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 往来に面した民家の庭先に、赤黒いものが落ちていた。近づいてみると、それは小さな鳥の死体だった。
 骨と羽、いくらかの鮮やかな血がそこに残るだけで、肉という肉は全て削ぎ取られているようだった。断定こそできないが、大きさや羽根の色から、この鳥はどうやらこの辺りを飛び回っていた燕のうちのどれか一羽ではないか、と考えた。
 かわいそうだとか痛ましいだとか、そういった感想を抱く前、私は単に「不吉だ」、そう思った。燕が幸福の象徴とされているという話もある。初夏の気配が漂う爽やかな気候の日に、さっと重苦しい気持ちが垂れ込めてきた。
 それにあの死体は何かおかしかった。鳥の死体を見るのはこれが初めてではない。しかし、ここまで綺麗に骨と羽根だけが残ったものは見たことがない。まだうまく飛べないうちに他の動物に襲われたのか、もうすでに蟻などの虫たちが食事をし終えた後なのか……それにしても蝿の一匹もたかっていないし、綺麗すぎるのではないか……酸素と混ざり合い黒く変色し始めていた血の中に、真っ白な骨が埋もれているその様子は、何か猛烈に私の気を引いたのだった。
 とはいえ、私自身がその死体を埋葬するなり、何か他のきちんとした手段で燕を供養することはできなかった。興味を持ってじっと見れば見るほど、その死体は得体の知れない不気味さを感じさせた。気まずさと畏れにも似た感情を抱きつつ、せめての供養として、手を合わせて祈り、足早にその場から立ち去った。
 
 

 ***



 その翌日、うっすらと空が明るくなってくる頃のことだ。
 普段から寝付きが悪いわけでもなく、早くに目が覚めてしまうことも寝過ぎてしまうこともほとんどない私だが、その日はまだ夜が明けきらないうちに目が覚め、気がついた。
 燕が一羽、枕元にいた。
 こんな置物など買っただろうか。そうやって寝ぼけた頭でぼんやりと見つめていると、燕は立派な燕尾をちょこちょこと上下に揺らし、胸元の赤色を私に見せつけるようにして私に話しかけてきた。
「おお、起きたのか」
 驚いた私が布団から飛び跳ねるようにして起きると、燕は舞い上がった布団を避けるようにしてさっと飛び、部屋の天井近くをぐるぐると旋回した。しばらく天井近くを飛び回っていた燕は蛍光灯の傘に留まり、大人しくなった。
「何をする。危ないじゃあないか。ここは薄暗くて目もよく利かないんだぞ」
 燕は憤ったように抗議の声をあげた。
 私は何が起きたのかを整理するのに手一杯だったが、燕が静かになるとそっと蛍光灯の紐を引っ張り、明かりをつけた。明け方の青く弱い光が満ちた部屋が、ぱっと明るくなる。
 部屋が明るくなってきちんと見えるようになったからか、燕は傘から降り、私の足元まで近づいてきた。
「全く。それが客をもてなす態度かね君」
「客って……」
「君が私を呼んだんじゃないか」
 呼んだ覚えはないのだが。そう言いかけて、昼間燕の死体から離れる前に手を合わせたことを思い出した。
 あの行為がこの燕を招いたということなのだろうか。そんな話は聞いたことがなかったが、実際にそうした手順を踏んで、燕は我が家にやってきたのだった。

「粗茶……じゃないな。粗末なものですが……」
 醤油皿に水を入れたものを、私が用意した四つ折りにしたハンカチの上に鎮座した燕に差し出した。客として燕をもてなそうにも、うちには燕が食べるような虫はいない、はずだ。出せるものといえば水くらいしかなかった。
「いや、かまわんよ。人間は我々と食性が違うのだからね」
 燕は耳慣れぬ青年のような声をしていたが、燕が話すところをじっと見ていても、どうやって声を出しているのかわからない。見た目は普通の燕で、ちょこまかと首を動かしたり、瞬きをしたり、突然羽繕いをし始めたりするものの、どう見ても、この燕が人間の言葉を流暢に話しているのはおかしく思われるのだった。
 おかしいといえばこの燕、どうも口調が紳士ぶった、知的な感じを醸し出そうとしている感じがして、そこも非常に……見た目との差も相まって……非常に異質な感じがするのだった。
 言葉を話す燕が普通で他と同質的であるわけがないのだが。
「それで、君はやっぱりあの時に死んでいた燕なのか」
「いかにも。きれいさっぱりしゃぶられていただろう。さぞ美味かったのだろうな。もっとも、食べられている最中からの記憶はないのだが」
「記憶がないなら、どうして自分のことがわかった。自分が君に手を合わせたのは、君が死んだ後だろう」
「理屈はわからないが、私は死んだ後もあの場所に留まり続けていたのだよ。そうしたら君が私のほうをじっと見て、思い詰めた顔をして手を合わせるものだから。何か話したいことがあるのかと思ってついてきたというわけだ」
「どうしてこんな明け方に」
「おっと、誤解してもらっては困る。私は君が朝起きるまで待つつもりだったのだ。それが君が目を覚まして、勝手に飛び起きたんじゃあないか」
 目を覚まして目の前に燕がいたら大抵の人は驚くだろうにと、思ったが口にはしなかった。ただでさえ燕が家の中に入ってきたら驚くというのに、それが言葉を話し、しかも死後ともなれば……
 私が手を合わせて招いたらしい燕は、私と話をしにきたという。
 なんて縁起の悪い。そして目の前にいる尋常ならざる鳥は、妖怪やモノノケの類かもしれないと思うと余計気が気でなかった。きちんと供養せず、見て見ぬ振りをしたのが悪かったのだろうか。話をしに来たと言うが、それは私を地獄に連れて行く算段をつけにきたという意味ではないか。
 燕は私の気も知らず、呑気な様子で、
「何をそんなに気落ちしているのかね。腹でも減ったのか?」
「落ち込みもする。幸福の象徴が死んでいるのを見て、挙句家にやってくるなんて。何かの凶兆だろうか」
 思わずため息が溢れた。私の様子を見ていた燕は心底疑問といった感じで、
「幸福の象徴? どういうことだ。私が食われたことと君の幸福に何か関係があるのかね」
「気持ちの問題なんだ。君たち燕は、我々人間にとって縁起のいい生き物として考えられているんだ。春になると遠くの国から飛んできて、ひらひら空を舞って、巣を作るだろう。家庭円満の象徴でもあるとか」
「空を飛ぶものも海を越えるものも、他にもいるだろう。それに、聞いたところによると人間も空を飛ぶらしいじゃないか」
 ここで言う「空を飛ぶ人間」というのは、飛行機などの技術のことらしかった。燕は他の鳥たちが話しているのを聞いたと言う。
 ともかく燕は人間の多くにとって幸福の象徴であり、それがあんな所でポツンと死なれてはなんだか縁起が悪いじゃないか。そんなふうに私が抗議すると、燕は頭を振って、
「それは君たち人間が、勝手に象徴にしているだけじゃあないか。勝手に役を押し付けて、勝手に落ち込まれても、こっちは知ったこっちゃないさ。それに私は確かに食われて死んだが、死ぬ前に他者の腹をふくらませてやれたのだ。それを幸福と言わずになんという」
 私が少なからず衝撃を受けたのが、この燕が他の動物に喰われて死んだことを

と呼んだことだった。
 燕と人間、種族が違えば文化(と呼んでいいのだろうか)の違いもあろう。しかし、生命が終わること、死ぬこと、それが他の存在によってもたらされることは不幸で、悲惨なことで、決して喜ばしいことではないというのが生き物としての大前提としてあるのだと、どこかで思い込んでいたらしい。それが人間特有の思考かも知れないなどということには、四半世紀以上を生きてきて一度も思い至らなかったのである。
 燕は続ける。
「私の一生はあそこで終わった。だが、私の血肉は猫共か、虫たちの腹を膨らませ、彼の血肉になる。それでいい。私も父と母とが取ってきた虫たちを食べて大人になったのだ。私が食べられるのは当然のことだ。それに、どことも知れぬ場所でひとり死んで、そのまま腐るよりうんと幸福だった。まあ、つがいを見つけて子を残せなかったことは残念だが……それについては私の兄弟や一族の皆が叶えてくれるだろう」
「そういう、ものなのだろうか」
「そうだとも。他者の命によって生きてきたのだ。他者にこの命を与えるのもまた当然だろう。全くひとりで生きてきたわけでもないのに、なぜ自分だけはその輪から外れていると考えるのだ。傲慢ではないかね」
 傲慢だ、と燕は言うが、もちろん私だって勝手に大きくなってきたつもりは毛頭ない。両親がいて、他の人たちと関わってきた。それに、他の生き物の命を食べてきた。食物としてだけではなく、はっきりと目に見えない形で多くの生き物の命を踏みにじって生きてきたのだろう。人間が街を作る前、そこに何があったかを考えればそれで事足りる。
 人間が食物連鎖の頂点……というよりは、食物連鎖の輪から外れていることは、授業で習って知っているし実感もある。少なくとも私が出会ったことのある人間は全て……そしてこれから出会うであろう人間も同様に……自分が不慮の事故以外で他の動物に食べられて当然の存在である、とは、考えていないだろう。これこそが人間の傲慢なのだと言われればそれまでである。こういうふうになったのはあまりに昔の出来事で、誰もその時のことなど覚えていない。
「君だって、誰かに生かされてきたのだろう?」
 燕は軽快に羽繕いをしながら私に問うた。私はうまく答えられなかった。
 実際どうかといえば、食物連鎖を外れ、それどころか人間同士の輪の中からも外れるような生き方をしてきたように思う。

 幼い頃から中途半端に神経過敏で、人の表情ばかり見て育ってきた。少しの表情の変化や、仕草で相手の気持ちが何となく分かってしまう。もちろん、それが本当に当たっているのかはわからない。それでも相手の機嫌を損ねるような言動をとってしまうことに対して少なからず罪悪感と苦痛とがあった。だからこそなるべく和を乱さないように、静かに、ただそこにいるだけ、のようにして生きてきた。従順さは社会の中では有用だった。
 だが、身を守るための従順さが必ずしも心身を健やかに保つのに有用だったかというと、そんなことはない。矛盾しているようだが、結果はそうだった。 
 食物連鎖だけではない、他のあらゆる規則や道徳、基準もそうだ。もちろん、従ったほうがいいと思う規則も、守るべきだと思う道徳もある。当然そうでないものもある。
 別に好きでこの仕組みの中に生きているわけではない。生まれた時からここにいて、それを破ることは禁とされ、盲目的な順守を望まれる。個人の所感などおかまいなしだ。そうして従順でいられるなら、それはそれで楽で楽しい人生が送れたのだろう。
 私の場合は、いつの頃からか、猛烈な違和感がずっと張り付いているような感覚が抜けなくなっていた。ただ従順でいても、全体から私個人へと何かしらの見返りや恩恵が受けられたという感覚が薄かった。他者はそうではないらしかった。自分は異質であると感じた。
 それからは、ひとりでいることが多くなった。

 私は燕に訊ねた。
「では、『もっと生きたかった』という、君自身の気持ちはどうだ。君の種としての目的は、君の一族が叶えてくれるかもしれない。でも、君自身は生きられず、夢が叶ったところも見られない。辛くはないのか。恨みはしないのか」
「我々の目的は種の繁栄だ。最終的に燕という種が残ることが何より大切なのだ。そのために他の生物を利用し、子を残し、親は死ぬ。これは我々以外の種も同様だ。採用する方法によっては我々の方針ややり方と衝突し、互いに数を減らすことになるかもしれない。これは避けたいが。ともかく大切なのは全体だ。私個体のそれではない。君たち人間だって、私たちの数が減ったことは分かっても、

死んだかなど気にしないだろう?」
「そうかもしれないが……」
 私はもっと、燕の言葉に対して反駁ができたはずなのに、それをしなかった。正確に言うなら、できなかった。
 頭の中にはいくらか返す言葉が湧いてきては口にしようとするが、その直前になって、言葉はぐっと飲み込まれてしまうのだった。というのも、私が燕に対して浴びせようとした反論は、あくまで私の、あるいは人間の立場から見た時の反論に過ぎないからだった。
 燕は燕として生き、燕としての立場を全うして死んだのだ。己の死に様を知り、それでなお「幸福」と言えるなら、それは本当に燕にとって幸福なのではないか。では、私にとっての幸せとは何だ。私はこのままこうして生きていって死んだ時、果たして幸福と言えるだろうか?
 そもそも私は、「人間としての人間らしい幸福の形」など、知らないではないか。

「悲しくも、寂しくもないさ、だって私には私の理想を叶えてるれる一族がいる。これは絶対だ。他の種も、自らの理想のために私を食った。だから私はそいつのために役に立てた。無駄でも無意味でもないさ」
 私は自らの命に対しても、他者の命に対しても、燕のようには考えられないと思った。私はあまりに孤独で、だからこそ他者に対する寛容も、信用も持てないのかもしれないと思った。
「どうしてそこまで、他者のために生きられるんだ」
 燕はパチパチと瞬きし、私の目をじっと見据えた。
「そうか。君は寂しいのだな。だから私を呼んだのだな」


 君は自分が死んだ後、本当に自分の種が存続し、繁栄したかどうか知る術はないというのに、どうして種の繁栄をしなくてはならないのか。その理由を考えたことはないか。私は燕に多くの質問をした。抽象的な話も、価値観に関する質問もしたが、自分の羽で空を飛ぶのはどんな感じかとか、虫はどんな味がするのかとか、そういった話もした。
 燕は私の質問に答えたが、彼の回答は彼と彼の種の倫理観と常識に拠ったものだった。私には首肯しがたかったが、話を続けるうちに彼はやはり燕で、人間ではないのだから、こちらの常識や価値観が共有されていないのは当然のことであると思うようになった。
 逆に燕も、私に多くの質問をした。何を食べるのか。空にかかっているあの紐の束は何か……これは電柱と送電線のことだった……。人間は何を目的に生きているのか。燕も私の話に了承しかねる場面が多々あったようだが、これも私と同様に、燕と人の価値観の違いによるものなのだと知ったらしい。
 燕は、決して人間の生き方を否定しなかった。
「愉快だな。人間とはそういう生き物か。やたらと力がある割には、個を意識しすぎる。いや、だからこそ人間は力があるのだろうよ。森を切り、水を腐し、硬く冷たい岩の山に変えてしまえるのだろうよ。それにしても、君たち人間のことは、誰が食べてくれるのかね?」
「人間のことは、事故じゃなきゃ誰も食べないよ。強いていうならバクテリアかな」
「ばくてりあ。何かねそれは」
 初めて聞いた言葉に首を傾げる燕の様子が妙におかしくて、私は笑った。燕も一緒になって笑った。私たちは互いが長い時間を共に過ごした相手であるかのように、話し合い、笑い合った。
 人も、燕も、どんなに違っても、最後はみんな一緒くただ。
 


 ***



 夜が明け、東の空はすっかり朝の色に染まっていた。親しい間柄の相手が多くない私にとって、誰かとこんな風に話し合って夜を明かすのはこれが初めてだった。初めての相手が燕とは、誰が予測できようか。
「さて。そろそろ暇乞いをしなくては」
 私には、それが最期の別れなのだと分かった。
「もう行ってしまうのか」
「長居し過ぎたくらいだ」
 私は燕の死体そのものを見た時よりも、ずっと気が重く、暗くなるのを感じた。
 こんなに気の合う相手は初めてだった。全く違う価値観を、互いに自然であると認め合える相手に、今まで出会ったことがなかった。寂しいような気がしたが、ただの寂しさではなかった。親しい友人の死に向き合う時、こんな気持ちになったりするのだろうか。
 私は、燕のことをすっかり友のように感じていたのである。
「私の死んだのを自分に重ねているのかね、君は」
 言われてみればそうかも知れなかった。だがはっきりとそう言い切ることもできなかった。燕の死を通して、私が感じたことといえば悲壮や苦痛ではなく「不幸」だったし、まして自分が死ぬ時のことを想像して恐ろしくなったのでもなかった。
 目の前の命がすでに失われているのが無性に悲しく、虚しいのだった。
「やれ、優しい人間だな」
 燕はハンカチの上から飛び立ち、私の背中の側から回って左肩に留まった。頬に触れそうなほどに近い燕は、ほのかに温かった。
 それは生き物の温かさだった。すでに燕は死んでいるのに。
「友よ、そう嘆くな。命はいずれみな土に帰る。君も私も。それだけのことだ。だから君は君の命を生きるのだ。『ばくてりあ』が君を食べる時がきたら、また話をしよう」
 燕は私の涙を軽く(ついば)んで、さっと朝の空へと飛び立った。

 はっと目を開ける。見慣れた自室の天井。障子戸の外はすっかり明るくなっていて、時計を見ると十一時を回った後だった。
 おかしな夢を見たものだ。燕と話をするなんて。
 布団を畳んで押し入れにしまう時、ひらりと一枚、何か軽いものが落ちた。陽の光に照らされてチラチラと輝く瑠璃色は、燕の羽根だった。
 私は適当な大きさの写真立てを見つけてきて彼の羽を入れ、いつでも目に入るところに飾った。

 燕の死体があったところは、きれいに掃除されていた。血痕の一滴も残っていなかった。家主が片付けたのか、あるいは初めから燕の死体などなかったかのようだった。
 燕がいたところに向かって、私は念入りに手を合わせ祈った。どれくらいそうしていたか分からない。それでも燕が枕元に現れることは、二度となかった。
 私はあの日夢で会った燕と、彼との会話のことを今でも思い出す。毎年春の頃になると、彼の親族たちがこの国に舞い戻り、子を産み育て、そのうち子供は飛び立っていく。そうしてまたどこか遠くの国へと去っていく。あの燕が叶えられなかった願望を、親族たちが着実に叶えてくれる。
 私は私の肉体を食べる存在がいないことに、猛烈な不安を感じた。私が死んだ後、私がやり残したことを確かに受け継いでくれるものがいないことに、目眩を感じた。どんなに違っていても、朝が来るまで笑いながら語らうことができる相手がいないことに、痛切なやるせなさと恐ろしさを感じた。
 すると一羽の燕が私の肩にとまった。いつか夢で見た燕とは別の一羽だったが、こいつはあの燕の兄弟か、親戚か、一族のだれかの子供なのだろう。ちちち、と短く鳴いて、燕尾を翻しながら燕は飛び立った。

  
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