第1話

文字数 2,940文字

「一体、何でこんな物が?」
 三沢健一はミャンマーの首都ヤンゴンへ出張に来ていた。
 その初日の夕方、街を視察がてら歩いていた時、中心部にあるバス・ロータリーを通りかかった。そこで、不思議な物が目に止まった。
 緑地の車体、その中心を赤のラインが囲んでいるバス。
 健一が以前住んでいたK県のK交通の物だった。
「日本からの中古車が沢山輸入されているんですよ。乗用車だけじゃなくて、ミニバンとかトラックなど業務用も」
 隣を歩いていた駐在員の中根が説明した。
「このバスもそうですね。街中を走っているのをよく見かけますよ」
 健一は中根の説明を、半分上の空で聞いていた。
 K県にいた頃の妻や息子の事を思い出していたのだ。
‟あの頃は良かった…”
 三沢の顔が曇った。

 ミャンマーに来たのは初めてだった。
 数十年に渡る軍事政権の弾圧の後、ついに民主化。外国に門戸を開けて間もないこの国は活気に溢れていた。
 三沢が少年時代を過ごした昭和中期を思い起こさせるような。
 同じようにミャンマーの人々は往時の日本人の温もりを持っていた。
 純真なその微笑みを見ていると、こちらの気持ちも和んだ。
「その上、勤勉で真面目ですよ。物を置きっぱなしにしても盗まれる事は少ないですね」
 中根がミャンマー人の気質について語った。
 短い滞在期間でも、その事は三沢にも分かった。

 数日後、現地企業との会見を終え、滞在先のホテルへとヤンゴン支店の社用車で向かっていた。バス・ロータリーの横を通り過ぎようとしていた時、三沢の目にあのK交通のバスが飛び込んできた。
「車を止めてくれ」
 三沢が英語でミャンマー人の運転手に声をかけた。
「どうしたんですか、ホテルはまだ先ですよ?」
 中根が不思議そうに訊いた。
「バスに乗ってみる」
「え?」
「ちょっと行ってくる。君は帰りたまえ」
「一人で大丈夫ですか?」
「僕だって英語は話せるし、海外出張経験も腐る程ある。心配しないで良い」
 そう言い捨て、三沢は社用車を降りた。
 K交通のバスに近づいた。目的地らしき地名がビルマ語で書いてあるが、勿論読む事は出来ない。
‟適当にどこかで降りて、帰りはタクシーでホテルに戻れば良い”
 そう決めてバスに乗り込んだ時、違和感があった。
 バスの中で向かい側を見ると、そこにも乗降口があった。
‟そうか、反対通行だからか!”
 ミャンマーの道路は日本と逆の右側通行なのだ。だから、乗降口が車体の右側にある。よく見ると、適当に車体の一部を切った雑な作りだった。
 バスの中の座席は埋まり、立っている乗客もかなりいた。
「プリーズ・シット・ダウン・ヒアー、サー(ここに座って下さい)」
 勝手が分からずぼんやりしていた三沢に、近くに座る青年が声をかけてきた。
「サ、サンキュー」
 言われるがまま座り礼を言うと、青年はにっこりと微笑んだ。
 バスの中を見渡した。『お降りの際は押して下さい』や『禁煙』など日本語のサインが貼られたままだった。
 車内が人で一杯になった頃、バスは動き出した。
 車掌が料金の徴収にきた。
 二百チャット、たった十五円だった。

 ダウンタウンの中心部を外れてしばらく進んだ場所で、多くの乗客が降りていった。団地が並んでいるので、そこの住人だろう。子供たちが走り回り、屋台で奥さん連中が買い物をしているのが見えた。
 このK交通を使っていた当時、三沢たち一家も団地に住んでいた。 
 こんな風な団地の建物の間で、息子の修に自転車の乗り方を教えたり、キャッチボールをしたものだ。
‟素直な子だった、あの頃は…”
 音楽をやると言って大学を中退した頃から、喧嘩ばかりになった。二十九歳になるのに、今も東京でアルバイト生活をしながら、ライブ活動などをしているらしい。妻の幸子からそういった様子を伝え聞くだけで、実際に一対一で話してから大分経つ。スマホに連絡先が入っているが使った事は一度もない。
 夕方の団地の喧騒を後に、バスは発車した。

 陽が落ちた。
 バスの窓から、心細い電灯が灯る家々の中が見えた。家族揃って床に車座になって夕飯を食べていたり、ブラウン管テレビを皆で眺めていたりした。
 三沢の脳裏に、団地での日々が再び浮かんだ。
 残業続きで遅く帰宅しても、毎日、幸子は彼を待ってくれていた。晩酌をしながら、彼女から修や団地の話を聞いた。平凡だが楽しい日々だった。
‟すれ違い始めたのは、いつからだろう?”
 四十代に入った時、思い切ってマイホームを購入した。東京を挟んでK県の反対側にあるC県に移動した。通勤時間が長くなり、深夜帰宅がほとんどになった。それでも、幸子は待ってくれていた。
 大学を中退した修を、家から追い出した頃からか?
 一度だけ、幸子がポツリと言った事がある。
「あなたは自分の主張だけで、相手の言う事を聞かないから」

「お客さん、終点ですよ」
 三沢は、いつの間にかうたた寝をしていた。
 慌ててバスを降りた。
 違和感を覚えた。
‟今、車体の左側に乗降口がなかったか?それに…さっきの日本語じゃなかったか?”
「こんばんは、今日は早いんですね」
 会釈と共にあいさつをされた。
 三沢は通り過ぎていく相手の顔を見た。
 岡崎さんの奥さんだった。
 同じ団地に住む、いや、住んでいた。
 周囲を見渡した。
 暗闇の中で団地の家々の窓から、明かりと賑やかな声が漏れていた。
 三沢たちが住んでいた団地だった。
 彼は階段を昇って行った。
 三階まで来て、廊下を数歩進み、三〇二号室の前に立った。
 扉を開けた。
 煮物の匂いがした。
「お帰りなさい、ちょうど夕飯の準備が出来たわ」
 幸子が顔を出して、三沢に言った。
 居間では買ったばかりのギターを抱えた修がいた。
「オヤジ、お帰り!」
「そのオヤジっていう呼び方やめなさい。さあ、夕飯にしましょう」
 幸子が料理をテーブルに運んできた。
「いただきます」
 家族揃って食べ始めた。
「修、ギターに夢中でね」
「俺、才能あると思うんだよね~」
「まだ始めたばかりなのに」
「始めたばかりなのに、これだけ弾けるからだよ」
「よく言うわね」
 三沢はいつの間にか微笑んでいた。

「プリーズ・ウエークアップ、サー(起きてください)」
 三沢が目を開けると、ミャンマー人の車掌が心配そうにこちらを見ていた。
 ヤンゴンの市バスの中だった。
「アー・ユー・アウエイク・ナウ?(ちゃんと目が醒めましたか?)」
「ヤア…アイム・オーライト。ソーリー・メイキング・トラブル(大丈夫、面倒をかけてすまない)」
 車掌の顔に安心した表情が浮かんだ。
 三沢はバスを降りた。
 車体の右側から。
 どうやら折り返しのターミナルらしい。他にも数台のバスが停まっていた。
 夜風をゆっくり吸い込んだ。
 そして、上着のポケットからスマホを取り出すと、アドレス帳を開け、修にメッセージを送った。
“次のライブはいつだ?今度、聴きに行ってもいいか?”
 そして、幸子へも。
“いつもありがとう。早くお前の料理が食べたいよ”
 スマホをしまい、三沢は呟いた。
「ああ、ちゃんと目が醒めたよ」

*十年程前、出張でよくミャンマーに行っていた頃の印象を元にした作品になります。ミャンマーが再び民主化される事、あの素敵な人々が平穏に暮らせるようにと祈っております。
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