第1話

文字数 4,958文字

 「古今東西子どもが読みます物語というのはどれもこれも美しいものばかりでございますわね。女がしなだれかかるようにして僕にそう言った。

 「確かに確かに。しかし仄暗い物語なんぞ純真無垢な子供らには毒だろう。」少し離れたところから銀髪の老紳士が話しかけてくる。僕は黙って耳を傾ける。

「私美しいものこそ毒だと思いますの。」女が指先で髪を弄びながら続けて言う。「純真無垢な世界など何処にもないでしょう?」

「確かに確かに。美しい幻想は人を狂わせる。丁度貴方のように。」銀髪の老紳士が僕に向かって恭しくお辞儀をする。彼に答えるでもなく、弄ぶ髪を僕のものに変えた女をぼんやりと見つめる。


 そして僕は思考する。

意味もなく、理由もなく、 終わりもなく、

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 僕は”シコウ”の主である。

 僕が存在するこの世界は”シコウ”と呼ばれている。何時から存在するのかは主である僕にも分からない。ただ此処に存在しているという事が必要なのだろう。此処にはあらゆる生物が存在し、あらゆる文化が混在している。勿論人間もよりどりみどりだ。

 けれど争いは起きない。皆静かに思考しているだけだから。何をどれだけ考えていても誰も咎めない。異なる考え同士が出会っても決して争わない。ただ静かに言葉を交えるだけだ。

 僕も皆に交じって思考するが、幾つか皆と違う点がある。通常この世界には三日以上連続して存在することが出来ない。その為人間の入れ替わりが激しいのだが、僕はその逆で”シコウ”以外では存在することが出来ない。もう一つは主である僕の思考が止まった時、”シコウ”もまた終わりを告げる、という点だ。僕は”シコウ”の主であり、同時に”シコウ”そのものでもあるらしい。

 だから僕は思考する。

 意味もなく、 理由もなく、 終わりもなく、

 思考し続けなければならないのである。

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 思考し続けなければならない、とは言ったものの、主の思考というのは他人の思考に触れることも含まれているので、此処に僕が存在し誰かがここに現れる限り”シコウ”に終わりは永遠に来ない。つまりは僕も永遠に存在し続ける訳だ。

 「永遠とは一体何だろうか。」僕が呟くと幾人かが集まってきた。

 「終わりがないということでしょうなぁ。」腹の出た中年の男が答える。

 「しかしそれではあまりに安直。」神経質そうな青年が答える。

 「それでは始まり続けるというのはどうでしょう。」利発そうな子供が答えると周りの大人たちが次々に頷いた。

 「成程その発想は無かった。」「終わりでなく始まりか。なかなか良いじゃないか。」「流石は子どもね。考えが柔軟だわ。」皆思い思いに納得しているようだったが、僕はまるで自分の事を言われているようで少しどきりとした。

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 暫く辺りをぶらぶらしていると女に声をかけられた。

 「私今日で最後にしようと思うの。」ギュッと握りしめた拳が決意の固さを物語っている。

 「このまま此処にいてはいけないと思うの。」今にも泣きだしそうな顔をしている。

 「だから今日で最後。最後だから貴方に一言挨拶したくて。」大粒の涙が零れた。

 「さようなら。」そう告げて遠くへ、とても遠くへと女は歩き出した。

 「さようなら。」彼女の姿が見えなくなってから静かに別れを告げた。律儀な人だ。此処を去る時に挨拶に来る人間はそんなに多くない。

 「貴女に幸せがありますように。」もう一度だけ振り返って、歩き出した。

 歩いている内に食事を済ませていないことに気が付いた。何処へ行こうか・・・。思案していると人の好さそうな老婆に呼び止められる。

 「あらあら、また食事を忘れているのね?いけないわ。食べることは生きること。これをお食べなさいな。」渡されたバスケットには野菜とハムがたっぷりのサンドイッチと美味しそうな葡萄酒が一本入っていた。どこかで見たような取り合わせだと思いつつ頬張る。あれはどこで見たか・・いや、聞いたのか。まぁ・・美味しいからいいか。

 老婆に礼を言った後、最近気に入っている小さな広場へやってきた。苔むした石柱が並び、中心には一本の気と一台のオルガンがある。不思議な空間だ。時折吹き込む風はほのかに花の香りがする。

 「美しく、穏やかで、離れがたい。」オルガンの前に坐した少年が僕に微笑みかける。それから静かにオルガンに指をのせた。

 少年の思考はこの音楽だ。言葉のない思考。空間すべてに溶け込んで行くような思考。心地良い。

 「あぁ、このまま溶けてしまいたい。」オルガンにもたれかかり、少年は涙をこぼした。慈しむようにオルガンに指を滑らせ、その度に涙をこぼす。

 「僕は彼女を愛しているのです。」少年の涙が地面に触れるたびに若葉が萌え出で、答えるようにオルガンが鳴る。何とせつない音だろうか。何と美しい音だろうか。

 「此処は心地良すぎるのです。」だから素直に泣いてしまうと少年は微笑む。再び奏でられる音を感じながら、また歩き出す。

 
 心地良い世界は善だろうか悪だろうか。

 僕はまた思考する。
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 ふらりと立ち寄った喫茶店のような場所で、そろそろ夜にしようと思い立つ。”シコウ”では時間の流れは僕に委ねられている。日が昇るも月が満ちるも僕の気まぐれなのだ。

 「いい夜ですなぁ。」店を出たところで銀髪の老紳士に声をかけられる。彼の言葉につられて空を見上げる。幾つもの星が瞬いている。

 何を話すでもなく、軽く会釈をして別れた。言葉を交わさぬ会話がすれ違う人々の間で何度も繰り返されていく。

 「いい夜ですね。」思わず僕もそう呟いた。

 実を言うと夜になったところで僕の一日が終わる訳ではない。帰る家もなければ、眠ることもない。僕だけでなく此処にいる人間は皆そうだ。けれど昼には昼の、夜には夜の良さがある。夜にしか出逢えない思考もあるのだ。

 「星はなぜそこにあるのでしょう?」石ころを星座のように並べながら子供たちが話し合う。

 「君は月と太陽なら一体どちらが幸せだと思う?」ガス灯の下で恋人に問いかける男がいる。

 「夜ほど甘美な時間はないのです。輝く月も星もただの飾りでしかないのです。」教会の前で語り掛ける痩せた女がいる。

 黙って煙草を燻らす女が、足早に去っていくスーツ姿の男が、赤ん坊を背負った子守の少女が、皆それぞれに昼とは違う一面をのぞかせる。

 昼と夜と、どちらが真実か。
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 ”シコウ”にやって来る人間は実に多種多様だ。誰がどのような姿であっても咎められることはない。以前、此処は唯一自由な世界なのだと語る老人がいた。此処でない何処かは自由ではないのか。そのように尋ねると、ずいぶん悲しい顔をして頷いた。だから自分は繰り返し此処へ来るのだと、そう呟いて頷いた。

 「思い出は実に効果的な檻ですわね。」突然女に声をかけられる。

 「精神的に縛られるのですもの。きっと死ぬまで抜け出せないのだわ。」言葉とは裏腹に嬉しそうな印象をうける。

 「一生終わらない想いなんてそう巡り会えるものじゃないでしょう?」さも可笑しそうに答える。

 「中途半端に愛されるくらいなら、殺されるほど憎まれたいもの。」艶やかに身を翻し女は去っていった。

 愛されないなら憎まれたい。殴られたような気分になるが、不思議と嫌ではない。貴方も狂っていらっしゃるのね。くすりと笑われたような気がした。

 狂っているのか。僕は狂っているのか。世界が、”シコウ”が、人間が狂っているのか。

 僕は思考する。


 意味もなく、 理由もなく、 終わりもなく、

 絶えず行き交う人間と、絶えず溢れる思考と、終わることのない世界。何故人は此処へ来るのか。何故此処は人を惹きつけるのか。此処があるから人が来るのか、人が来るから此処があるのか。どちらが先でどちらが後か。

 僕は思考する。

 意味もなく、 理由もなく、 終わりもなく、

 「貴方はいつも孤独なのね。」通り過ぎていく人々の間に少女の声が響く。誰を刺しているわけでもない言葉が僕の思考を波立たせる。

 「此処は幸せに満ちている。私にはそれが何より嬉しく、また何より恐ろしいのだよ。分かるかね?君。」若者相手に語り掛ける紳士の言葉が体を駆け巡る。

 「どうやってもここへ戻ってきてしまうのです。終わりにしようと決心する度に、終わりのない此処が恋しくてたまらなくなるのです。」いつかさよならを言った人が談笑している。

 人々は皆穏やかで・・・。静かで・・・。此処には一切の争い事は存在しない。言葉が交わされ、思考が繰り返されるだけ。性別も、年齢も、人種も、時間でさえも関係ない。ただ存在し続けている世界。

 「まさに夢のような世界。」若い女がうっとりと呟く。

 「確かに此処にあるけれど、存在し得ない。矛盾した空間なのです。狭間とも言えるでしょう。存在していて、存在できない。解けない謎かけですね。」眼鏡の男がうなっている。

 ・・・では一体此処は何処なのか?

 浮かんだ一文に僕は戦慄する。

 僕は何故、これまで疑問を持たなかったのだろう。此処は一体何処か?言い換えれば僕は一体何なのか?おそらく生まれて初めて、僕は僕自身の存在に疑問を持った。

 一体此処は何処なのか?
 一体僕は何なのか?

 一体”シコウ”は何処なのか?
 一体”シコウ”は何なのか?

 いや、そもそも”シコウ”は確かに存在していると言えるのだろうか。矛盾した空間だと、存在し得ない世界だと話していたではないか。僕は僕であると言い切れるのだろうか?

 例えば僕は僕でない何かが創り出した幻に過ぎないとしたら?僕が思考していると思い込んできただけで、実際はその何かによって動かされている人形に過ぎないとしたら?


 否、否。一人の人間が創り出すにはこの世界は複雑すぎる。途方もない知識と経験とが無ければ、いやあってもこれだけの人間を一度に、それも別々に動かすなどできないだろう。できるとすれば天才か、あるいは狂人だ。

 ・・・狂人。

 僕が狂っているとしたら?その何かが狂人だとしたら?”シコウ”というのは常人にはとても理解の出来ない精神世界だとしたら?存在するが存在できないという矛盾にも説明がつくのではないか?

 「此処は心地良すぎるのです。」誰かの言葉が蘇る。

 例えば此処に存在する全てが僕を動かす狂人の一面なのだとしたら?あらゆる文化が、人間が混在しているにも関わらず争いが起きないのは、そもそも皆同じ人間から分かれた存在だからではないのか?

 僕は思考する。

 僕は思考する。

 答えのない思考を繰り返し、繰り返し、疑い、受け入れ、さらに思考する。


 意味もなく、 理由もなく、 終わりもなく、
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 「古今東西子どもが読みます物語というものはどれもこれも美しいものばかりでございますわね。」女がしなだれかかるようにして僕にそう言った。

 「確かに確かに。しかし仄暗い物語なんぞ純真無垢な子供らには毒だろう。」少し離れたところから銀髪の老紳士が話しかけてくる。僕は黙って耳を傾ける。

 「私美しいものこそ毒だと思いますの。」それは何故かと僕は尋ねる。女が指先で髪を弄びながら答える。

 「何故って、まともな人間なら純真無垢な世界など何処にもないと知っているでしょう?美しいだけでは生きていけませんもの。けれど美しい世界を疑わず、創り上げようとする人間もいる。そういう方はきっと狂っていらっしゃるの。そうして創り上げられるのは美しく穏やかな狂人の楽園なのだわ。そして楽園を求める人間もまた狂っているのでしょうね。」私も同じですけれど、と付け加えて女は笑う。

 「確かに確かに。美しい幻想は人を狂わせる。丁度貴方のように。」銀髪の老紳士が僕に向かって恭しくお辞儀をして笑った。

 答えるようにして僕も笑う。皆、皆、狂っているのだ。狂人の楽園確かに此処であり、永遠に終わることはないのだ。

 僕は思考する。

 意味もなく、 理由もなく、 終わりもなく、

(完)
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