第一幕 翼の乙女

文字数 4,132文字

 四角く切り取られた、暁の空。
 風が、カーテンを揺らしている。

「からたちの花が咲いたよ――」

 伸びきった髪を枕に散らし、空を見上げる少女の口から歌がこぼれていた。
 細い喉が奏でる高く澄んだ調べが、朝焼けの町に静かに響く。

「――白い白い花が咲いたよ」

 不意に、空気のざわめく音が混じる。
 影が落ちて、何かがドシン、とぶつかる大きな音がした。
 窓の外の木が、みしみしと軋む。

 鳥? いいや、もっと大きい。

「良い風ね、お嬢さん」

 少女が気付くと、いつからそこにいたのか、窓枠に誰かが腰かけていた。

「そして、すてきな歌。名前は?」

「……波那(はな)天音(あまね)波那(はな)

 問われるままに答えて、少女は、窓枠に腰かけた誰かをまじまじと見た。
 自分と同い年か、少し年上に見える女の子。
 長くてきれいな銀髪を、風になびかせている。
 いたずらっぽそうにきらきら輝く瑠璃色の瞳が、少女を見下ろしていた。

(ほたる)よ」

 そう名乗った。
 蛍。
 少女は、不思議に思った。
 自分が今寝ている部屋は建物の3階なのに、この子はどうやって窓まで上がってきたんだろう?
 そのとき少女は見た。
 蛍の背中に、小さいけれど、確かに黒い翼があるのを。

「あなたは……」

 階段を上がってくる足音、荒々しくドアを開ける音が、少女の問いかけを途中で遮った。

「蛍! ……はあ、またやってくれたな」

 白衣に眼鏡をかけた中年の男が現れると、窓枠の蛍を見てため息まじりに非難する。
 彼は(たばね)。この建物の主だ。

「背中に凧を背負ったお前が横風に流されていると、見張りの人間から知らせがあったんだ。ここに落ちてくるとは思わなかったが」

 束の非難に、蛍は心外そうな顔をした。

「流されてるだの、落ちてきただの、人聞きの悪いことを言わないで欲しいわ。わたしはただ、ちょっと翼を休めに寄っただけよ」
「ほう、じゃあ玄関の外に散らばってる凧の残骸は、どう言い訳するつもりだ?」

 窓の外を指さして束が意地悪く追及し、蛍はそっぽを向く。

「……邪魔したわね。あなたの歌、また聴きに来ても良い?」

 窓枠に手をかけながらかけた言葉は、おいてきぼりになっていた少女に向けて。
 ベッドの上の少女は、しばし躊躇ってから、先ほどできなかった問いかけを口にした。

「あなたは、天使なの?」

 蛍の瑠璃色の瞳が、驚いたように丸くなる。
 それからすぐに笑ったように目を細めると、蛍は翼の生えた肩をすくめた。

「またね、波那」

 肯定も否定もせず、蛍の姿は現れたときと同じように唐突に、窓から消えた。

「天使さん……」

 残された少女のつぶやきは、風に乗って消えていく。




「見かけない患者ね。わたしの翼を見て驚いてたし。よその町から来た子?」

 城垣(しろがき)医院という、古めかしい漢字の表札がかかった建物の玄関の外。
 外の木をつたって下りてきた蛍は、散らばった凧の骨組みを拾い集めながら束に訊ねた。
 こちらは階段を歩いてきた束は、地味な黒縁眼鏡の奥の目を天音波那という少女がいた部屋の窓に向けて、小さくため息をついた。

「あの子は、かわいそうな子だ。北の工房都市でひどい爆発事故があったのは知っているだろう? 彼女は、その生き残りだ。父親は爆発に巻き込まれ、一緒に逃げ延びた母親も、爆発の灰を浴びて数日で、見えない死神にとり憑かれて死んでしまった。そしてあの子も、灰を吸い込んだせいだろうな、胸を侵されて日に日に弱っていく。俺も医者の端くれだ、何とか治してやりたいが」

「そうだったの……そういえば、まだ寒いのに窓を開けっ放しにしていたけど」

「ああ。あの子の住んでいた町の風習でな。窓を開けていると、臨終のときに天使が迎えに来てくれるんだそうだ。お前の背中に翼があるのを見て、勘違いしたのも無理はない」

「それはまた、悪いことをしたわね」

 うっすら微笑むと、蛍は壊れた凧をかついでその場を立ち去ろうとする。
 その背中に、束は鋭く告げた。

「アルコロジー参事会を代表して言わせてもらう。空を飛ぼうなんて子どもじみた夢を追いかけるのは止めて、塔を守る巫女としての自覚をもってくれ。若い者はまだしも、年寄り連中はお前が『翼の乙女』の生まれ変わりだと信じているんだぞ。聖なる言い伝えを、自ら貶めるつもりか」

「束、それだとまるで、あなたはもう言い伝えを信じてないような口ぶりね」

「お互いもう子どもじゃないんだ、蛍。乳糖祭りも近い。これは政治の問題だ」

 髪の毛に白いものが混じった束が、蛍を睨む。
 蛍の黒い翼が、どこか寂しげに揺れた。




 アルコロジーは、建物も道も全て石で造られた、この地方を古くから治める堅固な要塞都市だ。
 言い伝えでは遠い昔、人が空の星まで飛ぶ力を持っていた旧時代の遺跡の上に築かれたとされる由緒ある町だが、今となっては、真偽のほどはわからない。
 現在、この世界で覇権を握りつつあるのは教会という超国家的宗教組織だ。その権勢は、南の皇帝といえども教会に逆らって破門されればその座から引きずり降ろされるほどのものだが、辺境に位置するこの町はまだ教会の締め付けが緩いようで、こうした古くからの伝承が存在を許されている。
 『翼の乙女』の信仰も、そうしたものの一つだった。

「おお、蛍様ではありませんか!ありがたい、ありがたい」

 買い物袋をさげて町の坂道を上る蛍に、商店や民家の軒先から老人達が出てきては呼びとめる。

「蛍様、今度わしの孫が生まれるのですが、どうか名付け親になって下さいませんか」
「蛍様、家内の病気が治らなくて……今度、ご祈祷をお願いできませんか」
「蛍様、うちで漬けた梅干しです。良かったら是非」
「蛍様」
「蛍様」

 その一人一人に、蛍は丁寧に頭を下げ、手を握り、微笑んで温かい言葉を返す。

 そういうわけで、蛍が、丘の上に象牙のように屹立する白い塔までたどり着いたのは、だいぶ日が陰ってからだった。
 町を見下ろす塔は、遠い言い伝えの時代から残るとされる、神聖な場所だ。
 代々塔を守る使命を負った巫女の一族である蛍を除いては、町の自治を司る参事会の一部のメンバーしか立ち入りを許されない。
 その塔の横に建てられた質素な丸太小屋が、蛍の住まいだった。
 小屋の前で蛍は、袋の中から調達してきた材料を取り出す。
 丸めた和紙と糊。
 そして小屋の前には、木材や竹が積み重ねてあった。

「次こそは、ちゃんと飛んでみせるんだから」

 蛍はそう自分に言い聞かせて、地面に胡坐をかくと、腰にさしたナイフを抜いてさっそく竹を削る作業を始める。
 丘を吹き抜ける風が心地良い。
 蛍は、いつも風を感じられるこの場所が好きだった。
 ふと、背中に人の気配を感じて、蛍は手を止める。

「だあれ? 今日は礼拝はお休みよ」

「何を作っているの、天使さん」

 その声に蛍はまた驚いて、振り返って苦笑を浮かべた。

「駄目でしょう。病人がこんな遠くまで来たら」

「ここに来れば、あなたに会えるって束さんから聞いて」

 そう言って、天音波那が近付いてきて蛍の横に腰を下ろす。寝間着姿に、薄いカーディガンをひっかけたままだ。

「へえ、あの束がよく許したわね」

「それで、天使さんは何を作っているの?」

 波那の質問に答える代りに、蛍は丘の上に建つ塔の壁面を指さした。

「ふふっ……わたしはあなたの故郷の言い伝えの『天使』じゃないわ。この町の人は、わたしのことを翼人と呼ぶ。あそこに描かれた『翼の乙女』の生まれ変わりだってね」

 塔の壁面には、この町で今も人々から信仰される、凛々しい乙女の姿が描かれていた。

「『輝く白十字を縫い込んだ高貴な黒衣を身に纏い、眼光は鋭く、その翼は鷹のように風を切り、稲妻のように天空を駆ける』……小さい頃は本当に憧れたわ。遠い昔にこの町を救った神の御使い、その奇跡を授かった一族の末裔が、わたしってわけ。わたしも、わたしのお母さんも、そのまたお母さんも、翼を授かって、神話の時代から受け継がれたこの塔を守ってきた。でも、神様の力は代を重ねるごとに弱まるみたいで、とうとうわたしは、羽ばたいても一センチも浮き上がれない、こんなニワトリの羽根みたいなのがくっついてるだけ」

 自嘲気味に笑って、蛍は背中の小さな黒い翼をぱたぱたと動かしてみせる。

「そんな……それじゃあ、飛べないの?」

 波那が、悲しそうな顔になる。

「ふふ、諦めたらそこで試合終了よ。だからこれを作っているの」

 蛍は手にした作りかけの凧を持ち上げた。

「竹の骨組みに和紙を糊づけした補助翼。町の図書館に残る古い文献を漁ってね、どうしたらより効率的に風を受けられるか研究したわ。これの力を借りて滑空して、上昇気流に乗ってみせる。『翼の乙女』みたいに格好良くはいかないけれど、飛ぶ空に貴賎は無い。わたしが授かったこの翼に意味があるって、証明したいから」

 そういってウインクすると、蛍は再び作業に戻った。
 ナイフで竹を削る音と、風が大地を吹き抜ける音だけが響く。
 しばらくして、波那は微笑んだ。

「やっぱり、あなたはわたしの天使さん」

「? ……まあ、どうしても呼びたいなら、それで良いわよ」

 それから二人は、丘の上に座ったまま沢山の話をした。
 
 蛍は、翼の話。
 少しでも遠くまで飛ぼうと、色々な方法を試してきたこと。
 身体を軽くしようと、甘い物ダイエットをしたけれど挫折したこと。
 町に落ちるたびに、束にこっぴどく怒られること。
 
 波那は、空の話。
 病室の窓から見える空の雲が、色んな動物の形に見えること。
 木に咲いた白い花の蜜を吸いに来る小鳥のこと。
 世話をしてくれる束のこと。
 すっかり日が暮れるまで話して、笑い合った。十年来の友達のように。


 そして、季節は巡る。
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