第1話

文字数 2,809文字

「もしもし、サチコ?」
「私。、、、わかる?ママ。」
 え?
 一瞬、ハッと思ったが、あまりにも唐突にかかってきた公衆電話からの着信を、私はあっさりととってしまった。
 電話の声は、もう5年近く連絡をとっていない、母の真知子の声だった。真知子からの電話は着信拒否にして、これまで何度かかかってきても、私が電話をとることはなかった。だから、真知子の声は5年ぶりだ。




「あんた、今何してんの?あのね、荷物をとりにきて欲しいの。あんたの嫌いな晃司さんはいないし。別れたの。ね?いいね?あんたの荷物なんだからとりに来なさいよ。」
 そう言うと、電話はガチャンと切れた。

 相変わらず自分勝手だなと思う。5年経っても変わらない真知子の態度に、久しぶりになんとも言えない嫌な気持ちになった。

 晃司と別れた。
 そうか。だからか。
 晃司というのは10年程近く前に真知子の家にやってきて、我が物顔で真知子の家に住むようになった、真知子より10歳も若い男だった。
 晃司が現れてから、もともと良くなかった真知子と私の関係はますます悪化して、私は真知子と連絡すらとらなくなってしまった。私が真知子の家を出たのは就職してすぐ、ちょうど晃司が真知子の家にやってくる少し前だった。家を出てもたまには真知子と買い物に出かけたり、仲が悪くても、なんとか友達のような親子をしていたが、晃司が現れてからの真知子は、晃司に夢中で、私との約束などはすっぽかすようになっていった。
 真知子は晃司しか目に入らなかったのだ。

 晃司がいなくなったからといって、今更、一体どんな顔で電話をかけているのか。電話口の彼女を想像するだけで、これまでの真知子の自分勝手な行動が思い起こされて、苛立ってくる。
「あんたの荷物なんだから取りに来てね。」
 荷物は彼女の口実で、寂しくなったのだろう。
 今までもそうだ。彼女がこちら側を向くのは、たいてい男とうまくいかなくなっている時だった。

 電車で1時間程もあれば着く真知子の家まで、何駅分だろう。扉が開いて誰かが乗って、また開いて誰かが降りるたび、自分以外の人間は、なんて自由だろうかと思えた。
 駅に着くたびに開いては閉まる扉の向こうは、全く別の世界が広がっているように見える。



 私は降りることをいつでも選べるし、引き返すこともできる。それでもそうしない理由が、自分でもわからないのだ。自分の荷物なんて、今まで忘れていたような物なんだから、きっとたいしたものではない。真知子が私を呼び寄せる口実だ。そこまでわかっていても、結局私は、真知子が待つ駅まで降りることはしなかった。

 改札を出て階段を降りると、一際目立つ出立ちで真知子は立っていた。相変わらず高いヒールに、膝上の短いスカート、目元も口元も強調された、派手な化粧で現れた。少し前までは綺麗にのっていたファンデーションは浮き上がり、長く綺麗だったロングヘアは髪が細くなりすっかりボリュームがなくなっている。美人が自慢の彼女だが、電話口の声とは違って、真知子の姿は5年という時の重さを物語っていた。 

「久しぶり!車で来たから、あっち。」
 真知子が指差した先には、晃司が得意げに運転していた真知子のベンツがあった。

「最近はね、お店も毎日は開けてないの。私も少しは休まないとね。ま、気楽にやってる感じ。」
 会うのは5年ぶりだし、着信拒否までされていたのに、真知子は全く気にする様子もなく、昨日や一昨日も会っていたかのような態度だった。

 車は真知子の家に着くまでに、真知子の小さな店の前を通った。真知子が若い時から営んでいた小料理屋だ。父と離婚してから仕方なく始めたという真知子の店は、常連客で賑わう人気店だ。美人で華やかで気さくな真知子のファンも多い。真知子はここで出会う客と特別な関係になることも多いが、それが原因で店の客が離れていくことはなかった。

 真知子のマンションの部屋に着くと、以前とは変わらない部屋の様子に、まだ少しだけ晃司がいた気配が残っていた。自分の住んでいた場所でもあるのに、すっかり他人の匂いがする居間に、落ち着かなかった。そんな私の様子を気にすることもなく、真知子はこれまでの晃司との生活を話し始めた。晃司は優しいが、時々言葉が悪いこと。旅行に行っては、その日の過ごし方が真知子とは意見が合わないこと。真知子の送り迎えで車を使うのは助かったが、大事なベンツの鍵を失くされて大変だったこと。聞いてもいないし、聞きたくもないのに、ペラペラ喋り始めた。結局は晃司から家を出たらしい。散々の晃司の思い出話と悪口を、子供みたいに泣きじゃくりながら話した真知子は、少しスッキリしたのか、「あ、そうだ。」と、思い出したかのように奥の和室を指差して、
「あれ、持って帰ってね。」
と言った。

 部屋の片隅にあったのは、子供の時使っていた、ままごとだった。
 懐かしい。まだあったのか。真知子が店に出て家にいない時、よく一人で遊んでいた。
「これ、捨ててなかったんだね。」
「捨てられないじゃん。あんた、それ、気にいってたから。あんた持って帰ってよ。」

 真知子がままごとを捨てていなかったことが不思議だった。真知子は必要ないと判断したものはなんでも勝手に捨てた。私が大切にしていたぬいぐるみや、気に入っていた洋服や、全部捨ててしまった。
 なぜ、ままごとは捨てていないのか。真知子の記憶の中の私は、どんな風にままごとで遊んでいたのだろう。
 たまに垣間見える真知子の母性の片鱗は、私の心の底の真知子に対する僅かな期待と結びついて、心を離さない。
 真知子との途切れ途切れの親子の絆は、雨に濡れた蜘蛛糸のようだ。
 こうやって、見えない糸で、まだ繋がっているのだ。雨が降るまで、私達はまだこんな糸で繋がれていることに気付くことはなかった。真知子が寂しくなるたび、涙を流すたびに、思い出されたかのように糸は存在感を増し、たぐい寄せられ、私はまだこの糸を切れない。

「ごめん、常連さんに今日お店来たいって急に言われたから、今から私準備に出るわ。家、鍵閉めたらポストに入れといて。じゃあね。」
 そういうと、かかってきた携帯電話を慌ててバックに放り投げ、真知子はそそくさと家を出て行った。
 
 彼女はまた、晃司のような誰かを見つけてはどこかにいってしまうのだろう。最初から、真知子と私がそうであったかのように、当たり前に私のほうを見向きもしなくなるのだろう。
 真知子に置いてけぼりにされた私とままごとは、私が幼い時と変わらずに西陽を浴びていた。
 真知子の中では綺麗な思い出も、私にはいつも真知子を待っていたときに遊んでいた切ない思い出だ。
 こうしてこれからも、私たちはお互いの求め合うものが噛み合わないまま、時にお互いの糸を引き合うのだろう。

 窓から少しだけ見える真知子の店に、灯りが点る。

 私はままごとを残して、真知子の家を出た。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)
  • 【写真で一篇】〈完結〉

  • 第1話

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み