第1話

文字数 2,409文字

いい子わるい子なみの音
茶柱 多津子

 足先に神経を集中させ息を殺し暗闇の中を歩く。暗視ゴーグルのおかげで多少輪郭が見えるがあまり視覚は頼りにならない。いまここで最も必要なのは触覚、聴覚、第六感、それと運を引き寄せる多少の嗅覚である。いくら手練れであっても運(とはいえ一番は実力と経験)がないとこの仕事は務まらない。そうすると自分は今までたまたま運がよかっただけで今回はダメかもしれない、と毎度考えるが今のところは運がついていると言ってもいいだろう。(今回はどうなるかはわからないが)
 大抵目当てのものは書斎か寝室、化粧箪笥なんかにしまってあることが多い。ただ、寝室に入ることはリスクが高すぎるから書斎が目当てである。この家の間取りは完全に頭に入っており、目を瞑っていても書斎までたどりつく、家主が一日で家を巨大迷路にリフォームしない限りは迷子になることはない。家は幸い迷路にはなってなく下調べ通りの間取りだったので書斎にたどりつくことはクソガキの手をひねる(未来ある無垢な赤子の手をひねるのはあんまりではないか)ことと同じぐらい簡単だった。
 だがしかし、やはり目当ての物を見つけると興奮が隠せない。サームグラフィーがこの場にあったら(若しあったらかなりまずいのだがおそらく無い)自分は真っ赤に映っていることであろう。金庫を開けることは女性との付き合いと同じだと自分は考えている。優しく、丁寧に、根気よく、愛と敬意をはらって付き合うのがミソだ。いったん乱暴に扱うとヘソを曲げて一生(それぐらい、比喩、)開いてくれない。だから耳の奥でカチリと小さな音を聞いたときはプロポーズに成功したぐらいに(そんな経験はおろかチャンスすらないが)嬉しい。金庫を開け自分は恋人(金、もしくは金目のもの)を手に取り、一ミリも傷を付けないように鞄の中へ入れる。鞄が重いがこれは幸せの重みだ。幸福が具体的なものになり直接体に伝わるのはわかりやすくていい。あとはおうちに帰るだけだ。(おうちに帰るまでが遠足です、と言われなかったか?)

 失敗した。頭を抱える自分の心境とは裏腹に車の後部座席では小学校二、三年生程の少年が札束の数を数えている。失敗の理由は三つ。一つ、今日の夕飯を何にしようかと数秒立ち止まって考えたこと。二つ、俺の姿を見て小さく声を上げそうになった少年を連れ去ったこと。三つ、幸運をかぎつける嗅覚が鈍くなっていたこと、である。その少年はというと攫われたのを気にせずに
「いい車だね、僕海に行きたいな」
と座席にしがみつきにっこり笑った。
 人を攫うのは金を持っていくより面倒だ。金は喋らない。だが人は違う。攫われた本人も、知り合いや家族も(ときには他人も)攫われたと騒ぎ立てる。この仕事を始めて初の失敗(しかも最悪中の最悪)だった。金持ちの家の子供なんてなおさら嫌だ。自分を呪いたい。
「おじさん泥棒でしょ?別に僕はいいよ、暇してるし、そのお金だって全部あげる!そのかわりさ、海に連れて行ってよ!パパとママは忙しいからお休みの日だってどこにも行けないの、仮面ライダーも全部見ちゃった」
よく喋る子だ、と思った。
「こんな夜遅くに海に行っても何も見えない、真っ暗だ」
「いいの!じゃないと叫んじゃうよ?おじさんそしたら困るでしょ?ほら、はやくはやく!」
本当によく喋る子だ、と思った。
「その、言ってることは本当だね?君は一生おじさんのことを黙っていなきゃいけないんだよ?それっておじさん大変だと思うな、そのためには多分いっぱい嘘つかなきゃなんないし、」
「僕は平気、約束しよう。ほらゆびきりげんまん!嘘をつくのは悪い子になる、だから僕はおじさんといるときだけ悪い子になるんだ、いつもに戻ったら僕はいつものいい子になる、これで文句はないはずでしょう?おじさんと僕は今からちょっとだけわるい子をするんだ」
自分は溜息をついてサイドブレーキを下ろす。
「海に着いたときはもうきっと暗くなってる、こわくないのか?」
「おじさんとわるい子してるからこわくない!」

 海は不思議だ。すぐ後ろはショッピングモールや繁華街があり、煌々と光っているのに海だけは黒い布をかぶせたように、暗く静まりかえっている。暗く地面の裏側に足を付け生きている(もちろん普通に歩いているが)俺は海の方が好きかもしれない、とふと思った。絶賛わるい子をしている少年は波打ち際で靴を脱ぎ波に濡れるか濡れないかのぎりぎりを愉しんでいる。今の季節、波に濡れるのは寒いだろうにと言うと、わるい子だから寒くないと笑顔でかえしてきた。わるい子とは万能な言葉だ。若し自分が警察に捕まった(そんなことはありえないと信じている)ときには「わるい子だから許されます」と答えれば見逃してもらえるだろうか。
 煙草を口にはさみライターで火をつけると空間がぽ、と明るくなる。少年はいつしか隣に座っていた。足は砂だらけで水に濡れている。おいおい、その足で俺の車に乗るんじゃないだろうな。少年は煙草の煙の行方を目で追いながら息を吐いた。
「おじさん、シンデレラの鐘がもうすぐ鳴るよ、魔法はもうすぐ解けちゃうんだ」
「おじさん、今日の事はぜったい忘れないけどぜったい誰にも言わないよ」
「おじさん、僕おじさんの口は何でそんなに大きいのって聞いてあげてもいいよ、そしたらおじさんは、僕のことぺろりって食べても、きっと海が全部泡にしてくれる」
わるい子の時間は終わりで魔法は解けた。これで今から少年はいつものいい子に戻り、自分はいつものわるい子に戻る。
「いまのうちだ、いい子わるい子あの波みたいにいったりきたり出来るのは、おじさんはもういい子になれないさびしい狼なんだ」
波の音はきっと見なかったことにして、遠く海の向こうまでこのわるい子ごっこを流してくれるだろう。遠く遠く深いところまで。
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