ぶちねこについて

文字数 2,288文字

 ぶちねこについて、ぼくが知っていることを話そう。ぶちねこはもうひとりのぼくである。だれかがぶちねこについて面白い話をしようとするとき、たいていはかれの住まいについてはなす。でも、そいつが思っているほど面白くはならない。
 はなしたくなるような住まいではある。町の地図看板に奇妙な図形として存在するのが、かれの文化住宅である。そこへは一見どの道も通じていない。でも実際にそこへ行ってみると、体を横にすれば十分通れる路地があるのがわかる。何人かのクラスメートがそれを見るためにやってき、翌日尾ひれをつけてともだちにはなした。おかげで、太っただれかが挟まって、救助隊がやってきたという噂が広まった。
 中を見たわけでもないのに、かの文化住宅の各戸には巨大な便器が一基ずつあるばかりだ、という悪質なうわさもあった。
 ぶちねこの席の近くで、わざと小銭を落とす連中もあらわれた。お金の音にぶちねこの耳が動くところを見たかったのだった。
 ぶちねこの両親は、かれがうんと小さなころに離婚して、いまやどちらも、ぶちねこの知らないところに住んでいた。親権を持っていたのは父親だった。かれは、再婚相手がぶちねこを育てるつもりがないことを知ると、再婚相手との子供だけが自分の子供だと考え、ぶちねこに文化住宅の一室をあてがった。かれは一週間に一度、お金を渡しにその文化住宅にあらわれた。ふたりが口をきくことはけっしてなかった。向こうから道幅いっぱいのトラックがやってくる。トラックは工事現場へ向かう途中だ。ひとは電柱のかげで身をかわし、そのトラックが通り過ぎるのを待つ。そんなかんじだったんじゃないかな。父親がきたときのぶちねこは。
 かつては、ぶちねこはおばあさんと二人で暮らしていた。すきま風を防ぐため、窓枠にスポンジがついていた。ぼくがそれがなにか不思議に思っているとき、それはおばあさんが備え付けたもので、冬になるとありがたみがわかると教えてくれた。
 ぶちねこのおばあさんは、ある日ひとりでは起き上がることができなくなり、婚家に戻ることになり、たまには調子のよいときもある四年間を過ごしたあと、ぶちねこの名前や思い出はおばあさんから離れ、永久に戻らなくなった。
 おばあさんの棺桶には、婚家にしまってあった、死を待つだけの老人に変えられる前のおばあさんのすがたが写し取られた、ぶちねこの水彩画が遺品として納められた。
 ぶちねこは、おばあさんが自分のことを忘れたのは、父親が、再婚相手との子供こそアンタのほんとうの孫だとおばあさんに売り込んだからだと考えた。
 あるとき、ぶちねこは世界に対する怒りを部屋の床にぶつけた。何度も飛び上がり、何度も両足で床を蹴った。ドン!ドン!ドン!ドン!ドン!文化住宅そのものを揺するような衝撃だった。床はなにもしていないというのに。
 床も黙ってはいなかった。
 だれかが階段を上ってきて、ぶちねこの部屋に上がってきた。肌着の男だった。肌着の男は、ぶちねこの真下に住んでいる中年の男だった。床が助けを呼んだのだ。肌着の男は、ぶちねこの首根っこをつかんだ。「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい…」とぶちねこは叫んだ。ぶちねこは転がされると、頭を抱えてうずくまった。そうして、倒れた首振り扇風機のように額を床にこりつけてカタカタとふるえていた。
 ぶちねこの部屋には、飛び込むことのできるふかふかのベッドはなかった。背中に手を置いてくれるともだちが訪ねてくることもなかった。ケンカしても食事を出してくれるおばあさんはもういなかった。ただトラックが通り過ぎるのを待つことができるだけだった。
 ぼくがはじめてその部屋を訪れたとき、ぼくらは十五歳だったけれど、ぶちねこは月と六ペンスやデミアンを読み、悪や美について考えることもあった。ぼくにできることといえば、洋楽ロックのCDを持ってきて、一緒に聞くことと、ぶちねこの話を聞くことくらいだった。
 ぶちねこの部屋は、下の住人にさえ気をつけていればだれの目も気にしなくていいので、居心地がよかった。
 その文化住宅のある場所は、四方を住宅に囲まれた旗竿地になっていて、上から見ると、まるでスーパーで買ったお寿司についてくる、赤いキャップの醤油差しのような形をしていた。
 地図看板は、散髪屋のとなりのガレージのフェンスに掲げられてい、ぼくたちはその前で足を止めた。その醤油差しは、四軒の住宅をあらわす二列二行のグリッドの真ん中をくり抜くように、キャップを右にして描かれていた。路地は描かれていなかった。ぶちねこの父親の、ぶちねこを隠したいという心理がここによくあらわれていると想像して、なにもいわないでいることもできたかも知れなかった。けれどもぼくは、「おまえん家、醤油差しみたいやな。」といった。ぶちねこは微笑んで、「ほんまや。」といった。それでよかった。

著者付記:
 ネットなどで調べてみると、「文化住宅」というのは近畿地方特有の呼び方のようであるので、ここで説明すると、文化住宅とは、木造モルタル二階建ての集合住宅のことであり、もっぱら高度経済成長期に建てられたそうである。日常では、たんに「文化」と呼ばれることも多かった。長屋然としているにも関わらず、各戸にトイレや台所が備えられていたのが、当時としては

であったらしい。
「ぶちねこについて」で登場する文化住宅は、周囲にモダンな邸宅が次々と建つなかに取り残された、冴えない例の一つであるが、わたしの友人のはなしによると、この文化住宅はすでに取り壊されている。
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