第1話

文字数 1,983文字

 何も無い無垢で無機質な病室にて、先輩の好きだった小説を声に出して読みながら、僕は"先輩"に見つけてもらうのを待っている。

 先輩との出会いは十年前。入社して最初の指導役が先輩こと伊東小百合だった。先輩は僕の五歳上で、肩までの綺麗な茶色のストレートヘアーにパンツルックで、明るい性格からいつも賑やかさの真ん中に居た。僕はあまり人付き合いが得意ではなくて、先輩とは対岸にいるように思えたけれど、それでも気兼ねなく話してくれたし、新卒でポンコツな僕に社会人のイロハを教えてくれ、研修期間を終えるまでの間、ずっと二人で過ごした。自然、僕は先輩に恋をした。だけれど、先輩には年上の旦那さんが居て、僕はその恋が実らぬ事を知っていた。だからこそ僕もその気持ちを抱え苦しむだけで、何もアプローチはしなかった。聡い彼女は僕の気持ちに気付いていたのかもしれないけれど、何も気づかぬ様にいつも小説を小脇に挟んで昼飯に誘ってくれた。大体カフェに行って、ご飯食べて、本を読みながら雑談して、コーヒーを飲んで帰社する。それは研修期間を終えてからもそうで、僕にとっては先輩と話せる貴重な時間だった。

「本、好きなんですか?」
「ああ、うん。沢山読むわけじゃないけれど。これは私の好きな作家の新作」
「意外ですね。」
「あはは。私って、田中君にはどう見えるているのかな?私こう見えて大学美術専攻なんだ。才能なかったけど、油絵。だから、人の作るものが好き。それに旦那も劇作家だから、物語的なも…」

 僕の胸にチクリと痛みが走る。いくら楽しく二人だけの時間を楽しもうと、旦那という言葉で急に現実に引き戻されて、僕の胸を重くする。そういうことが何度も何度もあって、なんとか諦めようとしてみたけれど、いつも先輩を目で追って、いつも先輩が話しかけてくれるのを待っていた。そんな日々が三年続いた。

 ある日、先輩から笑顔が消えた。事の発端は彼女が趣味で描いていたイラストがSNSでバズったことにあった。彼女は有名となり、仕事も舞い込むようになった。先輩はそれを嬉しそうに、二人だけの秘密として教えてくれたけれど、売れない劇作家の旦那さんにとっては嬉しい事ではなかった。旦那さんは当時仕事もなく、荒れていたという。そして、彼は自ら命を絶った。嫉妬と絶望からだろう。先輩はそれから塞ぎ込み、昼飯にも誘ってくれなくなった。何度か勇気を出して昼飯に誘ってみたりしたけれど、断られた。
 そして、先輩は"先輩"ではなくなった。僕には何も告げずに仕事を辞めた。昔は人気者で、最近は心配の的になっていた先輩が辞表を出したことは、公然の秘密のように部内を駆け巡り、僕の元にもその情報が届いた。僕は居ても立っても居られなくなり、先輩に電話しようとした。でも、先輩の連絡先は知らなくて、それでもやっぱり彼女と話したくて、話の中で聞いていた彼女の居所があろうと思われる町に行って、僕は彼女を求めて町中を走り回った。

「田中君…」

 息を切らして走る僕に、後ろから今にも枯れてしまいそうな声が投げかけられた。後ろを振り返ると、先輩が居た。寝巻きのような格好の彼女を、僕は駆け寄り抱き締めた。

「奇遇だね」
「奇遇じゃないです。会いにきたんです。どうして辞めちゃうんですか。なんで言ってくれないんですか」
「大丈夫。大丈夫だよ」

 まるで着ぐるみなんじゃないかと思えるほど意思も力も無いただ柔らかな体。そこから絞り出される声が体を震わせて、僕に伝播する。僕は腕の力を少し抜き、胸に埋まる先輩の顔を覗き見る。こちらを見ていない朧な黒目に、泣き濡らして赤く腫れたまぶた。ただ人から内心を隠す為に塗り固められた薄ら笑顔。痛々しい。

「うちに居るとね、思い出しちゃって」

 彼女の頬を涙が伝う。僕は彼女をもう一度だけ強く抱き締めて、僕のアパートに連れ帰った。

 それからしばらく先輩には僕の家にいるように言った。彼女は何もせず、何もできずに日々を過ごした。性的な関係はもたなかった。欲情しなかったというと嘘だけれど、なんとなくそれはダメな気がした。それに、徐々に彼女は損なわれていっていた。コミュニケーションが難しいと感じる日が増えた。そして、遂に彼女の父親と連絡を取り、精神科病棟に入院させることになった。
 その頃にはもう、先輩はこの世界から失われていた。

 鉄格子越しの夕日が落ちて、病室が暗くなる。僕は昼どきに先輩の横に置いておいた冷めたコーヒーを飲み干して、先輩に「また来週になったら来ます」と告げる。返答がないことは知っているけれど、先輩の(うつわ)が、ここではない世界に行った彼女の魂との唯一の通信手段と信じて、宇宙人との通信を願って無線に喋りかける少年の様に、僕は先輩にメッセージを送り続ける。先輩がこの世界に戻ってきて、また「田中君」と僕を見つけ語りかけてくれるように。
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