必ず、僕はここで
文字数 3,563文字
翌日の夕方。侑都くんに鎮痛剤のお買い物を頼まれ慌てて薬局へと駆け込んだ。指示の通りホテルに向かうものの部屋に彼の姿はなく、まだ仕事から帰っていない様子。お薬と一緒にペットボトルの水も用意し準備は万端、休息の邪魔をしないようこのまま帰ろうかとも思ったけれど、安眠を願って少しだけ片付けをすることに。ゴミをまとめ、テーブルを拭き、ベッドリネンを整える。枕の位置を整えていると、そこに顔を埋めたくなる衝動に襲われた。
大好きな香りがそばにある。とてつもない安心感に包まれ尻尾は大いに揺れ、堪らずに枕を抱えたままベッドに体を預ける。ベッド全体からさらに濃密な芳香が立ち昇った。
「侑都くんがいる」
いつの間にかうたた寝してしまったらしい。気づいた時には本物の侑都くんが帰ってきていた。そしてなぜか僕を背後から抱きしめている。その事実に気づいた瞬間、一気に目が覚め冷や汗が噴出した。
「いくっ……美波様、申し訳あり」
「ここにいて」
痛みのせいか、その声は弱々しく、同時にとても悲しそうだった。
「昨日あの後、色んなことを思い出したんです。真夜中に、一人で」
そして力のこもる彼の腕。
「あなたとは初めて逢ったのに、初めての気がしないんです」
「あの……」
侑都くん、見なくていいよ。遠く過ぎ去った痛みを思い出すことなんてないよ。だから僕 とはさよならしようよ。
「この街も初めてのはずなのに、初めての気がしないんです。それに今日、街で見知らぬ人に久しぶりって声を掛けられて。彼は私の友達だと言い、あなたのことも知っていました」
「美波様、あの」
彼を止めたいのに、止める隙を与えてくれない。
「過去の私はこの街であなたに逢っている。そうでしょう?」
「…………いいえ……はじめまして、です…………」
「そうですか。でももし知っていたら教えてください。『必ず、僕はここで』。この言葉の続きを知りませんか。大事な約束なのに、その先がどうしても思い出せなくて」
すると痛みに顔を歪め頭を押さえる侑都くん。相当痛むらしく息も荒くなり始める。
「侑都くんっ?!」
緩んだ腕の中、咄嗟に体を反転させて向き合った。悲しげな瞳がこちらを見つめる。
「……どうして。どうしてその名を。まだ教えていないのに、どうして……んんっ!」
「侑都くん、お薬飲んだ?お医者さん呼ぶ?」
電話に手を伸ばそうにも、彼に抱き寄せられそれは叶わない。
「…………真実を、教えてください………シオ……ン……さん……」
侑都くん。僕が持ってる真実はたった一つだけ。
僕は君のことが大好きってことだけだよ。
症状が落ち着くまで寄り添い、念のため朝まで見守らせてもらうことに。ソファの上で体を丸め、ただただ侑都くんを見つめる僕。ようやく彼の寝息が聞こえたのは深夜一時過ぎ。そのまま僕も、眠りについた。
***
カーテンから溢れる朝日に誘われ目が覚めた。いまだに鈍い痛みを残す頭が徐々に覚醒していき、視界の端に動くものを捉える。窓際のソファで緩やかに上下するふわふわの尻尾、シオンさんが寝ていた。まるで子犬のように体を丸め、尻尾で自らを包んでいる。とても可愛らしい。
起こさぬよう忍足で近づいてその顔を覗いてみる。怖い夢でも見ているのだろうか、目元が少し濡れていた。
それを見て、また何かを思い出しそうになったけれど、その何かは朧の中に沈んでいった。溜息を飲み込み、鎮痛剤を探す。
「んん、んにゃあ」
シオンさんの寝言が聞こえる。好奇心の赴くまま耳をそば立てた。
「…………いきゅとくん…………」
「…………っ…………!」
思い出した、君の笑顔。
『いきゅとくんに、たんぽぽあげう』
蘇った、私を呼ぶ声。
『いきゅとくん、まって』
帰ってきた。私の想い。
『シオン。たんぽぽ、受け取りに来るから。必ず、僕はここでシオンを……』
全部、戻ってきた。
ただいま、シオン。こんなにも待たせてごめんね。
私達はかつて家族だった。けれど今は他人。だからやっと、約束が叶えられる。
その柔らかな頬に、そっと唇を寄せた。
***
目を覚ますと、目と鼻の先で僕を見つめる侑都くんの姿が。あまりの近さに驚いたけれど、とても穏やかで優しさあふれる表情に心がふやけた。
「美波様、頭痛は治りましたか?」
「はい。おかげさまで」
ゆっくり体を起こすと侑都くんが尻尾ごと抱きしめてくれた。
「おはよう、シオン」
「お、おはようございます」
尻尾が揺れて彼をくすぐり、部屋中に幸せの笑い声が響く。僕もつられて笑顔になった。
出勤間際、侑都くんは僕をディナーに誘った。
「今日が最終日なので、お礼もかねてぜひ」
もちろん笑顔で了承した。けれど彼の姿が見えなくなった途端に笑顔は跡形もなく消えた。そう、二人の時間は今日で終わる。今夜には彼はいるべき場所に戻っていく。僕の契約は、出張の間、一週間だけ。明日のこの時間には彼はもう隣にいない。
別れ際に彼の前で号泣しないよう、寮に戻ってひたすら泣いた。
約束の時間、夜の六時。彼は時間通りに姿を現した。僕と違って軽やかな微笑みを浮かべ、早速例のイタリアンレストランへと入店。今回はナポリタンを注文し、上機嫌でたくさんお話ししてくれた。
「シオンさんはこれお好きですか?」
「今までで一番楽しかった思い出は?」
「この街でおすすめのお出かけスポットは?」
「デザートをシェアしませんか」
楽しめば楽しむほど時間は過ぎて、笑えば笑うほど離れたくなくなる。複雑な気持ちのままレストランを後にした。このまま駅へ向かうかと思いきや、彼は通りがかりのタクシーを呼び止め、振り向いて言った。
「寄り道してもいいですか?」
「はい、もちろん」
十五分程度のドライブでたどり着いたのは百合河原。綺麗にライトアップされた桜並木を二人で歩く。
「実は今日、会社で重要な会議がありまして」
「はい」
「ようやく決裁が降りました。このままここでプロジェクトを進めることになります」
「ここって、ここですか?」
一気に期待が膨らみすぎて思考力が急降下。なんともお粗末な質問になってしまった。
「ふふふっ。はい、ここです。百合区に転勤です」
「な、なるほど。急に決まって大変ですね。桜区に比べたら田舎ですし」
「いえ、いいんです。むしろ私には都合がいい。運がいいとも言えますね」
彼は足を止め、こちらに笑顔を投げかけた。
「もしも、たんぽぽが願い事を叶えてくれるとしたら、シオンさんは何を願いますか?」
「えっと……。特には、ないです」
嘘がバレないよう俯いた。
本当は、侑都くんとまた逢えますようにって願いたい。
「そうですか。私が願うとしたら、『また来年も一緒に桜を見たい』です」
「……っ……!」
それはいつか、桜の木の下で教えてくれた願い事そのものだった。
「思い出したんです。全部」
僕の手をとり優しく握りしめる彼。そこから伝わる温もりが全身を満たすようだった。
「シオン。たんぽぽ、受け取りに来るから」
彼の幸せそうな瞳から目が離せない。
「必ず、僕はここでシオンをお嫁さんにするから」
「……………いきゅ、侑都くんっ…………!」
嬉しい。人生一嬉しくて涙が溢れた。けれどそれは決して叶わぬ夢。
「侑都くん、僕はケモノビトだよ。人と結婚することは、許されない。僕は君のお嫁さんにはなれない、君と幸せになることはできないよ」
「そうかな?」
優しく涙を拭う指先。そのまま頬を包む手のひら。温かくて、心地いい。
「君の言う通り、法律的にはダメかもしれない。でも、幸せのカタチはそこに縛られたりしないはずだよ。人の想いを型に嵌めるなんて、誰にもできるはずがないのだから」
その名を呼ぶと、笑みを深める侑都くん。
「ねえシオン。これからの私たちは、見かけは隣同士の他人かもしれない。けれど本当は、確かに心で繋がり想い合うひと同士。君となら、きっと幸せになれるから。だからね」
「うん?」
「美波シオンになってよ。お願い」
ただひたすらに頷いた。嬉し涙が喉につかえて何も言葉にできないけれど、尻尾が全てを代弁してくれた。彼はそれも可愛いと褒めてくれた。
「おいで」
僕は素直に抱きついた。もう遠慮なんかしない。僕の幸せのカタチはまだ曖昧だけれど、唯一この想いだけはブレない。
「侑都くん、ありがとう。だあいすきっ」
その夜、彼は最終電車で桜区に帰っていった。首輪 も解消され、いま隣に彼の姿はないけれど、不安なんてこれっぽっちもない。僕らにはもう、さよならはこない。
***
時は進んで、たんぽぽがふわふわになった頃。
待ち合わせ場所の駅の東口には、黒いスーツケースを引きスカイブルーのシャツを纏う彼の姿。久しぶりにその姿を見て、僕は大きく尻尾を振った。駆け寄りながら、大好きな名前を呼ぶ。
「侑都くんっ!おかえりっ」
両手を広げ抱きとめてくれる侑都くん。
「ただいま、シオン」
僕らの幸せは、ようやく始まったばかり。
大好きな香りがそばにある。とてつもない安心感に包まれ尻尾は大いに揺れ、堪らずに枕を抱えたままベッドに体を預ける。ベッド全体からさらに濃密な芳香が立ち昇った。
「侑都くんがいる」
いつの間にかうたた寝してしまったらしい。気づいた時には本物の侑都くんが帰ってきていた。そしてなぜか僕を背後から抱きしめている。その事実に気づいた瞬間、一気に目が覚め冷や汗が噴出した。
「いくっ……美波様、申し訳あり」
「ここにいて」
痛みのせいか、その声は弱々しく、同時にとても悲しそうだった。
「昨日あの後、色んなことを思い出したんです。真夜中に、一人で」
そして力のこもる彼の腕。
「あなたとは初めて逢ったのに、初めての気がしないんです」
「あの……」
侑都くん、見なくていいよ。遠く過ぎ去った痛みを思い出すことなんてないよ。だから
「この街も初めてのはずなのに、初めての気がしないんです。それに今日、街で見知らぬ人に久しぶりって声を掛けられて。彼は私の友達だと言い、あなたのことも知っていました」
「美波様、あの」
彼を止めたいのに、止める隙を与えてくれない。
「過去の私はこの街であなたに逢っている。そうでしょう?」
「…………いいえ……はじめまして、です…………」
「そうですか。でももし知っていたら教えてください。『必ず、僕はここで』。この言葉の続きを知りませんか。大事な約束なのに、その先がどうしても思い出せなくて」
すると痛みに顔を歪め頭を押さえる侑都くん。相当痛むらしく息も荒くなり始める。
「侑都くんっ?!」
緩んだ腕の中、咄嗟に体を反転させて向き合った。悲しげな瞳がこちらを見つめる。
「……どうして。どうしてその名を。まだ教えていないのに、どうして……んんっ!」
「侑都くん、お薬飲んだ?お医者さん呼ぶ?」
電話に手を伸ばそうにも、彼に抱き寄せられそれは叶わない。
「…………真実を、教えてください………シオ……ン……さん……」
侑都くん。僕が持ってる真実はたった一つだけ。
僕は君のことが大好きってことだけだよ。
症状が落ち着くまで寄り添い、念のため朝まで見守らせてもらうことに。ソファの上で体を丸め、ただただ侑都くんを見つめる僕。ようやく彼の寝息が聞こえたのは深夜一時過ぎ。そのまま僕も、眠りについた。
***
カーテンから溢れる朝日に誘われ目が覚めた。いまだに鈍い痛みを残す頭が徐々に覚醒していき、視界の端に動くものを捉える。窓際のソファで緩やかに上下するふわふわの尻尾、シオンさんが寝ていた。まるで子犬のように体を丸め、尻尾で自らを包んでいる。とても可愛らしい。
起こさぬよう忍足で近づいてその顔を覗いてみる。怖い夢でも見ているのだろうか、目元が少し濡れていた。
それを見て、また何かを思い出しそうになったけれど、その何かは朧の中に沈んでいった。溜息を飲み込み、鎮痛剤を探す。
「んん、んにゃあ」
シオンさんの寝言が聞こえる。好奇心の赴くまま耳をそば立てた。
「…………いきゅとくん…………」
「…………っ…………!」
思い出した、君の笑顔。
『いきゅとくんに、たんぽぽあげう』
蘇った、私を呼ぶ声。
『いきゅとくん、まって』
帰ってきた。私の想い。
『シオン。たんぽぽ、受け取りに来るから。必ず、僕はここでシオンを……』
全部、戻ってきた。
ただいま、シオン。こんなにも待たせてごめんね。
私達はかつて家族だった。けれど今は他人。だからやっと、約束が叶えられる。
その柔らかな頬に、そっと唇を寄せた。
***
目を覚ますと、目と鼻の先で僕を見つめる侑都くんの姿が。あまりの近さに驚いたけれど、とても穏やかで優しさあふれる表情に心がふやけた。
「美波様、頭痛は治りましたか?」
「はい。おかげさまで」
ゆっくり体を起こすと侑都くんが尻尾ごと抱きしめてくれた。
「おはよう、シオン」
「お、おはようございます」
尻尾が揺れて彼をくすぐり、部屋中に幸せの笑い声が響く。僕もつられて笑顔になった。
出勤間際、侑都くんは僕をディナーに誘った。
「今日が最終日なので、お礼もかねてぜひ」
もちろん笑顔で了承した。けれど彼の姿が見えなくなった途端に笑顔は跡形もなく消えた。そう、二人の時間は今日で終わる。今夜には彼はいるべき場所に戻っていく。僕の契約は、出張の間、一週間だけ。明日のこの時間には彼はもう隣にいない。
別れ際に彼の前で号泣しないよう、寮に戻ってひたすら泣いた。
約束の時間、夜の六時。彼は時間通りに姿を現した。僕と違って軽やかな微笑みを浮かべ、早速例のイタリアンレストランへと入店。今回はナポリタンを注文し、上機嫌でたくさんお話ししてくれた。
「シオンさんはこれお好きですか?」
「今までで一番楽しかった思い出は?」
「この街でおすすめのお出かけスポットは?」
「デザートをシェアしませんか」
楽しめば楽しむほど時間は過ぎて、笑えば笑うほど離れたくなくなる。複雑な気持ちのままレストランを後にした。このまま駅へ向かうかと思いきや、彼は通りがかりのタクシーを呼び止め、振り向いて言った。
「寄り道してもいいですか?」
「はい、もちろん」
十五分程度のドライブでたどり着いたのは百合河原。綺麗にライトアップされた桜並木を二人で歩く。
「実は今日、会社で重要な会議がありまして」
「はい」
「ようやく決裁が降りました。このままここでプロジェクトを進めることになります」
「ここって、ここですか?」
一気に期待が膨らみすぎて思考力が急降下。なんともお粗末な質問になってしまった。
「ふふふっ。はい、ここです。百合区に転勤です」
「な、なるほど。急に決まって大変ですね。桜区に比べたら田舎ですし」
「いえ、いいんです。むしろ私には都合がいい。運がいいとも言えますね」
彼は足を止め、こちらに笑顔を投げかけた。
「もしも、たんぽぽが願い事を叶えてくれるとしたら、シオンさんは何を願いますか?」
「えっと……。特には、ないです」
嘘がバレないよう俯いた。
本当は、侑都くんとまた逢えますようにって願いたい。
「そうですか。私が願うとしたら、『また来年も一緒に桜を見たい』です」
「……っ……!」
それはいつか、桜の木の下で教えてくれた願い事そのものだった。
「思い出したんです。全部」
僕の手をとり優しく握りしめる彼。そこから伝わる温もりが全身を満たすようだった。
「シオン。たんぽぽ、受け取りに来るから」
彼の幸せそうな瞳から目が離せない。
「必ず、僕はここでシオンをお嫁さんにするから」
「……………いきゅ、侑都くんっ…………!」
嬉しい。人生一嬉しくて涙が溢れた。けれどそれは決して叶わぬ夢。
「侑都くん、僕はケモノビトだよ。人と結婚することは、許されない。僕は君のお嫁さんにはなれない、君と幸せになることはできないよ」
「そうかな?」
優しく涙を拭う指先。そのまま頬を包む手のひら。温かくて、心地いい。
「君の言う通り、法律的にはダメかもしれない。でも、幸せのカタチはそこに縛られたりしないはずだよ。人の想いを型に嵌めるなんて、誰にもできるはずがないのだから」
その名を呼ぶと、笑みを深める侑都くん。
「ねえシオン。これからの私たちは、見かけは隣同士の他人かもしれない。けれど本当は、確かに心で繋がり想い合うひと同士。君となら、きっと幸せになれるから。だからね」
「うん?」
「美波シオンになってよ。お願い」
ただひたすらに頷いた。嬉し涙が喉につかえて何も言葉にできないけれど、尻尾が全てを代弁してくれた。彼はそれも可愛いと褒めてくれた。
「おいで」
僕は素直に抱きついた。もう遠慮なんかしない。僕の幸せのカタチはまだ曖昧だけれど、唯一この想いだけはブレない。
「侑都くん、ありがとう。だあいすきっ」
その夜、彼は最終電車で桜区に帰っていった。
***
時は進んで、たんぽぽがふわふわになった頃。
待ち合わせ場所の駅の東口には、黒いスーツケースを引きスカイブルーのシャツを纏う彼の姿。久しぶりにその姿を見て、僕は大きく尻尾を振った。駆け寄りながら、大好きな名前を呼ぶ。
「侑都くんっ!おかえりっ」
両手を広げ抱きとめてくれる侑都くん。
「ただいま、シオン」
僕らの幸せは、ようやく始まったばかり。