本編

文字数 1,457文字

 男は各地を転々としていた。金が無くなれば近くの街で日銭を稼ぎ、ある程度金が貯まれば次の町へと向かう、さしずめ風来坊と言ったところか。男も決して好きで今のような生活をしている訳ではない。生まれ故郷で少々いざこざが起き、追い出されたため今があるのだ。とは言え今の暮らしに不満がある訳ではない。こんな生活のため決して贅沢はできないが、それでも特に衣食住には困らなかった。だが、それでもやはり安定した暮らしに対する憧れが消えることはなかった。

 そんな折、ある街で男は街一番の富豪が使用人を求めていると言う話を小耳に挟んだ。男が早速富豪のもとを訪れると、意外にもあっさりと採用された。これが運の尽きとはこのときは知るよしもなかった。

 男に与えられた仕事は富豪の身の回りの世話をすることだ。それだけを聞けば案外簡単そうに聞こえるが、これが中々に骨の折れる内容だった。身の回りの世話などと軽々しく言ったが内容は多岐に渡り、富豪の生活のほぼ全てに関わる。ここまで来ると使用人というよりも介護ヘルパーの方が近い。それだけならともかく、富豪はかなりの気分屋で男の奉仕が気に入らなければ減給するなどは日常茶飯事であった。はっきり言って雇い主としては最悪の部類だ。

 男の主な仕事は屋敷の掃除と富豪の食事の管理だ。富豪は料理の味にうるさく、食事内容が気に入らなければそれだけで大幅な減給された。また、富豪は綺麗好きでもあり、屋敷の掃除などを怠れってもちろん減給された。おまけに富豪は身体が丈夫じゃないため度々病気になり、そのたびに男の健康管理が甘いせいだという理由で減給された。なんともまあ難儀なやつだ。減給の詳細についてはこの先省くが、基本的に富豪の機嫌を損ねれば減給されると思っていただいて差し支えない。

 他にも富豪は大の虫嫌いであり、館内に虫が入り込めばただちに追い払わされた。虫だけならともかく野生動物も嫌いであり、敷地の周辺をうろつこうものなら例え猛獣であろうが対峙させられた。一番酷かった仕事内容は富豪の夜伽のために女を館に連れていくというものだ。自分の夜伽のためならともかく、何が悲しくて他人のそれのために女をナンパしなければならないのか。仮にこれら全てを完璧にこなせたとしても、天気や温度などの男だけではどうしようもない理由でさえ機嫌を損ねる。ここまで来ると流石に理不尽だ。

 こんな生活が何年か続いた。富豪にまともに給料をもらえずにジリ貧だったときもあった。激務による疲れからか、はたまた我儘な暴君に対するストレスからか病気で寝込むこともあった。こんな仕事辞めちまえ、などと思われるだろうが、そのころには男にも妻子ができていたため、仕事を辞めることはできなかった。むしろ今まで以上に身を粉にして気難しい主人に尽くした。悲しいかな、男には富豪に仕える他妻子を養う道はなかったのだ。

 それからさらに幾年もの月日が流れた。今では男には多くの子がいる。以前よりもより増えた家族を養うため、男は仕事に精を出した。とは言っても以前に比べれば富豪の機嫌を取るのは容易い。食事、掃除、健康管理などにおいて傲慢な主人を満足させられるほどに腕を磨いた。伊達に暴君に仕えてきた訳ではない。それでも、ふとした瞬間に機嫌を損ねる富豪の感情を完全に制御するには至っていない。

 男は各地を放浪していた頃よりも確実に富を得た。家族もできた。知識や技術も身についた。それでも、かつての自由な己を失い、今もなお傲慢で我儘な主人に仕える哀れな従者には違いない。
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