入れ、ランボオ一家を引き連れて、われわれの新天地になるであろう《あの星》を目指して、今日、旅立つことにする。
〈了〉