蒼に舞い

文字数 2,000文字

 あれは、新緑が香る風の吹く午後のことだった。
 子供時代は、入退院を繰り返していて一人では外出もままならない環境だった。古くて狭いアパートの二階の部屋で一日中過ごすボクのために、母が無理してベッドを買ってくれた。ボクの唯一の世界である薄暗い部屋の窓際に置かれたベッドには、夕方の一瞬だけ斜体のかかった四角い光が差し込む時間があった。
 その日も自由にならない体を起こし、窓を開けオレンジ色の別世界を覗き見ていた。そんな時、開けていた窓からなにかが飛び込んできた。
 それはバタバタと羽ばたいて部屋を飛び回っている。長く伸ばされた蛍光灯のスイッチを引っ張り灯りをつけた。
 光に照らされた姿は、体は灰色で黒い頭に頬は白く、ピンクのくちばしが目を引いた。子供のボクには、名前はわからなかったけれど、羽ばたき疲れてベッドのフレームに止まった姿は純粋にかわいいと思った。外に逃げようとするわけでもなく、小首をかしげながらこちらを見ていると思ったら、羽を広げてボクの肩に乗った。驚いて身を固くしたボクは転けてしまわないように右手をついた。
「おまえ、だいじょうぶなの?」
 と小声で囁いてみても、気にする様子もなく顔の横で毛繕いをはじめている。薄手のシャツからチクチクとする爪を気にしながらキミの様子を窺って1時間くらいの時が過ぎた。そうしているうちに母親が仕事から帰ってきた。母に事情を説明して左肩を向けてキミを見せた。
「文鳥って言うのよ、その子。で、気に入られてるみたいだけどどうしたいの?」」
母はボクの返事はもうたぶんわかっている。
「一緒にいたい。もう友達だし」
「仕方ないわねぇ。あなたには難しい事もあるだろうけどなるべく優しくしてあげるんですよ」
 母は、昼間一人で留守番をさせていることに対する贖罪の気持ちもあったのかもしれない。その晩は、急ごしらえの段ボール製鳥籠に入ってもらった。今となってはどうして付けたのかは覚えていないが『ロコ』という名になった。
 次の日、母は「少し早い誕生日プレゼントの代わりよ」と言ってペットショップで鳥籠と餌を買ってきてくれた。ロコを入れてやると、止まり木やブランコに乗って新しい家の感触を確かめて、最後に巣箱に落ち着いた。
 その日から、ボクの目に映る灰色一色だった部屋が違う色に満ちていくように見えた。朝食が終わるとロコは早く外に出してくれと言わんばかりに、ゲージの入り口の戸をくちばしでガタガタと揺らした。ロコの希望通り外に出してやると、体を膨らませて身震いしたあと肩に留まって毛繕いをはじめた。ボクは母に手伝ってもらいゲージの掃除をして新しい餌と水をいれた。
 母が仕事に出てしまうと、安心したかのように台所の方に翔んでいき初めての冒険旅行を楽しんでいるかのようだった。その自由さに寂しさを覚えてボクは
「ねぇ、ロコ」
 と手を伸ばし小さく名前を呼ぶと、姿の見えていなかったロコはパタパタと羽音をさせてこわばったボクの手に戻った。それからは、ボクの話に小首をかしげたり口にくちばしを突っ込んだりして相手をしてくれた。ゲージの扉は、洗濯ばさみで止めて開けたままの状態にしてやると、ロコは自由に餌を食べ水を飲んでボクのそばに帰ってきてくれた。
 それから穏やかな日々が流れていった。そんな中、ロコが一番喜んだのは水浴びだった。ロコを背中に乗せて床を這いずりながら風呂場に行く。溺れないように洗面器1センチくらい水を張りロコに告げる。
「どうぞ」
 ロコはいったん洗面器の縁に留まり、「さあ行くよ」とボクに視線を送って勢いよく水に飛び込む。大きく羽を広げて盛大に水しぶきを上げる。そしてボクはタオルを手のひらに広げロコを呼ぶ。
「さあ、おいで」
 少し心残りな表情を見せて、ブルブルと体を震わせてからロコは丸くした手のひらのタオルに潜り込む。タオルに包み込むようにして頭から背中を撫でてやると、首を縮めて気持ちよさそうに目を閉じる。しあわせの気持ちがボクの心を満たしてゆく。
 心の安定が、体調にも現れて数年の間、ロコとの楽しい日々が続いた。しかし、秋というのに急に冷え込んだ日に体調を崩して入院せざるを得なくなってしまった。
「元気になって退院できれば、またロコと遊べるようになるよ」
 ロコに会えないのは辛かったけれど、母にロコを頼んで入院を受け入れた。自分の気持ちとは裏腹に体調は回復せず、木枯らしに落ち葉が舞い踊る季節になってしまっていた。
 寒さで曇った窓から青空が見える朝、突然、母が白いハンカチに小石のように動かなくなったロコを連れてきた。やわらかい羽に包まれたロコの体は生きているかのように暖かかったのを数十年たった今でもはっきりと覚えている。
 今もボクは病院の窓際のベットに横たわり、あの蒼い空を自由に飛び回っているであろうロコを探している。
「もう少しだよ。キミと一緒に飛べる日は」 
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