タン、タッタ。タン、タッタ。
文字数 5,239文字
駆け足がもう、ワルツのリズムなんですよ。
「助けてマリィ! 消えちゃう! ほくろだけしか残ってないの!」
って飛び込んでくるんです。色を失って、ほくろだけが浮かんでいる姿になっても、私にはわかりました。すーっとアウラが背筋を駆け上がるんです。
素敵だよ、結羽。ユウハ。本当はユーファ。絶えず美しい。透明人間になっても損なわれないんですから、大変な感動でしたね。
ドットできゅっと浮かび上がる輪郭。口元のオリオンも、喉元の牽牛 も、うなじの織女 も紛れもなく結羽そのもの。写真の一つも残っていないのが恨めしい。
結羽の魅力は聞こえない音のような、感じない匂いのような、まるで意識の外からやってくようで。
出会いは雨の強い日でしたね。子供だった私は、スキップしながら水たまりを飛び越えていたんです。二本の足で、ぽーん、ぽーんと。そしたら自宅の前で派手に転んでしまって。
仰向けにすってんと。
びっしょり濡れて、楽しい気分は吹き飛んでしまいました。ああ、いやだ、と思った次の瞬間、
「だいじょうぶ?」
と声をかけられると同時に、得体の知れないものを感じた私は身を固くしました。
そっと声の主を探して、
「あっ!」
と思わず声を上げました。
逆さまの天地を仰ぐと、不思議な女の子が立っていたんです。冷ややかな感覚はすぐに吹き飛んでしまいました。
私は今も結羽に夢中です。
猫舌で、冷たいお水がなによりも好き。夏も終わるころ、肌寒い海。真っ青になった私の隣で、結羽の唇は白く、肌は輝いているかのように澄んでいました。
性格はお天気よりも気まぐれ。
気分しだいで、大きな木々に囲まれた家から出てこなくなるんです。だからといって、誰も咎めたりしません。
結羽はなにもかも特別なのです。
目はぱっちりとして、雨粒よりもしっとりと輝いていました。どうも、この世のものとは思えない魅力があるんです。二本の足で、ワルツを奏でるのですから。
アジアの端っこにある国の出身だなんて、なんの説明にもなっていませんでした。
そしてこの謎には、ちゃんとした答えがあるんです。
先ほどちらりと言ったように、結羽のからだには度々異変が起きていたんですよ。
起きていた、ではなく、引き起こされていた、の方が正確ですね。
というのも、彼女の父親が発明家だったんです。それも、ほとんど趣味の領域で。
市井の発明家なんて、たかが知れていますでしょう? 実際、役に立つものなんかほとんどないんです。妻、つまり結羽のお母さんがやり手の弁護士で、便利グッズを商品化したり、特許を取ったりして、暮らしむきはとても良さそうでしたねぇ。
自宅が研究所だったので、家には試作品があふれていました。しかも、博士は自分のからだで試すんです。美容ローラーをコロコロするくらいならいいですよ。怪しげな薬品も平気で飲んじゃうんです。一息にごくんと! さらには結羽や飼い犬のピープ、時には私も標的になりました。信じられます?
ご心配なく。これが博士のすごいところ。薬の効果は数時間で消えてしまうんです。綺麗さっぱり。後遺症だって残りません。からだが透明になってしまったーーなぜかほくろだけは見えるーー結羽も数十分後には無事に元通りです。
ただね、不思議なことに、私にはどんな薬も効かないんですよ。
あの時、私を出迎えたのはほくろと洋服だけになった結羽だけじゃなかったんです。待ってましたとばかりに、博士がさっと姿をあらわすやいなや、水鉄砲でぴゅーっと。あっ、と私はかわそうとしました。博士は抜け目なく足元を濡らしにかかってくるんですから、慣れたもんです。
「やったぞ!」
って、子供みたいに喜んで。
私の右足を濡らしましてね。結羽相手なら、その量で十分なのでしょう。いつものように、私にはなんの変化も見られませんでした。
博士自身には効くんですよ。ある時なんかは三十センチにも満たない小人の姿で現れて、私は絶叫してしまいました。よく見れば、そばには十五センチくらいの結羽がいて、かわいさにうっとりしたりと、とにかく驚きがつきないんです。
最初は血筋だと思っていました。ただ、結羽のお母さん、ヒロコさんも薬が効くんです。それも一番。
さすがに伴侶であるヒロコさんは博士の魔の手を逃れるのがうまくて。こう、ひらりとかわすんじゃなくて、すっと。自然に進路を変えて、なにごともなかったかのように。見事でした。とてもいい人なんですが、近寄り難いくらいに完璧な人です。
当然のように、ヒロコさんは透明人間になる薬も浴びずにいました。でも、薬をかけられたピープを拭こうとした際に、ピープがぶるぶるとからだを揺さぶったものだから、タオルで防ぎきれずに、雫がかかってしまったんです。すると、頬がさあっと五センチほど消えたんです。暗く濁った色になったので、ぽっかりと穴が空いたかのようでした。
その頃の私はまだ、偶然だと思っていました。むしろ私が変わっていると。薬が効かないのは私とピープだけ。でも、博士はそこで諦めてしまうんです。研究をきっぱりとやめて、新しい研究に取り掛かるんですよ。安全に透明人間になれる薬を作ったのに、ですよ? 未完成とはいえ、こんな大発明を捨ててしまえるなんて。
すとんと小人とになったかと思ったら、どーんと元のサイズに戻れる薬なんて、夢のようでしょう? 他にもふわっとからだを浮かせる薬や、びゅんびゅん風を切って走れるようになる薬だって作ってたんです。
「天才だ!」
って私もはしゃいでいましたよ。わくわくするじゃないですか。けどね、私に試して効かないとなると、博士はふいっと研究を止めてしまう。子供心になんだか申し訳なくなって、博士から逃げ回るようになりました。一方で、この発明は軽々しく誰かに教えてはいけないことだってわかりましたから、結羽と秘密を共有する関係を好ましく思っていたんです。
顔を見合わせて、お互いの唇に人差し指を当てれば、自然と笑顔になりました。
友達。と、も、だ、ち。なんて甘美な響きでしょう。
そろそろ話が見えてきましたね。
私はある仮説にたどり着いたんです。
薬にすごい力があったのではなく、結羽ファミリーになにかあると。
たとえば、反応性の高い生物に大きな変化をもたらしているとしたら?
人間が伸び縮みしたら、間違いなく怪我だらけになって、死んでしまってもおかしくありません。元々変形するようにできているからこそ、平気だったのではないかしら。
子供らしい妄想ですね。当時の私は思春期真っ盛りでした。でも、こんなファンタジーが現実のものとして存在していたんです。
私は確信しました。ずばり、宇宙人であると!
簡単な算数です。
ヒロコさんは宇宙人で、博士は人間と宇宙人のハーフ。したがって結羽はクオーター。頭の中でパチリとピースがはまりました。
宇宙へ出て、未知の星へ降り立つなら、重力や大気の違いは無視できません。優れた適応能力や回復力を備えている方が望ましいのではないでしょうか。宇宙服に拘らず、からだそのものが丈夫な方が良いに決まっています。そう考えると、ほくろだけが変化しないのにも訳があるはずです。あれは非生物で、観測装置や通信機だとしたら!
ほんと、荒唐無稽。
ねえ、あなたは、宇宙人も神様を信じているとお思い?
私は確信しているの。神様という概念を捨てることはできないと。
昔々、地球の話です。ある賢い人は考えました。もしも異星人がいるのなら、どうして星々は沈黙しているのか。
人類は孤独でした。
宇宙はあまりに広くて。
どこかにいるかもしれない隣人は、おしゃべりするにはあまりに遠くにいるのです。
そして人類は、自ら宇宙人の祖となったのです。
地球を離れて幾星霜。私たちテルス人は地球に囚われたままです。地球にいた頃と同じ物語を星空に求めるのもその一例です。私が聴くことのできるショパンのワルツは、地球のものとは別物でしょう。
地球人が最初に作り上げた街、ニューニューヨーク。
半ば冗談でつけられた名は、歴史が繰り返すことを知らしめました。
地球を本拠地とし、各国が牽制しながらの植民の果てに、独立騒動が勃発し、内乱も相次ぎました。
遠すぎて、星間戦争にまでは至りませんでしたが、長きにわたる国交断絶は、物理的なルートを取り返しがつかないほどに損なってしまいました。整備不良が続いた加速ゲートは崩壊し、地球への通信網も破断してしまったんです。
その結果、テルス人の生活は、地球暦でいう二十世紀レベルにまで戻っていきました。
幸か不幸か、地球よりも安定した気候が見込める私たちには十分でした。
なぜなら、かつての地球人よりも病気になりにくいからだだからです。私たちの祖先は、新天地に適応しやすいように遺伝子を操作されていたんです。
テルスの古名が地球であると思っている方も少なくありません。ガイアもびっくりですね。
テルスはまるでエデンの園。
気性の穏やかな人間しかいません。先の戦争と内乱は地球から持ち込まれたものでした。環境も安定しています。遺伝子をコントロールされた動植物しか存在していないのです。太陽も改良済みです。智慧の実に手を伸ばせば、安寧は破られてしまうでしょう。
このデザイナーズプラネットには、至る所に地球の文明がコピーされています。
パンテオンがあり、コロルナ礼拝堂があり、ル・ランシーの教会があります。
これは歴史を伝えるモニュメントではありません。
人のからだに刻まれた神様を感じるシステムの妙を体感する場なのです。
神聖さという恐怖にも似たシグナル。
私は結羽に神様の御業を感じていました。
袂をわかってからどれくらいの時が流れたのでしょう。
その間に、地球人は神様の座に肉薄していたのです。
地球人はテルスを見守ってくださっているのです。
ヒロコさんは調査に来ていたのでした。
そして、彼らは新たな星へと。
月が一つも見えない夜、結羽たちは旅立ちました。
まあ、どうやって?
博士が宇宙船を建造していた?
いいえ。
地球から迎えが来た?
違いますよ。
さあ、考えましょう。
宇宙へ行く手段は一つではありません。目の覚めるようなエネルギーで、重力を振り切るだけが別れの儀式ではないんですよ。
風船で浮かび上がるんです。子供のような空想ですね。現実はもう少し風変わり。細くしなやかな髪が、ふわりふわりと変質していきます。洋服もからだの一部ですから、こちらにも風船が芽吹きます。
元は同じ人間同士。
結羽の手を取って、私は願いました。
「私も変えてほしい」
地上で息をしていた人間を、生身のまま宇宙へと送り出せるんです。
私のからだを作りかえることなど、本当は簡単なのではないでしょうか。
結羽の表情が、刻々と変化していきます。
「マリィとの出会いからずっと、試し続けてきたの。でも、テルス星人の遺伝子は強固だった。修復機構に手を入れようとすると、アポトーシスが引き起こされてしまうの。エラーから集団を守るための編集ね。生殖レベルで融合しないと変異させることはできないの」
「私の子供なら、連れて行ってもらえるのね?」
「連れて行くことはできない」
「連れて行くことは、できないのね?」
結羽が吹き出しました。結羽の笑顔が見られて私も笑顔になります。
「おじさんとおばさんがびっくりするよ」
「いいの。私の名前はマリィだもの」
抱きしめ合う間にも、結羽の体温が失われていきました。いえ、そうではなく、からだと外界が遮断されたんです。
膨らんだ毛先が、空気よりも軽い気体に満たされていきます。
浮き上がるよりも早く、風船に隔てられて、そっと手を離しました。
白い風船に包まれて、結羽は天界へと帰っていきました。
これが事実です。
だから、あなたの父親はいないの。
父親は神様だと周りの人が言うのも、あながち嘘ではないんです。
創造主を考える時、人間はもっと自由であってもよいのですよ。
とはいえあなたはテルス育ち。テルス人以外を知らないのです。すぐには信じることができないでしょう。
でも、あなたの子孫は、確かめることができるはず。
惑星や恒星を手懐けても、膨張する宇宙自体にはまだ、手を入れていません。エントロピーは増大し、必ずや綻びが生じ、テルスにも厄災が降りかかります。
その時、地球人が助けに来てくださるでしょう。
私たちは、良き隣人に恵まれたのです。
地球人は時空を歪め、光よりも速く遠くへ行くことができると、結羽は教えてくれました。
それはつまり、私たちが死んだ後も、生きている私たちの姿を見ることができるということです。
なんという幸せ。
だから泣かないで。
三拍子の瞬きを見逃してしまうわ。
寂しくなったら、星の時間で考えるのです。
私たちには聞こえませんが、確かに星々は歌っているのですよ。
「助けてマリィ! 消えちゃう! ほくろだけしか残ってないの!」
って飛び込んでくるんです。色を失って、ほくろだけが浮かんでいる姿になっても、私にはわかりました。すーっとアウラが背筋を駆け上がるんです。
素敵だよ、結羽。ユウハ。本当はユーファ。絶えず美しい。透明人間になっても損なわれないんですから、大変な感動でしたね。
ドットできゅっと浮かび上がる輪郭。口元のオリオンも、喉元の
結羽の魅力は聞こえない音のような、感じない匂いのような、まるで意識の外からやってくようで。
出会いは雨の強い日でしたね。子供だった私は、スキップしながら水たまりを飛び越えていたんです。二本の足で、ぽーん、ぽーんと。そしたら自宅の前で派手に転んでしまって。
仰向けにすってんと。
びっしょり濡れて、楽しい気分は吹き飛んでしまいました。ああ、いやだ、と思った次の瞬間、
「だいじょうぶ?」
と声をかけられると同時に、得体の知れないものを感じた私は身を固くしました。
そっと声の主を探して、
「あっ!」
と思わず声を上げました。
逆さまの天地を仰ぐと、不思議な女の子が立っていたんです。冷ややかな感覚はすぐに吹き飛んでしまいました。
私は今も結羽に夢中です。
猫舌で、冷たいお水がなによりも好き。夏も終わるころ、肌寒い海。真っ青になった私の隣で、結羽の唇は白く、肌は輝いているかのように澄んでいました。
性格はお天気よりも気まぐれ。
気分しだいで、大きな木々に囲まれた家から出てこなくなるんです。だからといって、誰も咎めたりしません。
結羽はなにもかも特別なのです。
目はぱっちりとして、雨粒よりもしっとりと輝いていました。どうも、この世のものとは思えない魅力があるんです。二本の足で、ワルツを奏でるのですから。
アジアの端っこにある国の出身だなんて、なんの説明にもなっていませんでした。
そしてこの謎には、ちゃんとした答えがあるんです。
先ほどちらりと言ったように、結羽のからだには度々異変が起きていたんですよ。
起きていた、ではなく、引き起こされていた、の方が正確ですね。
というのも、彼女の父親が発明家だったんです。それも、ほとんど趣味の領域で。
市井の発明家なんて、たかが知れていますでしょう? 実際、役に立つものなんかほとんどないんです。妻、つまり結羽のお母さんがやり手の弁護士で、便利グッズを商品化したり、特許を取ったりして、暮らしむきはとても良さそうでしたねぇ。
自宅が研究所だったので、家には試作品があふれていました。しかも、博士は自分のからだで試すんです。美容ローラーをコロコロするくらいならいいですよ。怪しげな薬品も平気で飲んじゃうんです。一息にごくんと! さらには結羽や飼い犬のピープ、時には私も標的になりました。信じられます?
ご心配なく。これが博士のすごいところ。薬の効果は数時間で消えてしまうんです。綺麗さっぱり。後遺症だって残りません。からだが透明になってしまったーーなぜかほくろだけは見えるーー結羽も数十分後には無事に元通りです。
ただね、不思議なことに、私にはどんな薬も効かないんですよ。
あの時、私を出迎えたのはほくろと洋服だけになった結羽だけじゃなかったんです。待ってましたとばかりに、博士がさっと姿をあらわすやいなや、水鉄砲でぴゅーっと。あっ、と私はかわそうとしました。博士は抜け目なく足元を濡らしにかかってくるんですから、慣れたもんです。
「やったぞ!」
って、子供みたいに喜んで。
私の右足を濡らしましてね。結羽相手なら、その量で十分なのでしょう。いつものように、私にはなんの変化も見られませんでした。
博士自身には効くんですよ。ある時なんかは三十センチにも満たない小人の姿で現れて、私は絶叫してしまいました。よく見れば、そばには十五センチくらいの結羽がいて、かわいさにうっとりしたりと、とにかく驚きがつきないんです。
最初は血筋だと思っていました。ただ、結羽のお母さん、ヒロコさんも薬が効くんです。それも一番。
さすがに伴侶であるヒロコさんは博士の魔の手を逃れるのがうまくて。こう、ひらりとかわすんじゃなくて、すっと。自然に進路を変えて、なにごともなかったかのように。見事でした。とてもいい人なんですが、近寄り難いくらいに完璧な人です。
当然のように、ヒロコさんは透明人間になる薬も浴びずにいました。でも、薬をかけられたピープを拭こうとした際に、ピープがぶるぶるとからだを揺さぶったものだから、タオルで防ぎきれずに、雫がかかってしまったんです。すると、頬がさあっと五センチほど消えたんです。暗く濁った色になったので、ぽっかりと穴が空いたかのようでした。
その頃の私はまだ、偶然だと思っていました。むしろ私が変わっていると。薬が効かないのは私とピープだけ。でも、博士はそこで諦めてしまうんです。研究をきっぱりとやめて、新しい研究に取り掛かるんですよ。安全に透明人間になれる薬を作ったのに、ですよ? 未完成とはいえ、こんな大発明を捨ててしまえるなんて。
すとんと小人とになったかと思ったら、どーんと元のサイズに戻れる薬なんて、夢のようでしょう? 他にもふわっとからだを浮かせる薬や、びゅんびゅん風を切って走れるようになる薬だって作ってたんです。
「天才だ!」
って私もはしゃいでいましたよ。わくわくするじゃないですか。けどね、私に試して効かないとなると、博士はふいっと研究を止めてしまう。子供心になんだか申し訳なくなって、博士から逃げ回るようになりました。一方で、この発明は軽々しく誰かに教えてはいけないことだってわかりましたから、結羽と秘密を共有する関係を好ましく思っていたんです。
顔を見合わせて、お互いの唇に人差し指を当てれば、自然と笑顔になりました。
友達。と、も、だ、ち。なんて甘美な響きでしょう。
そろそろ話が見えてきましたね。
私はある仮説にたどり着いたんです。
薬にすごい力があったのではなく、結羽ファミリーになにかあると。
たとえば、反応性の高い生物に大きな変化をもたらしているとしたら?
人間が伸び縮みしたら、間違いなく怪我だらけになって、死んでしまってもおかしくありません。元々変形するようにできているからこそ、平気だったのではないかしら。
子供らしい妄想ですね。当時の私は思春期真っ盛りでした。でも、こんなファンタジーが現実のものとして存在していたんです。
私は確信しました。ずばり、宇宙人であると!
簡単な算数です。
ヒロコさんは宇宙人で、博士は人間と宇宙人のハーフ。したがって結羽はクオーター。頭の中でパチリとピースがはまりました。
宇宙へ出て、未知の星へ降り立つなら、重力や大気の違いは無視できません。優れた適応能力や回復力を備えている方が望ましいのではないでしょうか。宇宙服に拘らず、からだそのものが丈夫な方が良いに決まっています。そう考えると、ほくろだけが変化しないのにも訳があるはずです。あれは非生物で、観測装置や通信機だとしたら!
ほんと、荒唐無稽。
ねえ、あなたは、宇宙人も神様を信じているとお思い?
私は確信しているの。神様という概念を捨てることはできないと。
昔々、地球の話です。ある賢い人は考えました。もしも異星人がいるのなら、どうして星々は沈黙しているのか。
人類は孤独でした。
宇宙はあまりに広くて。
どこかにいるかもしれない隣人は、おしゃべりするにはあまりに遠くにいるのです。
そして人類は、自ら宇宙人の祖となったのです。
地球を離れて幾星霜。私たちテルス人は地球に囚われたままです。地球にいた頃と同じ物語を星空に求めるのもその一例です。私が聴くことのできるショパンのワルツは、地球のものとは別物でしょう。
地球人が最初に作り上げた街、ニューニューヨーク。
半ば冗談でつけられた名は、歴史が繰り返すことを知らしめました。
地球を本拠地とし、各国が牽制しながらの植民の果てに、独立騒動が勃発し、内乱も相次ぎました。
遠すぎて、星間戦争にまでは至りませんでしたが、長きにわたる国交断絶は、物理的なルートを取り返しがつかないほどに損なってしまいました。整備不良が続いた加速ゲートは崩壊し、地球への通信網も破断してしまったんです。
その結果、テルス人の生活は、地球暦でいう二十世紀レベルにまで戻っていきました。
幸か不幸か、地球よりも安定した気候が見込める私たちには十分でした。
なぜなら、かつての地球人よりも病気になりにくいからだだからです。私たちの祖先は、新天地に適応しやすいように遺伝子を操作されていたんです。
テルスの古名が地球であると思っている方も少なくありません。ガイアもびっくりですね。
テルスはまるでエデンの園。
気性の穏やかな人間しかいません。先の戦争と内乱は地球から持ち込まれたものでした。環境も安定しています。遺伝子をコントロールされた動植物しか存在していないのです。太陽も改良済みです。智慧の実に手を伸ばせば、安寧は破られてしまうでしょう。
このデザイナーズプラネットには、至る所に地球の文明がコピーされています。
パンテオンがあり、コロルナ礼拝堂があり、ル・ランシーの教会があります。
これは歴史を伝えるモニュメントではありません。
人のからだに刻まれた神様を感じるシステムの妙を体感する場なのです。
神聖さという恐怖にも似たシグナル。
私は結羽に神様の御業を感じていました。
袂をわかってからどれくらいの時が流れたのでしょう。
その間に、地球人は神様の座に肉薄していたのです。
地球人はテルスを見守ってくださっているのです。
ヒロコさんは調査に来ていたのでした。
そして、彼らは新たな星へと。
月が一つも見えない夜、結羽たちは旅立ちました。
まあ、どうやって?
博士が宇宙船を建造していた?
いいえ。
地球から迎えが来た?
違いますよ。
さあ、考えましょう。
宇宙へ行く手段は一つではありません。目の覚めるようなエネルギーで、重力を振り切るだけが別れの儀式ではないんですよ。
風船で浮かび上がるんです。子供のような空想ですね。現実はもう少し風変わり。細くしなやかな髪が、ふわりふわりと変質していきます。洋服もからだの一部ですから、こちらにも風船が芽吹きます。
元は同じ人間同士。
結羽の手を取って、私は願いました。
「私も変えてほしい」
地上で息をしていた人間を、生身のまま宇宙へと送り出せるんです。
私のからだを作りかえることなど、本当は簡単なのではないでしょうか。
結羽の表情が、刻々と変化していきます。
「マリィとの出会いからずっと、試し続けてきたの。でも、テルス星人の遺伝子は強固だった。修復機構に手を入れようとすると、アポトーシスが引き起こされてしまうの。エラーから集団を守るための編集ね。生殖レベルで融合しないと変異させることはできないの」
「私の子供なら、連れて行ってもらえるのね?」
「連れて行くことはできない」
「連れて行くことは、できないのね?」
結羽が吹き出しました。結羽の笑顔が見られて私も笑顔になります。
「おじさんとおばさんがびっくりするよ」
「いいの。私の名前はマリィだもの」
抱きしめ合う間にも、結羽の体温が失われていきました。いえ、そうではなく、からだと外界が遮断されたんです。
膨らんだ毛先が、空気よりも軽い気体に満たされていきます。
浮き上がるよりも早く、風船に隔てられて、そっと手を離しました。
白い風船に包まれて、結羽は天界へと帰っていきました。
これが事実です。
だから、あなたの父親はいないの。
父親は神様だと周りの人が言うのも、あながち嘘ではないんです。
創造主を考える時、人間はもっと自由であってもよいのですよ。
とはいえあなたはテルス育ち。テルス人以外を知らないのです。すぐには信じることができないでしょう。
でも、あなたの子孫は、確かめることができるはず。
惑星や恒星を手懐けても、膨張する宇宙自体にはまだ、手を入れていません。エントロピーは増大し、必ずや綻びが生じ、テルスにも厄災が降りかかります。
その時、地球人が助けに来てくださるでしょう。
私たちは、良き隣人に恵まれたのです。
地球人は時空を歪め、光よりも速く遠くへ行くことができると、結羽は教えてくれました。
それはつまり、私たちが死んだ後も、生きている私たちの姿を見ることができるということです。
なんという幸せ。
だから泣かないで。
三拍子の瞬きを見逃してしまうわ。
寂しくなったら、星の時間で考えるのです。
私たちには聞こえませんが、確かに星々は歌っているのですよ。