第1話
文字数 4,532文字
『息子』
ぼろっちい御堂の中は冷たく、音も無ぐ、生命の鼓動ば感じるものは何一つとして無い。
御堂に奉納された沢山の絵馬の中で、十年前に奉納されたばがりの絵馬に写る少年の虚ろな目は、現世 と幽世 ば、彷徨う迷子みだいだ。
おいらは、なして、こごさ、いるんだべ。
御堂の中に差し込む陽の光が長くのびた頃、扉ば開ぐど、一気に生命の息吹がなだれ込んできったけ。
残暑とはいえ、蒸し暑い空気が漂よってで山の緑がよ、眩しいんだ。
蝉の合唱は、おいらの記憶ば消し去って、御堂の中の風景ば想い出す事が出来ねんだは。
山ば下り、里に着く頃には、日が暮れかけったっけ。
カナ、カナ、カナ、カナ、カナ、カナ、カナ、カナ、、、。
ヒグラシの鳴き声が、おいらば遠くの彼方の世界さ連れて行ぐんだ。
街の灯かりが燈り、家々 の夕飯の香りが、路地に流れでよー。
「ただいま」
「おがえり。おそいけんね。何処さ、行ってだっけの」
「別に。おいら、もう、寝るは」
横目に見だ、お母 さま。あだい白髪だっけがな。気付がねうちに歳ばとってした、お母 さま。
時が過ぎ去る事ば知 らねで、いたんだな。
明日も今日が続くと思ってだっけな。
二度と、この瞬間が訪れねえ事ば知るんだ。
おいらが、おぼこの頃、自分が何者なのかは、知ってだっけ。
人生で一番、命の輝いったっけ季節。
そごには家族が居たんだっけ。
ごめんな。
もっと、一緒に居てあげねど。
過ぎてしまった時間は戻って来ねんだは。
ガッチャーン。バタッバタバタ。
「なにしたんだ。大丈夫か」
「、、、」
静まりかえった家 の中。
返事がないんだず。
今迄にない不安がよぎって、音がした方さ駆け寄っど、お母 さまが横たわっていだんだっけ。
「うーん。なにぃ。どうしたっ」
「階段から落ぢだのんねの。覚えていねえの。救急車ば呼ぶが」
「大丈夫だ」
結局、入院する事になった、お母 さま。
脳梗塞だっけんだ。
入院中に、いぎなり、お母 さまの認知症が進行したんだっけ。
「ごめんな。ビックリしたったべずね。あんたが居ない時に、あだし一人で病院に来たらよ、入院させられちゃって。もう、家 に帰っがらって」
「二人で、一緒に病院さ来たんだじぇ。今すこし、ゆっくりしてったら、いいんねが」
日に日に、日常の記憶が、お母 さまから消えていぐ。
んだげっどよ、お母 さまの世界がよ、広がった事に気付いたんだ。
「健一、御飯は喰ったの。足りねごったら後で作っからね」
と、今ではリンゴもむけなくなってるんだは、お母 さまが言う。
一緒に、御飯、食べらんねくて、ごめんな。
退院後、お母 さまの介護はよ、付きっ切りで、おいらが面倒ばみるんだ。
ジリィリ―、ジリィリ―、ジリィリ―、ジリィリ―、、、。
存在感ば否応なく主張する電話機のベルは悲報ば知らせるものだっけのな。
幼馴染の仁志の父親が亡ぐなった。
お母 さまとも旧知の仲だ。
おいらは香典ば包み、仁志の家 に向かったんだ。
何年ぶりかに訪れる仁志の家 は、時が止まったみだいに静かだっけ。
当時、路地の角々に溢れつたっけ、おぼこ達は、姿ば消し、閑散としつたっけ。
「こんばんわ。この度は、ご愁傷様でした」
「なにや。ムサカリの息子が。何の用だず」
玄関で出迎えてけだたのは仁志の母親。
旦那さまが亡ぐなったばがりっていうのに、いづもと変わらね様子だ。
ほれでも、おいららが、おぼこだっけ頃の、陽気な笑顔は、もう何年も見でいねえ。
「おっかぁ、やめろず。ごめんなぁ」
幼馴染の仁志。
今では一児の父親。
すっかり一家の大黒柱っぽく、堂々とした風格が備わってだみだいな。
「近頃、お袋も、すこす痴呆気味でよ。気悪くすねでけろ」
「いや。別に。お父 さまは前から悪 っけの」
「あぁ。もう、覚悟は出来てたんでねぇ」
「んだ。うぢの、お母 は来れねっけんだげど、御線香だけでもど思って」
「あぁっ。今、家 の中、まだ、バタついてでもよ、お袋も、あだなだしっ」
「うん。あの、香典だけでも取りあえず」
「あぁ。悪 れね」
仁志も、何だかバツが悪そうで話しづらいみだいな。
だげども、おいらに御線香ば、あげてもらっても、御家族も故人も気まずいだけがも知 んね。
おいらは、仁志の家 からの帰り道に、あのぼろっちい御堂に向かったんだ。
御堂の中は、数週間前と同じ空気があったんだ。
御堂の真ん中さ腰ば下ろす。
御堂の中に差し込む月の明かりが、ゆらゆらと床さ落ぢったっけ。
十年前に奉納されたムサカリ絵馬の少年の目は、なあんにも語りかけてこねんだな。
御堂の中の無数のムサカリ絵馬にはよ、幼ぐして亡ぐなってしまっだ、おぼこが成人した姿ば描いで奉納した家族の哀しい想いが閉じ込めらってたんだ。
おいらは御堂ば出て、夜道ば歩いて帰ったんだっけ。
家 さ、辿り着いたのは夜中だっけ。
お母 さまが、つけっぱなしのテレビの前で、うだた寝ばしったっけ。
テレビのニュースは、遠い国の選挙ば伝えでいだ。
『今後の保守派と改革派の攻防が気になります。続きまして、
総務省の発表によりますと、我が国の少子高齢化は、止まる事無く、
現在、介護の必要な高齢者の数が、現役世代に並びました。
今後、介護ロボットの需要が高まるでしょう。
最新型の介護ロボットは、介護者に馴染みのある家族の姿形をしたアンドロイド型の物が人気のようです。
家族と同じ人格の人工知能を搭載する事により、介護者のストレスを緩和する効果があるとの事です。
では、最後に、各地の天気予報です』
バチッ。
テレビば消して、お母 さまば、ベットさ運んでよ。
おいらに抱えらっだ、お母 さまは、静かに寝息ば立てでいだ。
(了)
2351文字
※あらすじ
未来、山形県の、とある村の母と息子のかたち。
以下の内容は、共通語バージョン
『息子』
古い御堂の中は冷たく、音も無く、生命の鼓動を感じるものは何一つとして無い。
御堂に奉納された沢山の絵馬の中で、十年前に奉納されたばかりの絵馬に写る少年の虚ろな目は現世 と幽世 を彷徨う迷子のようだ。
僕は何故、ここに居るのだろう。
御堂の中に差し込む陽の光が長くのびた頃、扉を開くと一気に生命の息吹が、なだれ込んできた。
残暑とはいえ、蒸し暑い空気が漂う。
山の緑が眩しい。
蝉の合唱は僕の記憶を消し去り、御堂の中の風景を想い出す事が出来ない。
山を下り、里に着く頃には日が暮れかけていた。
カナ、カナ、カナ、カナ、カナ、カナ、カナ、カナ、、、。
ヒグラシの鳴き声が僕を遠くの彼方の世界へと連れて行く。
街の灯かりが燈り、家々の夕飯の香りが路地に流れる。
「ただいま」
「おかえり。おせぇかったね。何処さ行ってたのっ」
「別に。僕、もう、寝るよ」
横目に見た、お母さん。
あんなに白髪だったっけ。
気付かないうちに、歳をとってしまった、お母さん。
時が過ぎ去る事を知らずにいた。
明日も今日が続くと思っていた。
二度と、この瞬間が訪れない事を知る。
僕が子供の頃、自分が何者かを知っていた。
人生で一番、命の輝いていた季節。
そこには家族が居た。
ごめんね。
もっと、一緒に居てあげないと。
過ぎてしまった時間は、戻って来ない。
ガッチャーン。バタッバタバタ。
「どうしたの。大丈夫」
「、、、」
静まりかえった家の中。
返事がない。
今迄にない不安がよぎり、音がした方へ駆け寄ると、お母さんが横たわっている。
「うーん。なにぃ。どうしたっ」
「階段から落ちたんじゃない。覚えていないの。救急車を呼ぼうか」
「大丈夫だよっ」
結局、入院する事になった、お母さん。
脳梗塞だった。
入院中に急速に、お母さんの認知症は進行した。
「ごめんね。ビックリしたでしょう。あんたが居ない時に、あたし一人で病院に来たら入院させられちゃって。もう、家に帰るからね」
「二人で、一緒に病院に来たんだよ。もう少し、ゆっくりしていきな」
日に日に、日常の記憶が、お母さんから消えていく。
だけど、お母さんの世界は広がっている事に気付いた。
「健一、御飯は食べたの。足りなかったら後で作るからね」
と、今ではリンゴもむけなくなった、お母さんが言う。
一緒に御飯を食べてあげられなくて、ごめんね。
退院後、お母さんの介護は付きっ切りで僕が面倒をみる。
ジリィリ―、ジリィリ―、ジリィリ―、ジリィリ―、、、。
存在感を否応なく主張する電話機のベルは、悲報を知らせるものだった。
幼馴染の仁志の父親が亡くなった。
お母さんとも旧知の仲だ。
僕は香典を包み、仁志の家に向かった。
何年ぶりかに訪れる仁志の家は、時が止まったかのように静かだった。
当時、路地の角々に溢れていた子供達は姿を消し、閑散としていた。
「こんばんわ。この度は、ご愁傷様です」
「なんだっ。ムサカリの息子かいっ。何の用だっね」
玄関で出迎えてくれたのは、仁志の母親。
旦那さんが亡くなったばかりだというのに、まるで日常と変わらない様子だ。
もっとも、僕らが子供だった頃の、陽気な笑顔は、もう何年も見ていない。
「おっかぁ、よしなっちゅうの。ごめんなぁ」
幼馴染の仁志。
今では一児の父親。
すっかり一家の大黒柱っぽく、堂々とした風格が備わっている。
「近頃、お袋も、少し、痴呆気味でさ。気悪くしないでなぁ」
「いや。別に。お父さんは前から悪かったの」
「あぁ。もう覚悟は出来てたんでねぇ」
「そう。うちの、お母 は、来れなかったんだけど御線香だけでもと思って」
「あぁっ。今、うちの中、まだ、バタついてて、お袋も、あんなだしっ」
「うん。あの、香典だけでも取りあえず」
「あぁ。すまんねぇ」
仁志も、何だかバツが悪そうで話しづらい感じだ。
もっとも、僕に御線香をあげてもらっても御家族も故人も気まづいだけかも知れない。
僕は仁志の家からの帰り道に、あの古い御堂に向かった。
御堂の中は数週間前と同じ空気があった。
御堂の真ん中に腰を下ろす。
御堂の中に差し込む月の明かりが、ゆらゆらと床に落ちた。
十年前に奉納されたムサカリ絵馬の少年の目は何も語りかけてこない。
御堂の中の無数のムサカリ絵馬には、幼くして亡くなった子供が成人した姿を描いて、奉納した家族の哀しい想いが閉じ込められている。
僕は御堂を出て夜道を歩いて帰った。
家に辿り着いたのは夜中だった。
お母さんが、つけっぱなしのテレビの前で、うたた寝をしている。
テレビのニュースは、遠い国の選挙を伝えている。
『今後の保守派と改革派の攻防が気になります。続きまして、
総務省の発表によりますと、我が国の少子高齢化は、止まる事無く、
現在、介護の必要な高齢者の数が、現役世代に並びました。
今後、介護ロボットの需要が高まるでしょう。
最新型の介護ロボットは、介護者に馴染みのある家族の姿形をしたアンドロイド型の物が人気のようです。
家族と同じ人格の人工知能を搭載する事により、介護者のストレスを緩和する効果があるとの事です。
では、最後に、各地の天気予報です』
バチッ。
テレビを消して、お母さんをベットに運ぶ。
僕に抱えられた、お母さんは、静かに寝息を立てている。
(了)
2111文字
ぼろっちい御堂の中は冷たく、音も無ぐ、生命の鼓動ば感じるものは何一つとして無い。
御堂に奉納された沢山の絵馬の中で、十年前に奉納されたばがりの絵馬に写る少年の虚ろな目は、
おいらは、なして、こごさ、いるんだべ。
御堂の中に差し込む陽の光が長くのびた頃、扉ば開ぐど、一気に生命の息吹がなだれ込んできったけ。
残暑とはいえ、蒸し暑い空気が漂よってで山の緑がよ、眩しいんだ。
蝉の合唱は、おいらの記憶ば消し去って、御堂の中の風景ば想い出す事が出来ねんだは。
山ば下り、里に着く頃には、日が暮れかけったっけ。
カナ、カナ、カナ、カナ、カナ、カナ、カナ、カナ、、、。
ヒグラシの鳴き声が、おいらば遠くの彼方の世界さ連れて行ぐんだ。
街の灯かりが燈り、
「ただいま」
「おがえり。おそいけんね。何処さ、行ってだっけの」
「別に。おいら、もう、寝るは」
横目に見だ、お
時が過ぎ去る事ば
明日も今日が続くと思ってだっけな。
二度と、この瞬間が訪れねえ事ば知るんだ。
おいらが、おぼこの頃、自分が何者なのかは、知ってだっけ。
人生で一番、命の輝いったっけ季節。
そごには家族が居たんだっけ。
ごめんな。
もっと、一緒に居てあげねど。
過ぎてしまった時間は戻って来ねんだは。
ガッチャーン。バタッバタバタ。
「なにしたんだ。大丈夫か」
「、、、」
静まりかえった
返事がないんだず。
今迄にない不安がよぎって、音がした方さ駆け寄っど、お
「うーん。なにぃ。どうしたっ」
「階段から落ぢだのんねの。覚えていねえの。救急車ば呼ぶが」
「大丈夫だ」
結局、入院する事になった、お
脳梗塞だっけんだ。
入院中に、いぎなり、お
「ごめんな。ビックリしたったべずね。あんたが居ない時に、あだし一人で病院に来たらよ、入院させられちゃって。もう、
「二人で、一緒に病院さ来たんだじぇ。今すこし、ゆっくりしてったら、いいんねが」
日に日に、日常の記憶が、お
んだげっどよ、お
「健一、御飯は喰ったの。足りねごったら後で作っからね」
と、今ではリンゴもむけなくなってるんだは、お
一緒に、御飯、食べらんねくて、ごめんな。
退院後、お
ジリィリ―、ジリィリ―、ジリィリ―、ジリィリ―、、、。
存在感ば否応なく主張する電話機のベルは悲報ば知らせるものだっけのな。
幼馴染の仁志の父親が亡ぐなった。
お
おいらは香典ば包み、仁志の
何年ぶりかに訪れる仁志の
当時、路地の角々に溢れつたっけ、おぼこ達は、姿ば消し、閑散としつたっけ。
「こんばんわ。この度は、ご愁傷様でした」
「なにや。ムサカリの息子が。何の用だず」
玄関で出迎えてけだたのは仁志の母親。
旦那さまが亡ぐなったばがりっていうのに、いづもと変わらね様子だ。
ほれでも、おいららが、おぼこだっけ頃の、陽気な笑顔は、もう何年も見でいねえ。
「おっかぁ、やめろず。ごめんなぁ」
幼馴染の仁志。
今では一児の父親。
すっかり一家の大黒柱っぽく、堂々とした風格が備わってだみだいな。
「近頃、お袋も、すこす痴呆気味でよ。気悪くすねでけろ」
「いや。別に。お
「あぁ。もう、覚悟は出来てたんでねぇ」
「んだ。うぢの、お
「あぁっ。今、
「うん。あの、香典だけでも取りあえず」
「あぁ。
仁志も、何だかバツが悪そうで話しづらいみだいな。
だげども、おいらに御線香ば、あげてもらっても、御家族も故人も気まずいだけがも
おいらは、仁志の
御堂の中は、数週間前と同じ空気があったんだ。
御堂の真ん中さ腰ば下ろす。
御堂の中に差し込む月の明かりが、ゆらゆらと床さ落ぢったっけ。
十年前に奉納されたムサカリ絵馬の少年の目は、なあんにも語りかけてこねんだな。
御堂の中の無数のムサカリ絵馬にはよ、幼ぐして亡ぐなってしまっだ、おぼこが成人した姿ば描いで奉納した家族の哀しい想いが閉じ込めらってたんだ。
おいらは御堂ば出て、夜道ば歩いて帰ったんだっけ。
お
テレビのニュースは、遠い国の選挙ば伝えでいだ。
『今後の保守派と改革派の攻防が気になります。続きまして、
総務省の発表によりますと、我が国の少子高齢化は、止まる事無く、
現在、介護の必要な高齢者の数が、現役世代に並びました。
今後、介護ロボットの需要が高まるでしょう。
最新型の介護ロボットは、介護者に馴染みのある家族の姿形をしたアンドロイド型の物が人気のようです。
家族と同じ人格の人工知能を搭載する事により、介護者のストレスを緩和する効果があるとの事です。
では、最後に、各地の天気予報です』
バチッ。
テレビば消して、お
おいらに抱えらっだ、お
(了)
2351文字
※あらすじ
未来、山形県の、とある村の母と息子のかたち。
以下の内容は、共通語バージョン
『息子』
古い御堂の中は冷たく、音も無く、生命の鼓動を感じるものは何一つとして無い。
御堂に奉納された沢山の絵馬の中で、十年前に奉納されたばかりの絵馬に写る少年の虚ろな目は
僕は何故、ここに居るのだろう。
御堂の中に差し込む陽の光が長くのびた頃、扉を開くと一気に生命の息吹が、なだれ込んできた。
残暑とはいえ、蒸し暑い空気が漂う。
山の緑が眩しい。
蝉の合唱は僕の記憶を消し去り、御堂の中の風景を想い出す事が出来ない。
山を下り、里に着く頃には日が暮れかけていた。
カナ、カナ、カナ、カナ、カナ、カナ、カナ、カナ、、、。
ヒグラシの鳴き声が僕を遠くの彼方の世界へと連れて行く。
街の灯かりが燈り、家々の夕飯の香りが路地に流れる。
「ただいま」
「おかえり。おせぇかったね。何処さ行ってたのっ」
「別に。僕、もう、寝るよ」
横目に見た、お母さん。
あんなに白髪だったっけ。
気付かないうちに、歳をとってしまった、お母さん。
時が過ぎ去る事を知らずにいた。
明日も今日が続くと思っていた。
二度と、この瞬間が訪れない事を知る。
僕が子供の頃、自分が何者かを知っていた。
人生で一番、命の輝いていた季節。
そこには家族が居た。
ごめんね。
もっと、一緒に居てあげないと。
過ぎてしまった時間は、戻って来ない。
ガッチャーン。バタッバタバタ。
「どうしたの。大丈夫」
「、、、」
静まりかえった家の中。
返事がない。
今迄にない不安がよぎり、音がした方へ駆け寄ると、お母さんが横たわっている。
「うーん。なにぃ。どうしたっ」
「階段から落ちたんじゃない。覚えていないの。救急車を呼ぼうか」
「大丈夫だよっ」
結局、入院する事になった、お母さん。
脳梗塞だった。
入院中に急速に、お母さんの認知症は進行した。
「ごめんね。ビックリしたでしょう。あんたが居ない時に、あたし一人で病院に来たら入院させられちゃって。もう、家に帰るからね」
「二人で、一緒に病院に来たんだよ。もう少し、ゆっくりしていきな」
日に日に、日常の記憶が、お母さんから消えていく。
だけど、お母さんの世界は広がっている事に気付いた。
「健一、御飯は食べたの。足りなかったら後で作るからね」
と、今ではリンゴもむけなくなった、お母さんが言う。
一緒に御飯を食べてあげられなくて、ごめんね。
退院後、お母さんの介護は付きっ切りで僕が面倒をみる。
ジリィリ―、ジリィリ―、ジリィリ―、ジリィリ―、、、。
存在感を否応なく主張する電話機のベルは、悲報を知らせるものだった。
幼馴染の仁志の父親が亡くなった。
お母さんとも旧知の仲だ。
僕は香典を包み、仁志の家に向かった。
何年ぶりかに訪れる仁志の家は、時が止まったかのように静かだった。
当時、路地の角々に溢れていた子供達は姿を消し、閑散としていた。
「こんばんわ。この度は、ご愁傷様です」
「なんだっ。ムサカリの息子かいっ。何の用だっね」
玄関で出迎えてくれたのは、仁志の母親。
旦那さんが亡くなったばかりだというのに、まるで日常と変わらない様子だ。
もっとも、僕らが子供だった頃の、陽気な笑顔は、もう何年も見ていない。
「おっかぁ、よしなっちゅうの。ごめんなぁ」
幼馴染の仁志。
今では一児の父親。
すっかり一家の大黒柱っぽく、堂々とした風格が備わっている。
「近頃、お袋も、少し、痴呆気味でさ。気悪くしないでなぁ」
「いや。別に。お父さんは前から悪かったの」
「あぁ。もう覚悟は出来てたんでねぇ」
「そう。うちの、お
「あぁっ。今、うちの中、まだ、バタついてて、お袋も、あんなだしっ」
「うん。あの、香典だけでも取りあえず」
「あぁ。すまんねぇ」
仁志も、何だかバツが悪そうで話しづらい感じだ。
もっとも、僕に御線香をあげてもらっても御家族も故人も気まづいだけかも知れない。
僕は仁志の家からの帰り道に、あの古い御堂に向かった。
御堂の中は数週間前と同じ空気があった。
御堂の真ん中に腰を下ろす。
御堂の中に差し込む月の明かりが、ゆらゆらと床に落ちた。
十年前に奉納されたムサカリ絵馬の少年の目は何も語りかけてこない。
御堂の中の無数のムサカリ絵馬には、幼くして亡くなった子供が成人した姿を描いて、奉納した家族の哀しい想いが閉じ込められている。
僕は御堂を出て夜道を歩いて帰った。
家に辿り着いたのは夜中だった。
お母さんが、つけっぱなしのテレビの前で、うたた寝をしている。
テレビのニュースは、遠い国の選挙を伝えている。
『今後の保守派と改革派の攻防が気になります。続きまして、
総務省の発表によりますと、我が国の少子高齢化は、止まる事無く、
現在、介護の必要な高齢者の数が、現役世代に並びました。
今後、介護ロボットの需要が高まるでしょう。
最新型の介護ロボットは、介護者に馴染みのある家族の姿形をしたアンドロイド型の物が人気のようです。
家族と同じ人格の人工知能を搭載する事により、介護者のストレスを緩和する効果があるとの事です。
では、最後に、各地の天気予報です』
バチッ。
テレビを消して、お母さんをベットに運ぶ。
僕に抱えられた、お母さんは、静かに寝息を立てている。
(了)
2111文字