死に君

文字数 1,472文字

朝、ベッドで目が覚めてまず思う事は「死にたい」である。いつからかと聞かれれば随分前からである。小学4年生の頃には思っていた気がする。(不確か)はっきりと覚えているのは、中学受験の本番前日に体調を崩して寝ている時にこのまま死にたいなぁと思った。その願いは届かず朝から受験会場に向かった。
「死にたい」という感情はどこから湧き出てくるのであろうか。一応、医療をかじっている者として、生きる事や死ぬ事について他の人より知っているつもりである。でも「死にたい」という感情は医療的には精神科分野になるのである。そりゃそうか、思考がそうさせているという考え方だもんな。でも、私の死にたいはあまりにナチュラルで、常にそばにあって、死にたいから生きてるところすらある。(何言ってんのか理解不能だったらすみません)たとえば、スタバで新作を飲んだ時も「死にたいな」と「美味しい〜幸せ〜」が混合している。え?病気?精神病?鬱病?すぐそうやって決めつける。病気扱いしたいのは分かるが落ち着いてほしい。この「死にたい」を私の中に同居させる事で私は私でいられると思う。私は断じて精神病でもなければメンヘラでもない。きちんと働き納税している。(いまは無職だけど) その証拠に、私は実際に自傷行為をした事は無いし、延長コードで作成した首吊りも使用せずにいる。落ち込んで死にたいと思った時には、その首吊りを見ては「怖っっっ!!!!!!」と思い、死ぬの怖すぎでしょ、とナダルアンビリーバボーを見ながらアイスを食べて笑っている図太さを持ち合わせている。
私の中にいる死にたい気持ち、通称死に君は、365日24時間そっと私に寄り添ってくれる。仕事で泣き喚きたくなった日も、仕事で嬉しくてご飯が美味しい日も。そっとそばで「死にたいな」と思わせてくれる。(勝手に思っているだけ) 寝る前には「はやく死にたいのにな」と勝手に口が動くのである。死に君ったら乗っ取りまでできるらしい。心底生きることに向いてないと思い、死にたいの思考がこびりついている私はその真相究明にアマゾンの奥地へと向かった。
思えば私は、常に悪口を言われる側の人間だった。幼少期は太っていたのでありきたりに豚と揶揄され笑われた。中学受験で中高一貫校に入ると、決まった人間関係が6年間続き、中学での辱めは高3まで続く地獄をみた。この18歳までの短くも濃いなかで死に君は産まれたのだ。「私は人の踏み台なんだ、それなら死んだ方が楽だな」と歪んだ自己認知が出来上がった。円満な家庭でもなかったため、誰にも頼らず自分で生きると決めた私は、死に君と生きる事になったのだ。
これが中々にしんどいのである。誰にも頼らないということは、誰にも自分の本質を出さないという事である。職場ではやんややんやと悪口を言われていたので、ニコニコと穏やかな笑顔の下で私は全員死ねと思っていたような人間である。これは、どう考えても異常だし狂っている。狂ってる事が分かっているなんて私はなんて正常者なんだろうか。はやくそんな職場やめろ!と叫びたくなる。辞めて正解だ。
しかし、職場を辞めたところで死に君はいなくならない。朝起きても死にたい。化粧してても死にたい。新品のお気に入りの服を着ても死にたい。あー死にたい。なんとも自然である。オーガニック死にたいである。お腹すいたな=死にたいくらい自然である。息をするかの如く死にたい。死に君はずっとそばにいる。死にたいなという心の支えがあるから、今日も私を生かしてくれる。お昼ご飯なに食べよっかな。なんとも皮肉な相棒である。
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