虚構の隧道

文字数 1,880文字

 私はついに意を決して、生い茂った自然の先に佇む人工的な管――トンネルの中へと入り込んだ。半円状に切り取られたそれはコンクリートに類似した見た目をしていて、長らく手入れをされていなかった証拠を示すかのように(ひび)割れと雨垂れで崩れかけている。先まで灯されていなかったはずの不規則に配置されたナトリウムランプがチカチカパッパと迎え入れ、私は不思議な気持ちのまま、無骨な一直線を歩かされていた。
 視界に入り込むものは、青空のようで、夕空のようで、夜空のような世界。柔らかな光に向かって小鳥が囀り、淋しげに伸びる影の上でカラスが飛んだ。埋もれた闇の一面にキラキラと硝子のような輝きを貼り付けると、帳が再び開いて、始めの光と共に朝を迎える。その道は私が送る怠惰な日常を暇潰しのタイムラプス動画のように目まぐるしく展開していった。
 しかし、暫くするとその道は大洪水に見舞われたかのように、壁から吹き出した大量の水に覆われて、海のような姿に様変わりしてしまう。それなのに私は息ができなくなることに恐怖を覚えることもなく、その事象を受け入れて大海を彷徨ってゆく。
 数多の魚が泳ぐ道は、時に海藻が生い茂り、珊瑚が突き出してきたかと思えば、漆黒に染まった水底からテンテンと光を明滅させるチョウチンアンコウがその身を曝け出す。彼女はこちらに視線を向けながら渦巻く黒煙の奥へと静かに消えてゆき、それからの数刻は深海の不思議な名も無き生物達の営みが青光りする砂の中で映し出されていた。
 そして、私は緩やかな水流に飲まれたまま、海底に背中を向けて背泳ぎのような体勢へと変える。その上面には遥か遠くに映る光と揺蕩い泳ぐザトウクジラが投影されていて、ホワア、ホワア、キューイ、キュイキュイ――と、高い低いの音を繰り返す歌を奏でていた。それはボコボコと繰り返す水の音と相性が良く、自然と眠りを誘ってくる。管の終わりは未だ見えず、私はこのまま一眠りしてしまおうかと考えた。
 だが、安らかな眠りは許されず、私は地面に背を向けたまま、ボテンと砂の山に落とされてしまった。急いで立ち上がると、そこには打って変わって、灼熱の大地とも呼べそうな砂漠が広がっている。天辺にはギラギラとした太陽が居座ってこちらを睨み付けていたが、その熱が私の身体に届くことはない。それを確認した私は、時折ポコポコと現れるヘンテコな形のサボテンを横目に、サクリ、サクリ、と音を立てながら歩き続けた。
 すると、光に反射する小さく丸い石英の束が、白く、白く、ただ白く、ザクリと確かな色味へと染まってゆく。いつしか管の中は〝広大な砂漠〟から〝真冬の雪景色〟へと変貌を遂げていて、私は少しばかり切なくなってしまった。私が好きな春と秋はいつだって短いものである。
 なんてことはない、ちょっとしたセンチメンタル。そんな些細な感傷さえも読み取られる管の中では、真冬の景色に花弁と枯葉の混ざった奇妙な微風(そよかぜ)が舞い込んでいる。私は『そういうことではないんだけどな』とクスリと笑いながらも、この異質な空間に魅了されてゆく自分に少しだけ嬉しくなった。
 あの時に行きたかった場所、見たかった風景、聞きたかった音色。どれだけ願おうと、その全てが叶うわけではない。それがこの管の中で完結してしまうだなんて、これほど嬉しいことはないじゃあないか。強いて言うならば、それを

さえできれば最高だったのだが――いや、こればかりは自身の心持ち次第なのかもしれない。
 それからも、私は紺碧の海岸と緑豊かな山々を眺めて、お洒落なショーケースを横切り、静かな路地を抜けると、綿飴のような雲の上を歩いて、空を飛んだ。夢にまで見た万物の視点。まるで自身が神になったかのような傲慢さで、映し出される情景を闊歩する。
 そう――この世界での〝私〟とは、

であって、

であり、

であれど、

である。この管の中であれば、私はなんにだってなれてしまう。ああ、楽しい。これこそが私の求めていた世界!
 しかし、始まりがあれば終わりも必ず来るものだ。管は徐々に〝終わり〟の文字をギラギラとしたネオン管に浮かび上がらせて、私を出口へと誘導してゆく。名残惜しくも去ったそこを振り返ると、やはり目前には半円状に切り取られた古びたトンネルだけが佇んでいた。
 私は『ふう』と息を吐いて、少しばかり大きめだった眼鏡をカチャリと外す。虚構の隧道(ずいどう)は、いつだって私の心に楔を残して消えてしまう。
 どうか、また〝あの時の奇跡〟に出会えますように――そう呟きながら、私はモニターの電源をブツリと消した。
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