帰り道

文字数 2,204文字

 選挙が近くなると駅前が賑やかになる。初の女性市長誕生なるかと話題の候補が「最後の挨拶に参りました」と絶叫している。
 梅雨入りが発表されたものの一向に雨は降らずに、湿気を含む風だけが吹き、体に張りつく。仕事帰りのサラリーマンが汗まみれになって演説している候補者の姿を一瞥し、住宅街へ消えていく。
 引っ越してきた当時はもう少し静かだったような気がする。駅前のコンビニで窯出しプリンを二つ買い、家まで歩く。かつて学習塾だった面影を外観に残したままのラーメン屋の角を曲がる。
 車が一台しか通れなさそうな道幅の細い路地に入ると、サラリーマンや学生たちが皆同じ方向に歩いていて虚しさがある。ドーナツ化現象で住民が増え、住み始めたときよりもマンションが建ち並ぶようになり、この道で風を浴びることも少なくなった。
 かかとを引きずって歩く音と、カップルか若い夫婦の話し声が空中で静かに混じる。その音が尚一層、住宅街と化しつつあるこの道を演出する。
 歩いて10分ほどで自宅のアパートに着き、外から部屋を確認すると明かりが点いている。階段を上がり、205号室の前に立つと換気扇が動いていて、夕飯どきにしか感じられないあの食欲をそそるような匂いが外に漏れだしている。
 鍵をあけ、扉を開けると葉月がこちらを向いて「あっ」と小さな声を出す。
「おかえり」
「ただいま」
葉月の柔らかい声が脳に直接届く感じがし、一瞬で緊張が解ける。
「これ、葉月の好きなプリン。ご飯のあと一緒に食べよう」
「やったー!ありがと」
 葉月は俺からプリンを受け取り、冷蔵庫に入れる。
 もう既にメイクを落として、部屋着になっていた。
「何時ごろ、着いたの?」
「うーん。大体、2時間くらい前かな」
「そっか。改めて、おかえり」
「うん。ただいま」
 会話しながら俺も部屋着に着替える。葉月は既に夕飯を作ってくれていて、キッチンで椅子に座りながら麦茶を飲んでいる。
 葉月の横顔がとても美しく見える。温度がやや高いキッチンで少し汗をかきながら麦茶を飲む姿が愛おしく感じる。化粧をしていない素の葉月を見られるのは世界で俺だけなんだと思うと、幸福感に満たされ抱きしめたくなる。
「なに、そんなにジロジロ見て。…どうしたの?」
視線を感じたらしく、葉月は困ったように俺に笑いかける。
「いや、今日もかわいいなって」
「恥ずかしいよ。やめてよ。でも…ありがと」
伏し目がちで耳を赤くする。

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その日は雨が降っていた。やや肌寒く、半袖のシャツの上にジャケットを一枚羽織りたくなる気温だった。
「あのね。まだ好きなんだけどね。……だけどね」
「……」
葉月が消え入りそうな声で話す。下を向きながら言葉を選んでいるのが分かる。秒針の音がやけに大きく聞こえる。うるさい。
「でもね、ミツ君と別れなくちゃいけなくてね。だから、私とは違う、できれば私の知らない誰かと幸せになってほしい……」
手が震える。
 下を向く葉月から涙が落ち、履いているズボンに濃いシミをつくる。
「なんで、」
思った以上に声が出ず、慌てて咳払いをして言い直す。
「なんで、好きなのに別れるの…?」
「……。そうしないといけないから」
そう言うと、葉月はゆっくり呼吸をして
「あのね、前に実家に帰ったとき、ミツ君について家族に話したら、お父さんとお母さんに色々言われちゃってね…。それでね、私ね、何も言い返せなくて…。そのことがずっと頭にあってミツ君と一緒にいるときも思い出すことがあってね…。もし、ミツ君とこのまま結婚しても、私の親はあまり良い感情を抱かないと思うの……。ミツ君はそれでもいいよって言ってくれるかもしれないけど、私はね、皆と笑顔で生活したいって思っててね……」
葉月の言葉が途切れる。長い沈黙。俺は速くなる鼓動と反比例し、冷静になる。そして、全身が一気に冷えるのを感じた。
 「そういうことだったんだね。葉月ちゃんなりに考えてくれたんだね。苦しい思いに気づいてあげられなくてごめんね。葉月ちゃんの言っていることは分かるし、仮に俺が反論しても、結論は変わらないってことも知ってる」
 葉月は少し落ち着いたのか深呼吸をして、時折頷くように俺の話を聞いている。
「葉月ちゃんがそう言うなら……」
ここまできて、最後の最後で言葉が出ない。別れると言った瞬間に全てが音をたてて崩れる気がした。怖かった。逃げたかった。立ち上がって台所まで行き、包丁でKのように首を切り、非業の死を遂げたかった。でも、葉月が抱えてきた思いに向き合う義務があった。だから、
「もう、バイバイだね…」

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 思えば、葉月と会えなくなり何度この道を通っただろう。湿気を含む風が体に張りつく。
 いつか一緒に行きたいね、と葉月が言っていた小料理屋はまだあって、色々なところに葉月との記憶が埋め込まれている。
 前を歩く手を繋いだ二人に葉月と俺を重ね合わせる。俺はあのときのまま何も成長していない。等間隔に並ぶ街灯が葉月を忘れられない俺をスポットライトのように照らす。いつ戻ってきても大丈夫なように窯出しプリンを二つ買ってアパートに向かう。
 205号室のドアを開けても、誰もおらず今朝消し忘れた換気扇の音だけが鳴っている。部屋は渇いていた。
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