光のささないユートピア

文字数 1,981文字

 大学敷地内の西側、部室棟の2階に上がって15歩進んだ場所に七瀬の作業部屋はある。
 僕が部屋の前に着くと、彼女はいつも扉を開けて待ってくれていた。
「ようこそ、アタシのユートピアへ」
 誇らしげにそう言うと、彼女は部屋の中に僕を招き入れた。
「自分専用の部屋みたいに言ってるけど、ここは写真部の部室だろ?」
「その写真部はアタシ一人しかいないんだから、アタシのものだって言っても問題ないでしょ」
 七瀬は堂々と言い切った。実際、部員が一人しかいない写真部が廃部にならないのは、七瀬が様々な写真コンテストで数々の賞を受賞している功績のおかげだった。
 一方で、部員が一人しかいないことも、彼女が人付き合いに無頓着で、新たな部員を勧誘しようとしないことが原因である。そのため、この部室にも七瀬と、話し相手として呼び出されている僕の2人以外は滅多に訪れる人がいない。
 ガラガラと音を立てながら写真を乾かしているラックを移動させて、彼女は僕を部室の更に奥にある暗室へと案内した。
 七瀬がドアノブをガチャリと回して暗室の扉が開く。ひんやりとした空気と薬品の鼻をつく匂いが僕たちを包んだ。
 七瀬に促されるまま部屋の隅に置かれた椅子に座ると、ガチャガチャと機械をイジる音が聞こえ始めた。どうやら彼女は、写真の現像作業の続きに取りかかったようだ。
「毎日写真撮っては現像してばっかりで、七瀬がそこまで没頭するカメラの魅力ってなんなの?」
 僕は常々感じていた疑問を七瀬にぶつけてみた。
 作業の音は相変わらず一定のリズムで奏でられていて、七瀬からの返事はない。作業に没頭するあまりに周りの声が聞こえていないことは彼女にとって日常茶飯事で、話し相手として呼ばれているはずの僕もこれまで何度も無視されてきた。
 今回も彼女の耳には届いていないのだろう。僕は黙って七瀬の作業が終わるのを待つことにした。
「私はさ、この世界を切り取りたいんだ」
 ふと、七瀬が口を開いた。
 しばらく間が空いていたので、それが自分の質問に対する答えだと気づくのに少し時間がかかった。
「ユートピアの語源は『どこにもない場所』って意味のラテン語だって聞いたことある?」
 彼女の問いかけに、僕は曖昧に頷いた。カメラの話とユートピアの話にどんな関係があるか疑問だったが、七瀬は僕の返事を待たずに話を続けた。
「例えばさ、すっごい綺麗だなって感動する景色に出会えたとするじゃん? でも、ヒトが目で見た情報を脳が認識するまでには時間がかかるから、実際にはアタシたちが綺麗だって思った瞬間にはその景色と全く同じ景色なんてもうどこにもないんだよね」
 七瀬は、そこでため息をつくように笑い声を漏らした。
「人間は鈍感だからさ、そのことに気づいてないんだよ」
 七瀬の言葉から寂しさが滲んだように感じた。
 綺麗な景色を忘れたくない。誰かと共感したい。
 彼女が写真を撮る理由は、たったそれだけなのかもしれない。
「だから、アタシはさ、自分が綺麗だなって思った瞬間はカメラで切り取って残しておきたいんだ。そうやって、自分で撮った写真に囲まれたこの部屋が、アタシにとってのユートピアってわけ」
 七瀬は満足そうに言った。
 「それに、暗室でフィルムに撮った風景がゆっくり浮かび上がってくる瞬間なんて、ゾクゾクしてやめられないんだよね」
 カメラの魅力を語る彼女は、まるで子供のように無邪気だった。

「って、こんなこと、目の見えないアンタに言ってもピンとこないだろうけどさ」

 全盲の僕に彼女の表情を見ることはできないが、きっと彼女はつまらなそうな顔をしているに違いない。自分が好きなおもちゃで一緒に遊べないことを心の底から残念がるように。
 その声からは視覚障害を持った僕に対する遠慮のようなものは一切感じられなかった。
 目の不自由な僕にも対等に接してくれる。それが、七瀬と過ごす時間を僕が心地良いと感じる一番の理由だった。
 
 *
 
 僕が視力を失ったのは、大学2年生の春のことだ。
 それまで当たり前のように見えていたものが、突然見えなくなる恐怖は想像を絶するものだった。
 
 七瀬と出会ったのは、その年の夏だった。
「目が見えなくなった人間の記憶に残る風景こそ、本当に人の心に残る風景だって思わない?」
 彼女はそう言って、失意のどん底にいた僕に声をかけた。

 *
 
「まぁ、安心しなよ。医学も進歩してるんだし、アンタの目もいつか治るかもしれない。それまで、鈍感な人間たちの代わりに、この世界の綺麗な景色はアタシのカメラで残しておいてあげるからさ」
 そう言うと、七瀬は再び写真の現像作業に取り掛かった。
 写真に命が吹き込まれる音に耳を傾けながら、僕はぼそりと呟いた。
「鈍感なのはキミも同じだろ」
 光を失った僕の目に、彼女の姿がどれほど強く輝いて映るのかを、きっと彼女は気づいていない。
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