月下美人

文字数 1,684文字

 夏の日。
 私は横浜のライブ会場にひとりでいる。周りはライブTシャツを着た若者ばかり。おばさんひとりなんて、不似合いな場所だ。
 暑い、熱い。少し体を冷ますために、カフェに入る。そこも大混雑で、時間制限が設けられているけども、足を休ませるだけ。

 息子が生まれて14年。今までかかりきりだったけど、ようやく手がかからなくなった。14年間、兼業主婦として私なりに頑張ってきたつもりだ。私は何か間違えたのだろうか? アイスコーヒーに口をつけながら思案する。

 息子が生まれてからわりとすぐから、私は仕事を始めなくてはならなかった。夫の稼ぎだけだと子どもを大学まで進学させるのが難しいからだ。習い事もさせたいし、部活動にもお金がかかる。何事にもお金。お金がなかったら息子に必要だと私たち夫婦が思う教育を施せない。それが悲しきかな、庶民の生活だ。夫の年収500万、私の収入300万。計800万あっても生活は苦しい。

 息子はどんどん成長していく。保育園に預け、私は仕事に行く。「成長」なんて言っても、ろくに彼のことを見ていてあげられなかった。今になって悔んでも仕方ないことだけども。
中学生になった彼と私の間には、見えない溝ができていた。修復できない溝が。話はする。学校のことも話してくれる。はたから見ると、母親思いの優しい息子だろう。私もそう思う。だけど、どこかたまによそよそしいところもある。思春期だからなのかもしれないが、いよいよ私の手がかからなくなったという寂しさがあるのかも。

そんなときに出会ったのが、今日ライブがあるバンド。初めて聞いたのは、偶然車の中で流していたラジオ。ボーカルの優しい声。寄り添ってくれるような歌詞。やわらかい曲に心揺さぶられた。

ああ、こんなに心が揺らいだのは何十年ぶりだろう。このバンドを調べて、片っ端から曲を聞いた。なぜこんなに心に刺さるのだろう。私の心は、感動に飢えていたのだろうか。感情が渇いていたのだろうか。

SNSで同じバンドが好きな仲間を募った。同年代の仲間を欲した。でも、私たちの年代は悲しい。結局曲やバンドの良さ「だけ」を話す友達ができず、SNSは蟲毒になった。私も蟲毒の中でさらに孤独を感じた。

自立を覚えた息子。私の話をろくすっぽ聞いてくれない夫。温かい家庭の幻想はどこへ? こんな毎日、人生を送りたかったの? 自分に何度も問う。私の人生の最盛期はもう終わってしまったの? 

そんな毎日を送っていた時に発表された、ライブの日。行きたいと思った。人生初めてのライブだ。今まで花があるようでなかった私の人生。彩を与えてくれる彼らのステージを、生で見てみたい。でも、誰と一緒に行こう? リアルの友達に布教もしたけど、友達は「若い人が好きな曲だよね」とだけ。興味を持ってくれなかった。SNSの友達なんか信用ならない。毒がある。そもそも私には家庭がある。子どもや夫をほったらかして、ライブに行ってもいいのかしら。……いいでしょ? 私の人生は、子どもが生まれたら子ども一色になるわけじゃない。私の人生だって、一度きりなんだから。楽しまなきゃ損じゃない。

「お母さん、行きたいライブがあるんだけど」

 このひとことにどれだけ勇気がいっただろう。私の緊張とは裏腹に、息子はあっさりと返答した。

「勝手に行けばいいじゃん」
「一緒に行こう? 今若い人に人気のバンドでしょ?」
「俺は好きじゃない。それに、お母さんと一緒に行きたくない」
「……そう」

 そうよね。もうそんな年齢よね。

 チケットサイトでの枚数指定。私は少し悩んでから、「1枚」を選択した。

 カフェが混んできた。そろそろ出よう。開場時間も近いことだし。ライブ会場、私は完全なアウェーかもしれない。ぼっちだし、会場にいる子たちよりおばさんだし。

 だけど、音を楽しむのに年齢は関係ない。
 音楽と私は、いつだって一対一なんだから。

 今夜は精一杯楽しもう。私の人生に一夜限りの花を咲かせよう。
 この花はまるで、一晩でしぼんでしまう月下美人のようだ。
 今夜の私は月下美人。おばさんだけど、大輪の美しい花を咲かせるのだ。
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