ほんの少しのこと

文字数 18,339文字

 あっ、これやっちゃダメなヤツだ。
 宙に身を躍らせた後、君はそのことに気付いた。
 高所からの落下だ。もうどうしようもない。
 屋上から見える景色に毒づいている場合ではなかった。
 もっと考えるべきことがあったはずだ。
 外灯に照らされた地面が瞬く間に近づいてくる。
 目の前が暗くなった。
 君は死んだのだろうか?
 いや、違う。
 視界が急に明るくなった。気付けば、君は昼間の世界にいた。風が君の髪や服を強引になびかせている。
 まだ落下していた。飛び降りたときよりも遙かに高いところに君はいた。眼下に見える景色がさっきまでとは丸で異なっている。
 遙かまで続く緑が君を待ち構えていた。
 まあ、校庭で死体を見つけられるよりかはマシかな。
 君はそこまで考えて気を失った。
「起きたまえ」
 どれほど眠っていただろうか、君は目を覚ます。背中をツンツンと固いもので突かれている。枝葉の間から青い空が見えた。
「起きたまえよ」
 もう一度言われる。張りがあり、凜とした女性の声だ。君は狼狽えながらも返事をし、体を起こそうとする。
 ネチョリ。
 動けなかった。頭や手足を含め、背中側が何かに張り付いている。これは網だろうか?
「そのままだと巨大蜘蛛に食われてしまうぞ」
 蜘蛛の巣にいる!? 焦った君は抜け出そうとジタバタするが、やはり動けない。
「ワッハッハ。冗談だ。ただの落下防止ネットだよ。まあ、材質がそのようなものであることは本当だがね」
 その答えを聞き、君は動きを止める。安堵から深く息をつく。状況はそれほど高くはない位置で粘着性の網に絡め取られているといったところか。
「うん。それだけ暴れられるのならば、大きな怪我はないな。少し待つがいい。脱出の準備をしてこよう」
 声の主が去って行く。下草を踏む音が聞こえなくなった。緑の空間において、君は独り静寂に包まれる。囚われ、手持ち無沙汰なまま時間だけが過ぎてゆく。時折、羽ばたきや鳥の声らしきものが聞こえてくる。
 グギャオオオオオォォォ。
 突如、その静寂が引き裂かれた。君の全身はその音によって震わされる。君は遙か上空に影を見つけ、息をのむ。羽を生やした巨大なトカゲが空を飛んでいた。
 ドラゴン、竜だ。
 君は自分が異世界にいることを知る。気付けば、失禁していた。
「戻ったが。……ふむ、びっくりしたようだね」
 君の下に帰ってきた女性はすぐに事態を察したようだ。君は顔を赤らめるしかない。
「案ずるな。どうせ今から濡れる。ちと熱いから我慢することだ」
 プシュ、プシュプシュ。
 言うが早く、君は後頭部に熱さを感じさせる液体をかけられた。臭いはない。背中、臀部、腿と次々とかけられる。目を閉じ、体を硬くして、じっと耐える君は拘束が徐々に緩やかになっていることを感じる。網が溶けていっているようだ。
 ついに落下した君はポスンとすぐに誰かに受け止められた。目を開けると、そこには骸骨がいた。青く染まった頭蓋が紫に光る眼で君を見ている。君は体を動かせなかった。
「ようこそ、異なる世界へ」
 呆然としたまま、優しく地面に下ろされた君はニヤニヤと笑う金髪の女性と対面する。声の主はこちらのようだ。カラフルな――どう見ても地球製に見える――水鉄砲を握っていた。ズボンとチュニックらしきものを身につけ、ブーツを履いている。整った顔立ちをしていて、線は細い。
「さて、少年。君とは話をせねばなるまいが。立ち話ではつまらないな。私の家でするとしようか」
 女性は君の返事を待たぬまま、スタスタと歩き出す。青い骸骨も同様だ。骸骨は赤い腰布を巻いていた。君は慌てて二人の後についた。何せここは未知の世界だ。緑の中を歩きながら、水分で重くなった冬制服の上を脱ぐ。幸い、気候は君にとってちょうどいい感じだった。風邪の心配はしなくてすみそうだ。先を行く二人の様子を君は観察する。女性の身長は百六十センチメートルぐらいで、耳が幾分尖っていた。骸骨は二メートルはあるだろうか、その骨格の内部にはよくわからない何かが詰まっていて向こうは見透せなかった。
「さあ、ここだ」
 連れてこられたのは、だだっ広い平地だった。その中央に平屋の木製家屋がある。建物の後ろにはタンクと思しき構造物の尖端が見えた。
「モダンな造りだろう」
 同意を求められているような気がして、君はコクコクと頷く。
「少しばかり遅くなったが、自己紹介をしておこう。私はアウラ。保持保全の魔女だ。彼はアオ。私の護衛を務めている」
 女性が人差し指を向けると、骸骨は軽く頷いて見せた。
「他にクロやアカ、シロにキンがいる。みんな、良い働き手だよ。君の名は?」
 君は自分の名を告げた。
「では、家に……は入れたくないな。今の君、かなり汚いから。ここで全部脱ごうか。おーい、シロ」
「はーい、ただいま参ります」
 呼びかけに応じ、家の中から、白い骸骨が現れる。背丈はアウラより少し高いぐらいか。
「御用は何ですか? あら、お客様ですね」
 骸骨、シロはフリルの着いたピンクのエプロンを身につけていた。一点の曇りもない明るい声だ。舌は見えず、どうやって喋っているのかはわからない。
「まだ客人になれるかはわからんがね。ともかく彼をしっかりと洗ってやってくれ」
 それだけ言って、アウラはアオと共に家に入って行く。
「うふふー。かしこまりました。さあ、坊や。よーく洗いましょうね。服を脱いでー」
 シロが両手をワチャワチャと小刻みに動かしながら、君に近づいてくる。手入れの行き届いた芝に思わずへたり込んだ君は言葉を用いて抵抗を試みたが無駄だった。
「あら、可愛い。では、大人しく待っていて下さいね。お湯をもらってきますので」
 君はぽつねんと野外に放置される。全裸で。着ていたものは全て持って行かれてしまっている。
「はい、よいしょっと」
 やがてシロがお湯の張った大きな桶を抱えて戻ってくる。
「ここに入って下さいな」
 芝生に置かれた桶の中で君は頭から何度もお湯をかけられた。
「少年、これを着るがいい」
 体を拭かれている最中、アウラが玄関から顔を出す。彼女が手にしているものを見て、君は驚く。下着、ワイシャツ、背広、ネクタイ。まだ着たことはないが、見慣れたものばかりだった。
 ネクタイを締めるのをシロに手伝ってもらった君は骸骨、クロ――執事とのこと。丁寧な挨拶をされた――に連れられて、屋内に案内される。天井の高い廊下を奥まで進むと、見るからに分厚そうな扉が君を待ち構えていた。
「入るがよい」
 アウラの声がした。クロが扉を開ける。
「そこが君の席だ」
 室内に入り、示されたのは部屋中央にある簡素な木の椅子だった。背もたれもない。対するアウラは装飾の施された書斎机に肘を乗せ、両手を組んでいた。君の位置からは見えないが、椅子も豪奢なものにちがいない。ここは執務室なのだろう。骸骨、アオが微動だにせず、壁際で立っていた。君は大人しく椅子に座った。
「質問はあるかな?」
 ここは本当に異世界なのですか、と君は確認する。
「当然だ。君の世界にはいるのかい、動く骸骨が?」
 君は首を横に振る。
「そうだろう。けどまあ、これだけ君が見知っているものを提供すれば、そのような疑問を抱くのも無理はないことだ。では、手短に説明しようか」
 君は姿勢を正す。
「この世界と君の世界とは、小規模かつ瞬間的だがそれなりの確率で繋がる時があるのだよ。二次元的な穴という形でね。君の世界のおとぎ話ではワームホールとか言われているヤツだ。そこを通って色々なものがこちらに流れ着く。生物も無生物も。私はそれら漂流物を拾い集め、解析することを生業としている。自分で言うのもおこがましいが、この道、数世紀の権威さ。今、話している日本語は当然母語ではないよ。さて、君はどうやって穴に入った?」
 問われた君は押し黙るしかない。一時の感情にまかせ、飛び降りたら異世界に来ていましたなどと言えるだろうか。
「ふん、沈黙かね」
 アウラは半眼にて君を睨んだ。
「君の着陸は非常にソフトなものだった。現に怪我もしていない。ここは異世界かと問うぐらいだし、記憶の混乱もないと思われる。よって、沈黙の理由は感情面からだと私は推察するが異論はあるかね?」
 君はやはり喋れなかった。
「……仕方ない」
 アウラがため息をついた。
「アオ、彼の首を落としてやれ」
「了解だ、マスター」
 青い骸骨が君に向かって歩き出す。急変した事態に君は慌てて扉に向かうが開かない。背後に来ていたアオに襟首をつかまれ、部屋の中央に引き戻される。椅子の座板に胸が当たるように背中を強く押された。椅子に対し横からしがみついたような姿勢のまま君は身動きがとれなくなる。君は泣いた。
「さて、刑の執行と行こう。アオの手刀は良く切れるからギロチンには最適なんだ。君、辞世の句があるなら早く詠みたまえ」
 どうしてだ、なんでどうして、どうして、と君は鼻水を垂らし、涙を流しながらアウラに問う。
「つまらない句だなぁ。フン、君を殺すのに理由がいるのかい? だって、君は自殺をしようとしていたんだろう。黙っていてもわかるものはわかるのさ。私はこの道の権威だと先程言ったばかりじゃないか」
 ばれていた。返す言葉を見つけられず、君はただ床を見つめるしかない。
「私は親切だからね、遂げられなかった君の本意を叶えてあげるんだよ。私は何か間違っているかな。……それに私は命を粗末にするヤツが大嫌いなんだ。それこそ殺したくなるほどにね」
 ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。もう飛び降りたりしません。君は謝ることしかできない。
「あぁ、もう。うるさい。私に謝ったって仕方ないじゃないか。チッ、方針は変わらないけど、冥土の土産だ。一つ話を聞かせてあげるよ」
 アウラは君から視線を外し、壁の向こうのどこか遠くを見ていた。
「さっき私が使っていた水鉄砲があるだろう。アレは昔この世界に落ちてきた男が持っていたものなんだよ。今、君が着ている夏仕立ての背広もその男のものだ。彼はこの世界に来て、二日と持たずに亡くなった。件の穴はこの地帯でよく発生するが、大抵上空で発生するんだ。そう、彼は地面に激突してしまったんだ。私が設置したネットに引っ掛かることなくね。私は看病をしつつ、といっても手製の痛み止めを使ってやるぐらいのことだが、その間に彼と少しだけ話をしたよ。家路につくため夜道を歩いているときに穴に入り込んでしまったとか、水鉄砲は我が子へのプレゼントだったとか。途切れ途切れで大した話はできなかったが、彼の心情は十二分に理解できた。それに比べて、君はどうだい!!
 机を拳の腹でたたきながら、飛び出た最後の台詞は怒声だった。君は首をすくめる。こちらを向いたアウラの表情を見て、呆然とする。親しくもない人にこのように怒鳴られたのは初めての経験だった。殺さないでください、と君は懇願する。
「ふう、言葉に重みが無いな。だけれども、猶予はやろう。私の予測ではおおよそ四百日後、また上空に穴が開く。ほんのわずかな間だがね。それに飛び込めれば君は元の世界に戻れる。入るための手段を期間内に手に入れてみせろ。最低限の協力はしてやる。果たせれば、君は生き延びられる。さあ、空を飛んでみせろ!」
 君に選択肢は無かった。
「はーい、朝ですよー。日はまだ昇っていないけど、朝ですよー」
 翌日、君を起こしに来たのはシロだった。
「これを着て下さいね」
 目をこする君にシロが貫頭衣らしき衣類を差し出してくる。昨晩は結局、背広を剥ぎ取られ君はほぼ真っ裸で寝床に放り込まれていた。思いの外、寝具が快適だったのは幸運と言えよう。食事も旨かった。
「さあ、殺されないための修行をしましょう。頑張りましょうね」
 それを聞いて、君は覚醒する。寝ぼけている場合ではない。
「マスター曰く、あなたに足りないものは知恵と体力だそうです。てなわけで、まずは肉体労働で筋肉をつけましょう。水の補充を手伝って下さい」
 シロと一緒に君は戸外に出る。シロの持つランプの明かりは仄かなものだった。
「まだ暗いので私の手を握って歩いて下さい」
 どう見ても骸骨なのだが、シロの手には柔らかさがあった。
 二人で建物の裏手に回る。着いた先にはコンクリートのようなもので作られた土台があり、その上に昨日建物正面から見たタンクが載っていた。周囲は複雑に組まれた足場で囲まれている。タンク自体の高さはそれほどでもない。土台が高いのだ。軒先付近まである。タンクの下部から延びているパイプは建物と連結されていた。
「こっちから上に登れます。あっ、水場に落ちないよう気をつけて下さいね」
 微かに水音がする。
「泉から水を引いているんです」
 はしごを登りながら、シロが説明をする。君は恐る恐るそれに続く。
「で、その水をこの手押しポンプでタンクに注ぐのですよ。はい、やってみましょう」
 不安定さを全く感じさせない足場の最上部にはポンプが設置されていた。タンクの蓋は部分的に開閉できるようになっており、その真上にポンプの水口がある。シロがコキコキとレバーを上下に動かすとジャボジャボと水口からタンクに水が注がれた。手本を見せられた後、君もレバーを握ってみる。同じように動かしてみるが、かなり力が必要だった。
「目標回数は四百回です」
 君は百回にも届かず、へばり果てる。
「うーん、握力も膂力も背筋力もないですねー」
 残りの三百数十回はシロがたやすく片付けてしまう。
「おっと、そろそろ明るくなってきましたね。では、次はランニングをしましょう。朝食ができたらお呼びしますから、それまでは敷地内をひたすら走って下さい。あっ、さぼったらコレですよ」
 シロが手刀で自身の首筋を切る仕草をする。
 地味で過酷な日々の始まりだった。

「マスターからお話があるそうです」
 水汲みアクションを三百回ほどできるようになった頃、君はアウラから呼び出しを受けた。きちんと対面するのは出会った日以来だ。君はキッチンの片隅でコックである骸骨、キンの作ってくれた料理をいつも一人で食べていた。
 執務室で君はアウラと向かい合って座る。前と同じだ。ただ今回はアオではなく、執事であるクロが壁際に立っている。
「調子はどうだね。空を飛べる算段はできたかい?」
 わかりません、と君はおどおどしながら答える。また怒鳴られるだろうか?
「わからないか。ま、そりゃそうだろう。君はこの世界のことを何も知らないからね。今のところ、成果と言えば、力こぶがちょっと立派になったぐらい。あと、根気がそれなりにあることは認めてあげよう。でも、それだけだ。君は目的を達成するための一歩を踏み出しているかも怪しい状態にある」
 アウラの平坦な声に君は頷く。いくら筋肉がつこうと、人間は空を飛べない。
「こういう場合、君の世界ならば飛行機やヘリコプター、もしくはロケットを使って空を飛ぶんだろうが」
 アウラが机に置いていたものを手に取り、君に見せた。図鑑だった。タイトルは『空飛ぶ乗り物』となっている。
「こちらの世界には当然そんなものはない。その代わり、発展したのが魔法というわけさ。そうだね、何か見せようか。まあ、私は派手な類いの魔法はあまり使えないけどね。……こっちに来たまえ。机上で見せられるちょうどいいものを思いついた」
 君は机の前に立った。さすがに緊張と興奮で顔がこわばる。
「そんな顔をしないでくれ。別に恐ろしいことは起こらないよ。じゃ、始めようか。さて、このカップには見ての通り水が入っている。つまり液体だ。それっ」
 アウラがカップに人差し指を突っ込んでから、指先をはじいた。滴が君の顔にかかる。確かに水だった。
「では、このカップをひっくり返してみよう」
 アウラはカップの上にソーサー代わりの平皿をかぶせ、それらをひっくり返した。それから、君の知らない言語で何かを囁いた。
「カップをのけるとどうなるかな」
 アウラはゆっくりとカップを持ち上げてゆく。平皿の上に透明な柱ができあがった。アウラはカップを机に置いた。
「こんなもんさ。軽く突いてみたまえ」
 君は指の腹で柱を押してみる。柔らかい感触があるのに、それは崩れなかった。
「これが魔法の力だよ。さて、ここからが本番だ」
 アウラがまた囁く。
 すると、水の柱がムクリと動き出した。縦に延び、ニョキニョキと尺取り虫のように机上を歩き、自ずからカップの内に戻ってゆく。
 チャポンと音がする。カップが平皿に戻された。
「ん、終了だ。どうだったかね?」
 アウラの問いかけに君は驚きの表情で応える。
「そうだろう。そして、飛行の魔法も当然この世界には存在する。……もっとも君の帰還には役立たないがね」
 後半のアウラの台詞に君は唖然とする。いきなり奈落の底に落とされてしまった。
「とりあえず座りたまえ。――理由は大きく分けて二つだ。飛行の魔法は自分にしかかけられないこと。もう一つは君が魔法使いになれないことだ。君は異界の民だからね。そこまでの才能がない。よって他の方法が必要だ。今日、君をここに呼んだのはその方法が見つかったからだよ。……若干いやかなり危険なんだけれど挑戦するかい? それともギロチンを所望かな」
 どう考えても強要されていた。君は頷くしかない。
「もっと安全な方法もあるのだがそれは使えないのでね」
 それがどんなものなのか、君は聞いてみる。
「君の世界のおとぎ話でも出てくるだろう。羽が生えてて、人を乗せて飛行ができる動物さ。ペガサスやヒッポグリフといったか。こっちではね、そういうものが実在するんだよ。でも、考えてみたまえ。そんな動物を君の世界に連れて行けるかい?」
 さすがに君も首を横に振るしかない。
「……第一、入手が難しいんだ。こちらの世界でも彼らは希少種だからね。加えて、知力も誇りも高く、運良く彼らに出会えても騎乗を許されるとは限らない」
 ならば、自分はどうやって空を飛ぶのか。君は問うてみる。
「魔具を使う。簡単に言えば、素質がない者でも特定の魔法を一つ使えるようになる道具だよ。むろん、多少の訓練は必要だがね。今回は飛行の魔具の出番ってわけさ。もっとも私は持ってないから、入手を試みたんだがこいつがまたべらぼうに高い。並程度の品でもアホみたいな額だ。とてもじゃないが払う気になれん。君の場合は使い捨てになるわけだしな。というわけで、伝手を頼って中古の訳有り品を探してもらった。で、見つけてもらったわけだが。彼曰く、『格安の故障品有り。修理すればあと一、二回は使用可能。なお修理には竜の翼鱗が四枚必要』だとさ。ふがあぁぁぁ」
 アウラの絶叫に君は当惑する。悩みの種がどこなのかが分からない。
「ああ、もう。異界人はのんきだな! 竜の翼鱗もけっこう高いんだよ。イクスペンシヴなんだ。そんなもん買ったら私の台所はますます火の車だ。だから、金は使いたくない。となると、誰かが竜の翼から直接もぎ取ってくるしかないんだ。でも、ものすごく危険なんだぞ」
 ようやく君は状況を理解する。自然と脚が後ずさりした。
「事態を飲み込めたようで何より。竜は見たよね。こちらに来た直後、網の上で失禁しながら君は見たはずだ。アイツから鱗を君は奪わなくちゃならない」
 君は自分の手足を見てみる。ちょっとは筋肉が付いたかもしれないが、相変わらずひょろりとしていた。
「うん、君は貧弱だ。勝算はほぼゼロといえる。だけど、ここに来てその確率がちょっとだけど高くなった」
 君はアウラの顔を見る。その表情は予想と反して冴えないものだ。
「とある小国が竜の卵狩りをするという御触れを発したんだ。ずいぶん久しぶりの出来事さ。それは次の穴が開く予想日より少し前に行われる。ところで刷り込みという現象を君は知ってるかい。――そう。鳥の雛が最初に見たものを親鳥と思ってしまうアレだ。その現象は竜にも適用される。端的に言えば、その国は新たな竜騎士を作ろうとしているんだ。母竜から卵を奪い、孵化した幼竜に人間こそが親だと思わせることでね。むろん一筋縄ではいかない話だ。目的遂行のためには多くの人員が必要となる。故に兵士だけでなく一般市民も投入される。物量作戦だね。結果、多くの人々が卵を守る雌竜によって切り刻まれ、叩き潰されることになるだろう」
 雄竜は雌を誘うための巣を作ることまではするが、育児には携わらないとのことだった。
 市民は参加を拒否できないのか、と君は尋ねる。
「参加を拒否か……。フン」アウラは乾いた笑いを発した。「彼らにはそんな発想は生まれないだろうね。……何せ、この世界の人間は複数個の命を持っているのだから。最後の命をなくすまではいくらでも復活できる。運良く、卵の獲得に貢献できれば一生涯遊んで暮らせるほどの報奨金が得られるわけだし、一般市民であろうと喜んで狩りに参加するだろうよ」
 話の異様さに君は呆然とするしかない。
「もちろん、狩りの中で本当に死んでしまう者もいるだろう。それでも、アイツは運が悪かったんだ程度で終わってしまうのさ。彼らの中では。――クロ。私と少年に何か飲み物を」
「かしこまりました」
 しばしアウラと君は無言で茶をすすった。
「説明はこんな所だな。というわけで、君には卵狩りに参加してもらう」
 会話が再開する。
「参加者たちはその目的故に竜と対立し、争うことになるだろう。強靱極まりない竜といえど、無謀な攻撃の前では無傷ではいられまい。鱗を落とすこともあるはずだ。君はその騒乱の中を生き抜きながら、散らばった鱗をひたすら掻き集めろ。それが君の成すべきことだ。よって、この事態を乗り越えるために新たな課題を君に三つ与える。ちなみに課題の一つは私が直接指導するからな。覚悟したまえよ」
 アウラは少しばかり人の悪い笑みを浮かべた。

「いきますよー」
 シュザッ!
 シロが快活に叫んだ瞬間、君の横を何かが通り過ぎていった。
「こんな感じで投げますのでしっかりと避けて下さいね。アカさんはボール拾いをお願いします。あっ、たまに投げても良いですよ」
「おう。まかせとけー」
 河原にて、君は革鎧を着て突っ立っていた。
 受けるのはなし、ただ避けるのみという変則的ルールのドッジボールが今から始まるのだ。
 竜の攻撃を避けるためには必要な訓練であるらしい。
 つまり、三つの課題の内の一つだ。
 投げるのはシロで、避けるのは君だ。普段は樹木や畑の管理をしている骸骨、アカはシロの補助役だ。
 足下の河原はデコボコしており、君の動きを制約してくる。
「では、ゲームスタートですっ!」
 宣言と同時にシロの姿が君の視界から消える。
 シロは君の頭上で腕を振りかぶっていた。

「――であるからして、魔具を旨く使いこなせばより大きな効果が得られるわけです。もっとも魔具それぞれに限界というものがございまして、使用者の習熟度がいくら高かろうと限界以上の性能は出せませぬ。その点は注意して下さい」
 二つ目の課題は、魔具を使いこなすことだった。
 講師は執事のクロだ。場所はクロが書類仕事に使っている部屋だ。きちんと整頓されている。
 君としては一番楽しみにしていた課題であった。魔法ではないにしても、元いた世界では取り扱えない品に触れると思ったからだ。
 けれど、
「――無理に負荷をかけましても、その魔具の寿命を縮めるだけなのです。手心が肝心ですな」
 座学だった。こういうのを立て板に水というのだろうか。クロはよどみなく、息継ぎもせず(まあ骸骨だし)喋り続ける。
「――当然ながら、魔具で行えることは魔法でも行えます。しかも魔法においては個々人の素養を最大限に発揮できるという強みがあります。ならば、魔具は全ての点で魔法より劣るのか? 否、そんなことはありません。そう、その簡便さです。一つの魔具をきちんと扱えるようになれば、他の魔具も初見で扱えるようになるのです。よって、貴方には今日からこの魔具を完璧に扱えるようになってもらいますぞ」
 喋りが止まり、クロが君に手を差し出した。その手の平には指輪が載っている。ようやく、実技が始まるようだ。
「お手にどうぞ」
 君がそっとつまんだ指輪には小さく透明な石が付いていた。対して、その腕の径はずいぶんと大きい。アンバランスなデザインだ。
「どの指でも良いのではめてみなさい。前の持ち主が手袋の上からはめていたらしく、少し大きいかもしれませんが」
 君は右手の中指にはめてみた。やはり大きくクルクルと動くので手を拳骨にしてとりあえず固定する。
「よろしい。では、その魔具の説明をば。それは照明の魔具です。暗いところを照らせますぞ」
 ……懐中電灯?
 君の脳裏に浮かんだ言葉はソレだ。
「では、念じてみましょう。思う言葉はですね、その魔具と一つになる心象を描けるものが良いでしょう。『我とつながれ』や『我の手足となれ』が最適かと。もちろん、声に出してもかまいませんぞ。やってはいけないことは、起こる現象を具体的に願うことです。その魔具ですと、『光れ』と念じることは禁止です。まあ、具体的に念じたところで何か危ないことが起こるわけではないですが。その代わり、魔具も何も反応してくれません。起こる現象を具体的に願い、それを実現なし得るのは魔法使いだけなのです。さあ、やってみましょう」
 君は指輪を見つめ、念じてみる。しかし、全く変化はない。
「ふむ、その魔具の正体を最初に明かしたのはまずかったですかな。では、目をつむってみて下さい。そして、その指輪の感触をとにかく意識してみるのです」
 再挑戦だ。
「そうです。そうです。では、ゆっくりと目を開けてみましょう」
 指輪は微かな白い光を放っていた。
 なんだこんなものか。君ががっかりすると指輪はすぐに光を失ってしまう。
「おっと、集中を切らしてはいけませんな。では、指輪をこちらに。ちょっとした余興を見せてさしあげますから。これをかけて後ろを向いて下さい」
 指輪を渡すと、代わりにクロからサングラスを渡される。これも君の世界からの漂流物だろうか。
「さあ、いきますぞ。とくとご覧あれ」クロが厳かに宣言する。「……三、二、一」
 ――!!
 白い光が部屋を占拠した。

「ふふ、随分と皆にしごかれたようだな」
 三つ目の課題の講師は宣告通り、アウラだった。
 場所は執務室だが、立ち位置が今までとは異なっていた。
 以前、君が座っていた所に簡素な平机が置かれており、アウラと君は向かい合って座っている。
 間近で見るアウラは本当に綺麗で君は少しドキドキしてしまう。
 二人きりだった。
「さて、私が教えるのは言語や文化となる。卵狩りに出立する前に最低限のことは飲み込んでおかないと不便だからな。『こんにちは』などと言っても通じないぞ。日本語と似た言葉を使っている辺境の部族もいるらしいが、それはまた別の話だ。魔法語を除けば、文字をきちんと伴った言語はこの世界では一つしかないから、それを覚えることになる。卵狩りを画策している国の標準語もそれだ。平凡な偽名を考えてあげるから、名前と数字ぐらいは書けるようになること。君にとっては幸いなことにこの世界の識字率はさほど高くないから、それぐらいできれば十分だ。重要なのは会話だな。色々なシチュエーションをともかく舌を動かしながら覚えていくこと。そのために私が直々に教えるんだ。クロたちには残念ながら舌がないからな」
 アウラのレッスンは懇切丁寧だった。君が間違えても怒らずにきちんと静かに訂正してくれる。出会った初日に怒号を浴びせてきた人物とは思えないほどにだ。君の勉学に対する姿勢も自然と真摯なものになった。

 そんな忙しく充実した日々に慣れてきた頃、君は一人の客人に遭った。
「やあ、君だな。アウラ家の新しい居候は」
 ――はい。
 アカの農作業を手伝っていた君は何とか相手の言葉を聞き取り、この世界の標準語で返答する。
「俺はホア。ホア・スエカリクだ」
 見るからに旅慣れた男だった。君と同じく黒髪だ。
「今からアウラに会いに行くんだが。アカ、彼を借りても良いかな?」
「むろんだ。そもそも三者面談じゃないと話にならんだろう」
「おっ、いいね。その表現。じゃ、遠慮なく」
 話はいつの間にかまとまっていた。畑からアウラ邸までかなり距離があるにもかかわらず、ホアは迷うことなく進んでゆく。
「どうだい、ここでの暮らしは?」
 君は考えた末にまあまあと答える。正直、元の世界より不便なことばかりだが病気一つせずに生活できているので、そのようにしか言えなかった。
「ふむ、どっちつかずだな。うん、アウラが君を還そうとするのも無理はないな」
 君は彼の発言を聞き、この人は自分のことをどこまで知っているのだろうかと訝しむ。アウラは魔法による通信手段はかなり発達していると言っていたし、そのため色々と知っているのだろうか。
「俺はキンの飯は大好きだけどなー」
 それについては同意だったので、自分もそう思う、と彼に伝える。
「そうかい。なら、日本人の口には合うってことかもな」
 少し引っ掛かる言い方だった。詮索しようとしたが標準語では骨が折れる作業であり、成し遂げる前に家に着いてしまう。
「ただいま帰ったよ、アウラ」
 そう言ったのはホアだ。
「別にここはお前の家ではないぞ。まあ、無事なのは良いことだが。で、あの魔具は持ってきたのか?」
 アウラは応接室にてホアと向き合っていた。君はアウラの横に座っている。背後にはクロとシロが並んで立っている。
「もちろん。ほれ」
 ホアが布袋をゴソゴソとやり、卓にベルト状のものを置く。
「うん、やっぱり壊れているな」
 話の流れからして、君にもその正体が分かった。飛行の魔具だ。
「少し見るぞ」
「ご自由に」
 アウラがベルトを手に取り、矯めつ眇めつする。それから、天を仰いだ。
「確かに竜の翼鱗が四枚必要だな」
「だろ」
「喜ぶな。褒めてなどいない」
「いや、俺の目利きの良さを褒めてくれたのかと思ってね」
「確かに故障品でも良いから安いものを、とは言ったがな。おまえ、よりにもよって竜の翼鱗はないだろう」
「仕方ないだろ。これでも結構頑張ったんだぜ。期日内に入手できるものではそれが最高の一品さ。予算内ではね」
「ぐむう」
「では、ホア商会への入金、楽しみにしてますぜ。さて。じゃあ、次の話だ。いつ出発すればいい?」
「翌朝だ。もうこちらでできることはほぼやってある。そうだな、クロにシロ?」
 アウラが骸骨たちを仰ぎ見る。
「はい。順調に仕上がりましてございます」
「右に同じでーす」
「少年。今日がここでの最後の晩餐だよ」
 アウラは静かにそう言って、君をじっと見つめた。

 朝、君は革鎧を着てアウラ邸の前にいた。袋を背負い、腰には剣を携えている。袋の中はキンの作ってくれた保存食がたくさん詰め込まれていた。皮の水筒にはアウラの魔法がかけられていて、中の飲み物が腐らないようにされていた。手袋をした手には照明の魔具がはめられている。
 準備は万端だった。
 今はアウラから色々な注意を受けているところだ。
 それもまもなく終わるだろう。
「――少年、素振りぐらいが教えたが腰の剣は使わないように。そんなものは竜には効かないぞ。効く相手は人間ぐらいだ。だから、君は使うな。君は逃げて逃げて逃げ回って、竜の翼鱗を集めることだけに集中しろ。わかったな?」
 君は頷く。
「よろしい。なら、行ってこい」
 話はそれで終わった。
 アウラと骸骨たちに見守られながら、君とホアは出立した。

「よし、そろそろいいかな」
 森の中をしばらく歩いた後、ホアが発した言葉に君は驚く。
 ホアが日本語を話したからだ。
「あれ、てっきり気づいてるんだと思ったけどなー。俺の名前、逆さから言ってみ」
 ホア・スエカリク。――繰り返すアホ!?
「ワッハッハ。この名前、アウラがつけてくれたんだぜ。二度もこの世界に来ちまったアホな俺に。最低なネーミングだけど気に入ったから使ってるんだ」
 君は自分の偽名を逆さから呟いてみる。特に意味を成さなかった。
「アウラには話すなって言われてたんだけど。やっぱ我慢できねーわ。今から色々勝手に喋るから嫌だったら耳を塞いどいてくれ」
 君は特に何もすることなく、歩くことに決めた。
「うむ、俺は都市伝説ってやつが昔から大好きでね、この世界に繋がる穴の話も小耳に挟んでた。もちろん、穴の先にこんな素敵な世界があるなんてことは知らなかったけどな。で、運良くこっちに来れたんだがすぐにアウラに見つかった。そんでもって次の穴がすぐにしかも地表近くに開くってんで強制送還された。それが一回目。そうして俺は地球に戻っちまったんだけど、何故かそのことをきれいさっぱり忘れてた。穴に飛び込んだ直後に戻ってきていたし、違和感も覚えなかったみたいだ。だけどまあ、俺の都市伝説好きは直ってなかったからな、また穴を探してた。そして、俺は今ここにいるってわけよ。二度目来たときに忘れていたことは全部思い出せたから、自分からアウラに会いに行ってやった。びっくりしてたぜ、彼女。で、そんな俺は今では商人として大活躍。彼女がこれは払えまいって吹っ掛けてきた金額もすぐに用意できるぐらいには大成功してる。これが俺の半生ってわけさ。――さーて、ではこっからは真面目な話だ。きっちり聞いてくれよ」
 ホアは立ち止まり、君の肩に手をかけた。
「ここでの暮らしを忘れてまで元の世界に戻るか、それともここに残るか。君はどっちを選びたい?」
 君は刑を宣告されていることを告げる。
「はっはっは。初っ端から怒らせたか。さては君、生きることから逃げたな。でも、まあ鱗を四枚持ち帰った上でここに残りたいと言えば、彼女も頷くと思うぜ」
 そこまで言われても、君はどちらも選べなかった。
 それから君はホアと一緒に歩き、馬ではない馬が引く馬車に乗り、一つの町に着いた。
「さあ、ここからは君一人だ。頑張れよ。この世界を味わい尽くせるよう祈ってるよ」
 ホアは去って行った。

 君はホアと別れ、町を歩く。程なくして、大きな幟を見つける。そこが卵狩りの受付らしい。大きな天幕の中にはたくさんの男たちがいた。君は周りの様子を参考にしながら、同じことにする。名前を記入後、クジを引くようだ。細い木片を箱から一本選び、先が赤だった者は喜んでいる。どうやら参加に制限はないが、道中の食糧の供給には制限が課せられており、クジに外れた者は自腹で臨まねばならないようだ。
 君の引いた木片の先は赤だった。
「おい、ボウズ」
 幸先良いな、と思った途端、君はいきなり因縁をつけられる。
「そんな細っちょろい体で何ができるってんだ」
 絡んできた相手は腹の突き出た男だった。酒臭い。君は食糧の受給権をせびられていた。
 さて、どうしたものか。君は悩む。目前の相手はそれほど強くなさそうだが、自分が弱いことも承知している。まだキンの保存食は残っているけれども、それだけでは不安も残る。得られたチャンスは最大限生かしたかった。
 よし、逆らおう。君はそう結論づけた。
「そんなに当たりクジが欲しければ、私のをやろう」
 そこに助け船が入る。君は固く握りしめていた拳を緩めた。
 声の主は女性だった。凜とした立ち姿が印象的で、剣を背負っている。
「ああーん。姉ちゃんも参加するってか」
 男はその女剣士にも絡んでいく。
「もちろんだとも。貴方よりは強いぞ」
 女剣士がそう言った瞬間、男は倒れていた。
「ほらね」
 男の外れクジは鼻血で赤く染まっていた。
「では、行こうか。我が相棒よ」
 女剣士は君の肩を押して、天幕の外に出る。そのまま人気の少ないところまで移動させられる。
「出発は今日だ。お互いギリギリだったな。それまではここらで大人しくしているが良い」
 助かりました、と君は礼を言う。
「かまわんよ。卵狩りなどと危険なことに挑戦するんだ。君も何か成すべきことがあるんだろう。こんなところで立ち止まってはいられないぞ。では、また会おう」
 女剣士は足早に去って行った。

 移動が始まる。
 竜はとある山に住まうらしく、そこまでは全員馬車もどきに乗せられた。それだけでも結構な金額がかかることは君にも分かった。供給される食糧は大変不味かった。
 五日後、目標とする山が見えてきた。こちらの標準語では高き平坦な山と呼ばれていたものだ。
 テーブルマウンテンだったかな、と学校で習ったことを君は思い出す。あの広い頂上のど真ん中に竜はいるらしかった。
 麓に着き、皆が馬車もどきから降りる。
 問題はそこからであった。そこにいる者たちは登山家ではなく、ただの兵士、もしくは兵士気取りの一般市民だった。山に登り始めて二日目にして人員は半分以下になっていた。
 四日目、頂上が見えてきた頃、人員は当初の五分の一程になっていた。滑落した者を助けることなく、ひたすらに登った結果がその人員数だ。残り総数、およそ三百人。
 君も生き残っていた。
 狩りが始まる。
 三方から、人々は竜の巣に近づいた。刻は明け方だ。竜には見えにくいとされる青い光を放つ魔具を使っている者たちがそこかしこにいた。
 母竜は卵を温める間、食事を取らずそこに留まるらしい。
 故に確実にいるが、弱ってもいるらしかった。
 やがて部隊の一つが竜を視認した。テーブルマウンテンという平坦な地形と遠視の魔具の相乗効果によって、かなりの遠距離においてその姿を発見できていた。伝達の魔具を持つ者がそのことを他の部隊に伝える。
 残り二部隊は数名を残し、竜を発見した隊に迂回して合流することになった。君は合流組みだ。残された者たちはあまり逞しくは見えなかったが、おびえてはいなかった。
 しばし後、残された者たちが騒ぎ始めた。何らかの魔具を使っているのか、かなりの大音量だ。複数箇所から聞こえてくる。君の耳にもしっかりと届いた。
 明け方の空の下、卵を守っている雌竜が飛び立つのが見えた。騒いでいる方向の一つに向かっている。
 程なくして、部隊は竜の巣に向かって走り始めた。竜が戻ってくる前に巣に近づかなければならない。巣の近くを戦いの場とすれば、卵が傷つくのを恐れて竜は必殺の息吹を浴びせてこないはずだという作戦である。魔法的効果を持つ竜の息吹だけは避けねばならなかった。テーブルマウンテンとはいえ足下は悪く、転ける者たちが続出する。君もわざと転けて見せて、到着を遅らせた。
 君が着いたとき、竜はすでに巣に舞い戻っていた。何かを咀嚼していた。
 兵士たちは槍や剣を持って竜に突撃している。特段、連携しての行動などは見られない。その兵士に対し、竜は尻尾を振るう。兵士たちの上半身と下半身が綺麗に分かれた。竜は屈強だったであろう一人の兵士の上半身を飲み込む。
 それは狂気の光景だったが、更なる怪奇も起きていた。
 竜に引き裂かれた兵士たちの上半身と下半身とが蠢き、合体していた。
「ああ、痛かった」
 死していたはずの兵士はそれだけ言うと、また竜に突撃していく。
 君の脚は震えていた。
 君は吐き気をこらえながら、鱗を探した。今が真っ昼間であれば、あたりの凄惨さに倒れていたかもしれない。体を痛めたかのように前屈みで歩きながら照明の魔具を使い、足下を小さく照らす。鱗は白い光をよく反射したので、すぐに十枚ほど見つけられた。翼鱗だといいのだがと君は思う。
「わあ、待ってくれー」
 そのとき、叫び声が聞こえた。聞いたことがあった。町で絡んできた男の声だ。君は思わず顔を上げる。男は転倒し、今にも竜に喰われそうになっていた。竜の腹の中では復活もままならないだろう。誰も彼も攻撃に夢中で助ける様子はない。
 ――ああ、もう。
 君は叫びながら走り出していた。どうしてかはわからない。ただ、この異世界を嫌っていることだけは自覚できた。アウラも同じような気持ちなのだろうか。
 男と竜の間に君は立って、目をつむった。魔具をつけた右手を突き出す。クロの教えを心の中で復唱する。
 君はまぶたの裏で強い光を感じた。直後に竜の叫びを聞く。反射的に耳を押さえてしまったため光が途切れてしまう。君は状況を確認するため目を開けた。男は無事だった。尻をついたまま眼を押さえている。竜も瞳を閉じていたが、前脚は振り上げられていた。その脚は大きく、少々ずれても君に当たるだろう。
 君は恐怖で凍り付いた。
 ガキンッ。
 その竜の動きが止まる。止めたのは女剣士だ。
「よくやったな、少年……なーんてね。あはは、格好つけるのも大変です」
 セリフ後半の声には非常に馴染みがあった。シロの声だ。
 女剣士シロ――おそらく変身の魔具を使っているのであろう――はそのまま竜の攻撃を押し返した。
「鱗は集めましたか?」
 シロが君に尋ねてくる。君は頷いた。
「よろしいです。私も何枚か集めましたし、ここいらで帰りましょうか。皆さんの目がくらんでいる間に。負け戦に付き合う必要はありませんしね」
 そう言うと、シロは君を小脇に抱えた。逃げるウサギ以上のスピードで駆け出す。
 君は行きの半分の時間でアウラ邸に帰り着いた。

「ただいまです」とシロが叫ぶ。
「お帰り、待ってたぞ。急げ。穴が予測より早く開く。修理を急がねばならない」
 アウラはそこまで一息に言ってから、君を見つめた。
「帰るんだろ?」
 その問いに君はハイ、と力強く頷く。
「良い答えだ」
 アウラは微笑んだ。
「私は修理に取りかかる。その間、みんなは少年を全力で休ませるんだ」
 君は三時間ほど休むことができた。窮屈に感じる学生服を着て、戸外に出る。
「何とか間に合った!」
 アウラは息を切らしていたがそのまま君の後ろに回り、腰にベルトをつけてくれる。竜の翼鱗はきちんと四枚あったのだと君は安堵する。
「いいか、よく聞いてくれ。どこぞのアホ一人のサンプルしかないが、君は飛び降りて穴に飛び込んだ、その瞬間に戻ると思われる。つまり、今回の君は元の世界にて穴から飛び出す状態になる。だから、飛び出たらすぐに魔具を制御して地面に降りるんだ。穴が閉じれば、おそらく魔具は使えなくなるからな。加えて、この魔具はいつ壊れるかも分からん代物だ。迅速且つデリケートに扱うんだ。死んでくれるなよ」
 気をつけますとしか言えない、注意事項だった。
「では、お別れだ。もう飛び始めていた方が良い。みんな、別れの挨拶だ」
 アウラの言葉を誘い水に骸骨たちが順々に君の前に立つ。
「来たその日だというのに手荒なことをして悪かった」
「ご飯をおいしく食べてくれてありがとよ」
「一緒にやった畑仕事、楽しかったぞ」
「君は良い生徒でした」
「元気でね。大きくなるんだぞっ」
 そして、最後にアウラが君の前に立った。
「あちらの方向に飛んでいけ。まもなく穴が開くはずだ。シロから旅中の様子は聞いたよ。少々無謀ではあったようだが正当な勇気を出したな」
 そこでアウラは何事かを囁く。その瞳は優しい光を湛えていた。
「保持の魔法をかけておいた。その心の火が消えないようにね。まあ、そちらの世界で効果があるかは分からんが、ちょっとした餞別だよ。さあ、飛び立ちなさい」
 君は全員を視界に入れ深々と頭を下げてから、宙に浮いた。
 程なくして君は黒い穴を見つける。もう小さくなり始めていた。
 君は全速で穴に突入する。
 さようなら、というつぶやきだけを残して。

 突入したという感覚は一瞬だった。ただ何かと合わさったという実感はあった。
 君は元の世界に戻ってきていた。
 早く止まらなきゃ。君はそう思ったが、それは不可能だった。
 ベルト、つまり飛行の魔具が無くなっていた。どうやら穴に入ったときに完膚なきまでに壊れたらしい。
 けれど幸いにもスピードは残っていた。それに方向も良かった。君は校舎の外壁に沿って浮かび上がり、屋上のフェンスに触れることに成功する。そのまま自らの体を屋上に投げ入れる。シロとの特訓の成果か、上手く受け身を取れて痛みは無かった。
 大の字になる。
 君は自分の肉体に急激な変化が起きているのを感じていた。せっかく鍛えてきた筋肉は痩せ衰えていき、異世界での記憶も薄れていく。
 それは止まらなかった。

 数分後、君は妙に重く感じる体を起こした。
 飛び降りたのは夢だったのだろうか、と思いながら。
 フェンスに手をついて、屋上からの景色を眺める。
 綺麗だなぁ、という言葉が自然と口から零れた。
 そして、君は家路につくことにした。
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