第1話
文字数 1,832文字
鏡台の前にちょこんと行儀よく座った姿はさながら仔猫だ。後ろに回って小さな頭越しに鏡を覗き込むと、まばたきを繰り返すくりくりとした蒼い瞳と目が合った。その奥に見え隠れするいとけない好奇心と期待。サーフィニウスは思わずくすりと笑みを零す。
「ごめんね。お姫様をお待たせしてはいけないね」
ゆるく波打つ撫子色の髪をすくい取り、手にした白木の櫛でひと房ひと房丁寧に梳く。ほのかに浮かび上がる陽だまりの匂い。春の匂い。自分のそれとは少し質の異なる少女の髪は子供らしく細やかで、綿毛のようにふわふわと絡む感触が指先に心地好い。
こちらの手の動きに合わせて、ミューの頭も時折ひょこっと楽しげに揺れる。
「痛くないかい?」
ん、とまだぎこちなさを残す淡い表情で頷き、ミューは先をせがむようにサーフィニウスの胸元に頭をもたせかけてくる。無防備な仕草には微笑ましさを越えていっそ危なっかしさすら覚えるけれど、かえって愛らしくもあるのだと気付いたのは、この子と暮らし始めてからのことだ。
──誰かの髪を整えてあげるなんて、いつ以来だろうか。
過去も身寄りも、記憶の一片さえも持たなかったまっさらな『モノ』。引き取った当初こそ右も左も判然としない人形同然だった少女は、養い子として自分の手元で共に過ごすうちに少しずつ自我の萌芽を露にするようになった。自らの意思で考え、求め、行動する、器ではない生身のヒト。
だからサーフィニウスは、一歩一歩日増しに感情豊かになりつつある少女に、何か欲しいものはある?と訊いてみたのだ。
「君が望むなら、もっと別のものでも用意してあげられるのだけれど……」
リボン、がいい。サフィに、むすんでほしい。ミューが乞うたのはそれだけだ。何かを望む自由すら手探りで持て余している幼子の、ささやかな我儘。不確かな道筋を手繰るように、胸中を確かめるように、蒼い瞳はじっとこちらを見上げていた。その眼差しに打たれて、ああ、私はこの子の、この目に弱いのだと思い知ったときのどこか面映ゆい感情を、今も鮮明に思い出すことができる。
絆されてしまっている自覚は、多分に、ある。
「ううん。いいの。わたし、これがいい」
「そうだね。──さあ、できたよ」
満遍なく櫛を通し、仕上げに手櫛で軽く髪を撫でつけてからミューの両肩に手を置き、鏡越しにあらましのほどを眺める。ミューの目がぱちりと大きくひとつ瞬き、髪を彩るそれを見とめて輝いた。
「……わぁ……!」
肩口に届くふわふわの蓬髪、その左側方からより分けて編み込みを加えたひと房を、控えめに結われたリボンが飾っている。先端に白のラインをあしらった布地は、ドレスの色に合わせた深い臙脂だ。
「私の手作りだよ。簡易式だけれど、君の魔力の波長に合わせて守護の術式を組み込んであるから、お守りにもなる」
よほど感じ入ったのか、少女の手が何度もリボンの結び目に触れてはその輪郭をたどる。サーフィニウスは冗談めかして笑いかける。
「気に入ってもらえたかな?」
「……サフィ、」
一瞬の間を置いて体ごと少女がこちらに向き直る。眩しげに注がれる無垢そのものの眼差しを受けとめることにはとうに慣れたはずなのに。
今はなぜか自分の方が吸い込まれてしまいそうなほど、空と海の境界に滲む澄んだ蒼に、目を奪われる。
「あり、がと。だいじに、する、ね」
サフィがくれた、わたしのたからもの。
リボンを大切そうに撫でる手つきをそのままに、ミューがふわっとはにかむ。どういたしましてと穏やかに返した自分は、上手く微笑めていただろうか。そっと手を伸ばす。いつものように頭を撫でるでもなく、自然と小さな背に腕を回して抱きしめていた。
「サフィ?」
「ああ──大丈夫。なんでもないよ、……ミュー」
陽だまりの匂い。春の匂い。どこまでも穢れない透き通ったぬくもりに、はらはらと心がほどけてゆく。この子を見出し手元で育てると決めたときから、心の奥底で本当は知っていた。優しい日々に、屈託なく向けられる親愛の情に焦がれていたのは、果たしてどちらか。
ミューはきっと気付きはしないだろう。自らの運命を厭う賢しく臆病な『魔女』が、どれだけ己の存在に救われているかなど。ただ一緒に笑い合っていられる、その事実さえあればそれだけでよかった。
──私の宝物。大切な愛しい娘。いずれ来るその『時』に引き裂かれるとしても、今だけは……。
やわらかな撫子色の髪に頬をすり寄せ、サーフィニウスは祈るように睫を伏せた。
「ごめんね。お姫様をお待たせしてはいけないね」
ゆるく波打つ撫子色の髪をすくい取り、手にした白木の櫛でひと房ひと房丁寧に梳く。ほのかに浮かび上がる陽だまりの匂い。春の匂い。自分のそれとは少し質の異なる少女の髪は子供らしく細やかで、綿毛のようにふわふわと絡む感触が指先に心地好い。
こちらの手の動きに合わせて、ミューの頭も時折ひょこっと楽しげに揺れる。
「痛くないかい?」
ん、とまだぎこちなさを残す淡い表情で頷き、ミューは先をせがむようにサーフィニウスの胸元に頭をもたせかけてくる。無防備な仕草には微笑ましさを越えていっそ危なっかしさすら覚えるけれど、かえって愛らしくもあるのだと気付いたのは、この子と暮らし始めてからのことだ。
──誰かの髪を整えてあげるなんて、いつ以来だろうか。
過去も身寄りも、記憶の一片さえも持たなかったまっさらな『モノ』。引き取った当初こそ右も左も判然としない人形同然だった少女は、養い子として自分の手元で共に過ごすうちに少しずつ自我の萌芽を露にするようになった。自らの意思で考え、求め、行動する、器ではない生身のヒト。
だからサーフィニウスは、一歩一歩日増しに感情豊かになりつつある少女に、何か欲しいものはある?と訊いてみたのだ。
「君が望むなら、もっと別のものでも用意してあげられるのだけれど……」
リボン、がいい。サフィに、むすんでほしい。ミューが乞うたのはそれだけだ。何かを望む自由すら手探りで持て余している幼子の、ささやかな我儘。不確かな道筋を手繰るように、胸中を確かめるように、蒼い瞳はじっとこちらを見上げていた。その眼差しに打たれて、ああ、私はこの子の、この目に弱いのだと思い知ったときのどこか面映ゆい感情を、今も鮮明に思い出すことができる。
絆されてしまっている自覚は、多分に、ある。
「ううん。いいの。わたし、これがいい」
「そうだね。──さあ、できたよ」
満遍なく櫛を通し、仕上げに手櫛で軽く髪を撫でつけてからミューの両肩に手を置き、鏡越しにあらましのほどを眺める。ミューの目がぱちりと大きくひとつ瞬き、髪を彩るそれを見とめて輝いた。
「……わぁ……!」
肩口に届くふわふわの蓬髪、その左側方からより分けて編み込みを加えたひと房を、控えめに結われたリボンが飾っている。先端に白のラインをあしらった布地は、ドレスの色に合わせた深い臙脂だ。
「私の手作りだよ。簡易式だけれど、君の魔力の波長に合わせて守護の術式を組み込んであるから、お守りにもなる」
よほど感じ入ったのか、少女の手が何度もリボンの結び目に触れてはその輪郭をたどる。サーフィニウスは冗談めかして笑いかける。
「気に入ってもらえたかな?」
「……サフィ、」
一瞬の間を置いて体ごと少女がこちらに向き直る。眩しげに注がれる無垢そのものの眼差しを受けとめることにはとうに慣れたはずなのに。
今はなぜか自分の方が吸い込まれてしまいそうなほど、空と海の境界に滲む澄んだ蒼に、目を奪われる。
「あり、がと。だいじに、する、ね」
サフィがくれた、わたしのたからもの。
リボンを大切そうに撫でる手つきをそのままに、ミューがふわっとはにかむ。どういたしましてと穏やかに返した自分は、上手く微笑めていただろうか。そっと手を伸ばす。いつものように頭を撫でるでもなく、自然と小さな背に腕を回して抱きしめていた。
「サフィ?」
「ああ──大丈夫。なんでもないよ、……ミュー」
陽だまりの匂い。春の匂い。どこまでも穢れない透き通ったぬくもりに、はらはらと心がほどけてゆく。この子を見出し手元で育てると決めたときから、心の奥底で本当は知っていた。優しい日々に、屈託なく向けられる親愛の情に焦がれていたのは、果たしてどちらか。
ミューはきっと気付きはしないだろう。自らの運命を厭う賢しく臆病な『魔女』が、どれだけ己の存在に救われているかなど。ただ一緒に笑い合っていられる、その事実さえあればそれだけでよかった。
──私の宝物。大切な愛しい娘。いずれ来るその『時』に引き裂かれるとしても、今だけは……。
やわらかな撫子色の髪に頬をすり寄せ、サーフィニウスは祈るように睫を伏せた。