トラスカラから来た男

文字数 3,920文字

 この若い女は、六月の薔薇によく似ていた。いつ頃からそう思うようになったのか、何故その花を連想したのかさえ、定かではない。ディオールの赤を好んで纏っていたからか、恐ろしく高いヒールを打ち鳴らしていたか。いずれにせよ、曇天の墓場には、大変不釣り合いであった。
「ちょっと、やだ、なんて所で寝ているの! 風邪引くわよ。」
 女は姦しく騒ぎたて、初冬の石畳に寝そべる私を叱った。ああ、こういう声は嫌いだ。七十を過ぎた私の鼓膜には、まるで針のように刺さる。それを知りながら、この声を出しているのだろう。石畳の上に起き上がれば、案の定、雲雀のような声は止んだ。
「どこの酔っ払いかと思ったわ。墓守がそんなにだらけてもいいの?」
「花嫁が結婚式前日にこんな爺のところに来るくらいなら、いいんだろうよ。」私は上着のポケットを探ったが、生憎、飴一つ見つからなかった。
「まだ不倫じゃないわ。」
「振り返ってみろ。」
「あら、ごきげんよう、奥様。」
 煌めく爪をちらちらと揺らし、彼女は小さな墓石へ微笑んだ。妻が亡くなったのは、この女がまだ少女だったころだ。老衰ではない。墓石に刻まれた名前を見るたびに、私はあの生臭い空気を噛みしめることができる。
 遮るかのように、彼女は妻と私の間に腰を下ろした。いつもの通りに。こうして墓場の入り口を見下ろして並び、嘘に塗れた与太話をするのが、私たちの日課であった。昔からの日課だ。本当に下らない、互いが何を話しているかすら不明瞭な応答。私にとって、この行為自体に大した目的はない。目的を見いだすつもりもなかった。これはただの戯れだ。
「言わなかったかしら? 隣の家は街灯を燭台代わりに使うのよ。だから、二軒隣の子は猫に餌をやることが出来たってわけ。」
「餌の葦は燻製だろうな。そうでなくちゃ、猫が車に轢かれちまう。」
「大丈夫よ。大抵の車はデトロイト育ちで、轢く前にあの世逝き。」
「ウィギンズの坊主んとこは、メルセデス・ベンツだ。」
「じゃあ、雛に突かれてお終いね。」
「喜ばしいな。海に埋葬してやろう。」
「ちゃんと貝殻に名前を書いてね。もう戻ってこないように。」
「可哀想なジョンのためにな。名字はスミスか? ドゥーか?」
「クイーンよ。欠地王ですもの。」
 さて、いつからこんな支離滅裂な会話を重ねるようになったのか。彼女が薔薇である事と同様に、正確な過去は記憶していない。少なくとも、まだ妻が生きており、私が現役の警察官であった頃だ。彼女は幼い少女であった。
 当時から、彼女は近所に住む私の後ろにひっついていた。ちょこちょこと雀のように離れないので、度々現場に彼女を連れて行くはめになったことを覚えている。妻をはじめとした近隣の住民も私の味方ではなく、娘を止めるべきである彼女の両親はいなかった。
妻は私と彼女のやりとりを誰よりも楽しげに見守っていた。私たちには子供が居なかったからだ。妻がまだ生きていれば、大喜びしたはずだ。彼女は明日、結婚するのだから。
「もう、やめてちょうだい、嫌なことを思い出させないで!」
「俺ぁ、マリッジ・ブルーも古き良き思い出になると思うがな。え?」
「まるで腐った野菜、ピンの折れた名札、錆びた万年筆よ!」
「キャベツだっていつかは腐る。収穫を怠るなよ、お嬢さん。」
「ええ、ええ、コーヒーをかけていただきますとも!」
 最悪よ、と彼女は石灰石の観衆を前に立ち上がる。女優はいつになく息を切らして、熱く頬を燃やした。
「今日は何日だと思っているの? 日曜日よ! 素晴らしき安息の日、神父の清らかで理性的で長ったらしいお話を陶器人形みたいになって聞かなければならない、最高の日なのよ! おお日曜日よ、お前はなんて素晴らしい日なんでしょう! 明日には、ねえイエス様、この日を永遠に失わなければならないのよ!」
 喜びと絶望に満ちた遠吠えだった。耳が痛み、私は咄嗟に目を閉じる。ちらりと見渡した墓場に人影はない。修道院の窓から覗く神父もいない。やけに生温い風だけが、墓場に吹いていた。
「ああ、太陽が失われるのか。それは困った。」
 そう淡泊に返してやる。老いた私は、そうすることしか知らなかった。
妻と結婚するとき、彼女もこのように苦しんだのだろうか。思い返せば、妻が苦しむ姿を見たのは、検死室で死後硬直が崩れる前だけだった。
 妻の死は苦悶の相であった。何か小さな凶器による数十カ所の刺し傷を残し、彼女は亡くなった。妻が発見されたとき、裏口の鍵が開いていた。他殺であることだけは間違いなかったが、結局、容疑者となりえたのは私だけだった。私は責任をとり、辞職した。例え、この町の住人全員や死んだ妻が私の無実を信じていても、体裁の問題があった。
 妻がこの墓に眠ったその日も、私は彼女とこの戯れを行った。意味もなく、誰かの赦しを求めて。
「そうよ、アステカの神はお怒りなの。生贄が必要だわ。」
 砂糖に塗れた声が降ってくる。ぞっとするほど艶みがかった笑みを浮かべて、女はこちらを見下ろしていた。いつか置き忘れてしまった緊張が、肩の上で鎌首をもたげる。
「生贄は何人必要かしら? ねえ、」

「ねえ、あなた。私、最近どうも変なのよ。」
 ある時期を境に、妻は幻覚を見はじめた。飛蚊症のような幻覚だと彼女は言った。それが現実のものではないと判るが、まるで虹と霧が常にかかったような視界になる、と。
 だが、私はあまり本気で取り合おうとしなかった。余所から舞い込んできた案件にかかりきりで、家に帰らない日も少なくなかった。
 そして、あの日も。
「ええ、向精神剤です。主任警部、奥様は生前、何か精神病にかかられてはいませんでしたか? 頭痛薬か何か、彼女が日頃使っていた常備薬は?」
 死因は薬物であった。健康な人間が、向精神薬の類いを常用し続けたために、ショックを起こして死んだ。そんな物は家になかったし、妻が黙って薬を過剰摂取するとも思えなかった。そもそも、刺し傷の説明がつかない。
 腑に落ちないことばかりであった。ぶつけようもなければ理解すらままならない感情を抱えて、私は責任を負った。仕事にかまけて家を顧みず、妻の病に向き合おうとしなかった男として。犯罪を取り締まる重要な役職でありながら、妻ひとり守れなかった刑事として。
 家路につき、ドアを開けた先に待っていたのは暗闇だった。私以外、誰も居ないのだ。当然、明かりも灯っているはずがない。
 しかし。
 しかし、シェードランプが浮かび上がらせたのは、白くまろい頬であった。かくれんぼで見つかってしまった時のように、少女は赤い唇をはにかませていた。

「炭酸水に浸ける前の人間がいいでしょうね。」
 頬に染みこんだのは、今年初めての雪であった。かつて妻は、これを「赤子の笑い声」だと揶揄したことがある。天で生まれた子の微笑みが、大地にこぼれ落ちてきたのだと。彼女は本当に、心の底から、子供を欲しがった。
「いいや…砂漠の流儀に従うもんじゃない。ラテンでなくちゃあな。」
 己の声は酷く虚ろで、それこそ砂漠の様に乾いていた。
妻は子供を欲しがっていた。しかし私は、子供を欲しがらなかった。私は結婚によって、彼女の両親から彼女を奪った。その一方、私は子供が生まれることで、彼女を奪われることを恐れていたのだ。
 そして、この初雪は、いつか必ず形を成して私に襲い来るものだと分かっていた。
「雄々しき征服者たるもの、いつか訪れる報復を恐れてはいけないわよ。」
 感覚の痺れた身体に、力を込める。膝は軋み、かつて拳銃を持っていた手には、やわらかいアルミニウムの杖しかない。向かい合うには頼りない。
 私はようやく、女を見た。
 海に沈むサモトラケのニケ。女の顔はまさにそれだった。
「嫌。」彼女は微かに頭を振った。
「死にたくないわ。」
 真実はとうの昔から語られていた。手を変え、言葉を変え、それはまるでおとぎ話のように。
二軒隣の家が常備薬ではなく向精神剤を使っていたことに気づいた少女は、妻にこの薬を与えた。だが、デトロイト製造の警察車両に乗った私が気づく前に、妻はあの世逝きになった。そのお陰で、小さな刃物に突かれただけでお終いとなる。そして、貝殻には女王の名前が、この少女の名前が刻まれた。
「死にたくなかったのよ。」
 哀れなまでに、彼女は怯えていた。自らを抱きしめ、恐ろしい怪物に向ける視線を、私に向けていた。
「そうだとも、生贄は一人でいい。」血管が醜く這った指を伸ばし、私は実に親しげな笑みを見せた。
「お前さん一人で十分だ、アステカの女王よ。」

 結婚には責任が伴う。それは夫婦が互いの生涯に対する責任もあれば、いずれ生まれる子供に対して持つ責任もある。私はかつて両手を広げ、責任と呼ばれる何かを受け入れようとした。受け入れたつもりだった。
 おそれは常に、私たちの傍にあった。少女は私に捨てられることを、私は少女に奪われることを。私たちは、実のところ独りでしかなかった。私は結婚に人生を脅かされ、奇しくも、結婚によって遺された責任を放棄することができた。
 もうすぐ、花嫁たちが外に出てくるだろう。離れなければ。死者のために生きる墓守は、そのような場に相応しくない。灰色の空と共に、教会の鐘が揺れ始めるのを見た。

 願わくは、彼らが何もおそれぬことを。何も背負わぬことを。
 何も知らぬまま、穏やかであることを。

 じくりと足下の薄雪を踏みしめ、私は固く目を閉じた。そうして、彼女が処刑される音を聞いていた。
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