2016年 秋

文字数 6,611文字

人生の何もかもが億劫なことがある。
私は臆病な人間だ。とても慎重に、暗い場所を避けて歩いて来た。なのに時々、自分がとんでもなく真っ暗な場所にいるような気がする。
特に、自分の顔を鏡で見る時。洗面台の前で自分を眺めていると、いつも気分が悪くなる。自分の顔を眺めていて吐いたこともあった。多分、吐くほどひどい顔をしているわけではない思うけれど、「鏡で自分の顔を見つめる」という行為に耐えられなかった。
百合子が消えてからその嫌悪感はより顕著になったように思う。だから私は高校にいる間、ほとんど鏡を見ずに過ごした。結果は火を見るよりも明らかで、髪はいつでもはね放題。一応、清潔に保っていたつもりではあるが、初めての化粧に胸を踊らせるはずの年頃を私はおしゃれとは無縁に過ごしてしまった。
幸いあまり恋愛に興味がなかったので、ボサボサの髪は大して私の人生の支障にはならなかったけれど、女友達たちからは当然変わり者扱いだった。それでもいじめなんかに発展しなかったのは本当に運がよかったと思う。私は変わり者ながら、クラスには馴染んでいた。
「お前さ、鏡見たら?」
私が、見知らぬ男にそんなことを言われたのは大学に入って半年後のことだった。
「そうだねえ、だけど君の知ったことではないんだなあ、これが。」
「なるほど。」
男は、黒縁メガネの奥で目を細める。
「確かにそうだな。でも、お前の母ちゃん美人だろ?」
「さあ、自分の母ちゃんの容姿について深く考えたことはないからわからない。」
「そうか。言われてみれば、俺もない。母ちゃんは母ちゃんだからな。」
「君、さては変人だね?」
「そういう意見があることは今後留意しよう。さて、俺は時間だから行くよ。」
そう言って、彼は去って行った。夏休み明けのせいで、どこか気怠い空気の漂う大学の中庭での事だ。
変な人間がいるものだな、と思った。
次に彼と出会ったのは、二週間後。私のアパート近くのカフェでばったり会った。
「あ、変人。」
思わず声が出た。私の小さな呟きを聞き逃さず、彼はパッと振り返った。
「お。ボサ子。」
「ボサ子とは失敬な。」
「じゃあ名前は?」
「三花。」
「いい名前じゃないか。ボサ子よりはセンスがある。失敬した。」
「変人は何故こんな所に?」
「・・・お前、自分の名前は訂正しておいて人のことは変人呼ばわりか。」
「だって、私は君の名前を知らないもの。」
「だからと言って変人呼ばわりはないだろう。聞けよ、名前ぐらい教えてやる。」
「そっちこそ、教えてやるとは何事よ。私は別に君の名前を知りたいと思っていないし、知ったところで、君を名前で呼ぶとの限らないんだよ。」
「・・・なるほど、お前さては変人だな?」
「今更気づいたの。」
「いや、この前から感づいてはいた。」
「それで?どうしてこんな所に?」
変人は小さなため息をつくと、後ろに背負った大きな荷物を指差す。
「ちょっと、音楽をやりに。」
私は彼の荷物を不躾なぐらいまじまじと眺めた。大きな黒いケース、滑らかな曲線。
「・・・ギター?」
「うん。」
「エレクトリックギター?」
「いや、アコースティックギター。」
「楽しい?」
「ああ。楽しいよ。一応補足しとくと、この近くの公会堂の防音室を時々借りて弾いているんだ。」
音楽。趣味は音楽。なんて安易な響きだろう。趣味は読書と答えるのと同じぐらい無個性な響きだだ。しかし、愛しい響きだとも思う。とても平和で、ありふれていて。
「じゃあ将来は売れないギター弾きになるの?」
「ならねえよ。将来は税理士になりたい。」
「ほう。」
具体的すぎて笑った。良い具合だ。この変人の日常と非日常のバランスは。
「お前は?」
当然予想された質問だが、最も迷惑な質問だ。
「・・・さあ。私、今日を死なずに生きているので精一杯だから、わからない。」
この質問をされたら、出来るだけ戯けた調子でこう答えると決めている。滑稽ながらも便利な道化。ついでに、嘘でもない。
私が言ってから、変人はしばし黙った。変人の癖にしゃらくさい。なるべく戯けた調子で言ったのに、こいつは私の言葉に混ざる真実を嗅ぎ分けたのだろう。そういう、少しシリアスな沈黙だった。
「三花、お前飯食ってる?」
「唐突な上に呼び捨てとはいい度胸だね。食べてるよ。」
「今日の朝何を食べた?」
「ドーナツとコーヒー。」
「昨日の夜は?」
「もやしのナムルと親子丼。」
「コンビニで買ったわけか。」
変人は呟いて、考え込んだ。
「さてはお前、真夜中に起きている?」
「そうだね。眠るのは得意じゃない。」
「バイトは?」
「してる。ものすごくしている。」
「その上、鏡を見ない、と。」
「そうだね。」
「・・・三花。お前、さては破綻した生活を送っているな?」
私は、めい一杯わざとらしく肩をすくめる。
「さあね。私の生活スタイルをそう呼称するという意見があることは留意しよう。」
破綻した生活。
とても不安げな雅春の顔が思い浮かんだ。雅春が私のことを心配していることは知っている。しかし、知ったところで私がどうにかなるわけでもない。雅春は私を心配し、私は破綻した生活を続ける。それだけだ。
ただ、私は時々とんでもなく雅春に会いたくなる。見知らぬ街で呼吸する雅春の事を思うのは、不思議な感じがする。緑の山の代わりに、灰色のビルディングを背景に立っている雅春。そして、同じく、澄んだ川の代わりに、人混みのスクランブル交差点を背景に立っている私。
別に、私は人混みのスクランブル交差点が嫌いだと言っているわけではない。いや、嫌いなことは嫌いだが、趣旨はそこではない。
つまり、私には、どちらかが夢であるような気がしてならない時がある。私はどこかに「現実」を落としてしまったのだと思う。
雅春に最後に会ったのは、あの金環日食の日だ。あの美しい朝は確かに私たちの一区切りだった。私はあれから百合子の夢を見なくなったし、雅春も電話の途中で百合子の名を口に出すことを躊躇わなくなった。けれど、赤い風船は未だに空を上昇している。
「三花。」
我に返った私を、変人が怪訝な面持ちで覗き込んでいる。
「なに?」
「お前、危ない奴だな。」
思わず口角が上がる。自分でも不気味な笑みを浮かべてしまった自覚があった。
「今更気づいたの。」
「うん。今気づいた。」
変人は困った顔をした。
「さて、どうするかなあ。」
「なにが?」
「お前のことだよ。」
「なんで?」
「なぜなら、俺はお人好しの阿保垂れだから。その上、俺はちょっと痛いぐらいロマンチストなんだ。」
「ふうん。」
変人はため息をついた。
「そうだなあ。とりあえず、俺とギターでも弾かないか?」
「私、楽器やったことないから。」
「じゃあ、音楽は聴く?」
「うん。聴くのは好きだよ。」
「聴くだけでもいい。暇なら、一緒に来い。」
「口説いてるの?」
「いや。お前の事は気になるけれど、タイプではない。」
「変人、君は彼女に平手打ちされたことがあるタイプだね?」
「俺は慶一郎。怪しいものではありません。税理士を目指す一介のギター弾きです。」

慶一郎に連れられて行った公会堂は街の外れの閑静な住宅街にあった。所謂、高級住宅街と呼ばれる部類の場所だろう。家々は皆大きく、道の街路樹はよく手入れされていた。そして何より、坂道だ。お金持ちは坂の街に住みたがる習性がある。
私が住むアパートがあるのはこの坂が見下ろす、もう少し安価な庶民の街。だから距離的にはたいして離れてはいないものの、心の距離が果てしないので、こちらの区画に来たことは殆んどない。
「家が大きいし、坂が辛い。」
「ああ。」
「こんなところに公会堂なんて作って大丈夫なの?お年寄りが登ってこれないじゃない。」
「バスが出てるし大丈夫だろう。」
「なんで、私たちはバスに乗らないわけ?」
「体力造りだよ。音楽には体力がいるんだ。」
今度は私がため息をつく。
「帰りはバスに乗る決意を私が今固めたことを覚えていて。」
「時間が合えばな。」
秋を感じる。秋は好きだ。例えば、空が好きだ。秋空に目を凝らすと、遠く紺碧の天にひっそりと呼吸する、真昼の星々までもを感じることができる。森も好きだった。黄金の森には命のざわめきが満ちる。
そして、何よりも晴れた秋の日を渡る風が好きだ。冷たい風に草木は歌い、最後の花は一層色づく。私はあの澄み切った風が残してゆく、気持ちの良い寂寞が好きなのだ。風が駆け抜けた後にしんしんと降るあの静けさ。その中でだけ私たちは、ふと、振り返る事を許される。自らの幸福や哀しみ。それらを遠くから眺めて安堵し、涙し、最後は相反するそれらの感情を風に託す。
風は、矛盾を溶かして駆け抜けてゆく。
私は、秋風には目指す場所がある様に思われる。それが何処なのかはわからない。けれど、きっと何処か遠く、この世の果ての然るべき場所に向かって、秋風は吹いている。
なんてね、ロマンチストはお互い様。
「着いた。」
「意外と遠かった。」
綺麗な白い建物。
慶一郎は自動ドアを颯爽と潜り、事務のおじさんと話をする。慣れたものだ。きっと本当に良く来る場所なのだろう。感じの良いおじさんは私にもニコニコと会釈をしてくれた。
今日は講演などもないようで、建物はひっそりとしていた。とても静かで、心地がよかった。私はおじさんに許可を得て誰もいない広い施設を歩き回った。
こじんまりとした講堂。立派なキッチン(多分、ここで綺麗な女の人たちがお料理教室を開いたりするのだろう)。それから、大きな畳の和室。隣の部屋にはグランドピアノが置かれている。他にも、大小様々な部屋たち。
一見、統一感も何もないように見える施設だが、どの部屋もきちんと掃除され、人の息づかいが感じられる。ここで営まれる人々の幸福な日常の一コマ。それって素敵なことだ。
「私、ここが気に入った。」
先に防音室に行っていた慶一郎に私は宣言した。
「おう。俺もここが好きだ。」
「私、何をするべき?」
「座るでも、立つでも、歩くでも、走るでも、寝るでも、ご自由に。俺はギターを弾くから。」
「ふむ。」
私はとりあえず、壁に立てかけてあったパイプ椅子を部屋の隅に開いて座った。
慶一郎はそんな私をちらりと見てから、丁寧にギターを取り出した。茶色くてピカピカ光る綺麗な楽器。雄一郎の骨張った手にギターはよく映えた。
弦を押さえ、はじく。ただ、それだけだったはずなのに、
音の代わりに、音楽が部屋を満たした。
私は目を見開く。
弦の振動が心臓まではっきりと伝わる。
まるで大切なものを抱きしめるみたいな、穏やかな音楽、優しい時間。
ありきたりで、無個性な響き?よく言えたもんだ。一時間半前の私。
私は感動をなるべく押し殺して、慶一郎が一曲を弾き終わるのを待った。とても長い時間だった。終わらなくても良いと思った。
「どう?」
慶一郎は一曲目を弾き終わると言った。
「もしかしてなんだけど、君はギターがうまい人?」
「どんな感想だよ。なんて答えればいいのかさっぱりわからん。」
「褒めてるの。かなり。」
「どうも。」
「ねえ、お願いがあるんだけど。」
慶一郎は少し以外そうな顔で私を見た。私が頼みごとをするタイプには見えないのだろう。
「何?」
「心配しないで、金を貸せとかじゃないから。二つ隣の部屋で弾いてくれない?」
「なんで?防音室は一つしかないんだけど。」
「ここは、窓がないから。」
「窓?」
私は頷く。
「もっと明るいところで音楽が聴きたい。」
「・・・どうだろうなあ、これでも結構ギターの音って響くから、ご近所さんからクレームがくるかも。」
「君の音楽を聴いて、クレームを寄越すような人間のことは放っておきな。」
「暴君だな。」
「いいから。もしクレームが来たら私が追い返してあげる。」
「いや、謝れよ。その時は・・・でも、いいよ。」
私は思わず笑顔になった。自分でも予期しない笑顔だ。
慶一郎は私の顔を一瞬まじまじと見た。
私は馬鹿ではない。だからその瞬間、慶一郎が私を女として認識したことを本能でとらえた。
「何?もしかして、私の笑顔に惚れた?」
そんなことを口走った時点で私は随分と動揺していたのだろう。
「ちょっと。」
彼のあまりに素直な言葉は追い打ちだ。
「ねえ、嘘とかつけないわけ?」
「ついても、お前にはバレる気がする。その方が恥ずかしい。」
「呆れた。私の何を君は知っているの。」
「変人で、名前は三花。破綻した生活を送っている大学生。それでさ、お前、近しいだれかを亡くしたことがあるだろう。」
今度こそ驚いた。
「なんで、」
「さあ。」
「今、私の中で君のストーカー疑惑が急浮上してるんだけど。」
「ちげえよ。たとえ俺がストーカーでも、お前を標的にはしない。」
「まあそれもそうだね。だけど、とにかく君は変人だ。」
「お前にだけは言われたくないけどな。」
そう言って慶一郎は立ち上がった。
「ほら、移動するんだろ。」
私は慶一郎の後について、何故かとぼとぼ歩く。
隣の隣の部屋は小さな部屋で、窓が印象的だった。私は部屋に入るなりその窓を開け放った。
秋の風が流れ込んでくる。冷たく澄んで雪の匂いのする風は、故郷の風景を思い出させる。失った何かを、思い出させる。
「さあ、思う存分弾いて。」
慶一郎は私に胡乱な視線を投げかける。
「女王様かよ。」
そして、彼はギターを抱え直した。
彼の指から紡がれる、秋の音楽。
私は狭い床に寝転んだ。天井が見える。窓の外には空が見える。神聖な青だ。こんなに明るい気分になったのはいつぶりだろう。
そのまま眠りこけた私の呼吸を時々確認しながら、慶一郎は夕暮れまでギターを弾いていた。と後から聞いた。微動だにしない私は死んでいるように見えたという。

帰りのバスの中で慶一郎が言った。
「よし、三花。飯を食うぞ。」
「え、奢ってくれるの?」
「金は出さん。」
「どういうことですか。」
「とりあえず、コンビニ飯ではなく、何か健康的なものを食べよう。という試みだ。」
「なるほどね。お母さん。」
「そうだ、お母さんもお前がこんな生活を送っていると知ったら悲しむぞ。」
「尋問?」
彼の背中でギターが揺れる。
「慶一郎。君はギターが上手いみたいだ。」
思い出したように私は言った。
「どうも。」
彼は照れたように呟いた。
「もしかしたら売れるギター弾きになれるかもしれない。」
「いや、俺は税理士になる。」
「頑なな意思だなあ。でも、ギターは続けるといいよ。」
「・・・お前、やめろよ。俺は褒められ慣れていないんだ。」
私は不思議に思った。音楽に精通しているとは言い難い私だが、それでも、彼の技量が確かなことだけは伝わった。彼ほどの腕を持っていれば高校の文化祭だってスターになれる。
「どうして、みんな君を褒めないんだろうか?」
「・・・どうして、ってなあ。俺は他の人にギター弾くところを見せたことがないから、褒められようもない。」
私はまた驚いた。
「なぜ?むしろ、なぜ私に音楽を聞かせてくれたの?」
「・・・俺は、生きるためにギターを弾いている。だから、生死をかけて戦っている人間以外に、俺は俺の音楽を聞かせてやることはできない。」
私は黙った。この変人に、私は生死をかけて戦っている人間として映っているらしい。
「ねえ、私は死にそうに見える?」
「・・・少しね。死ぬというより、消えそうに見える。もしくは、幽霊に見える。」
「・・・君、危ない人間だね。そして、怖い人だ。」
ちょっと聡すぎる。
「そうかもな。」
私たちは黙って、ラーメンを食べた。最初の趣旨はどこへ行ったのやら、全く健康的ではない食事だった。後はやけくそで、最終的に私たちは餃子まで注文してしまった。
帰り際、私は言った。
「慶一郎の秋の音楽は、冬にも春にも夏にも聞きたいような音楽だったよ。」
「・・・恥ずかしいことを言うやつだな。」
「勘違いしないでね、まだ好きじゃない。私はもうしばらく呪いのせいで人を好きになれないんだ。」
その夜、故郷で今年初めての雪が降った。
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