花言葉

文字数 1,877文字

 セリの花言葉は「清廉で潔白」。おしとやかで可憐な女の子に育ってね———

 放課後の静かな教室。私、多田芹香はくっついては落ちていく窓ガラスの水滴を横目に、窓際で本を読んでいた。一匹の猫の自伝。内容は難しく、私にはまだ早かったかもしれない。ただ、私はその本から目が離せずにいた……。
 そんな私には目もくれず、廊下でギャアギャアと喚いている声が私の澄んだ読書体験の邪魔をする。読んでいる本の文字が滑るのも彼女が原因かもしれない。そんな騒音の発生源にも東条なずなという立派な名前がある。ナズナの花言葉は「あなたに私のすべてを捧げます」。彼女におおよそ似つかわしくない名前だ。

 そんなことを考えていると、やっと彼女は一人でいる私に気が付いたのか、廊下は一瞬静まり返った。だが、安寧の時もつかの間、彼女は私の半径50cmのプライベートスペースにずけずけと入り込み、本に視線を落とす私に顔を近づけてこういった。
「芹香ちゃん、今日は何読んでるの?面白い?」
 何を気に入られたのか知らないが、ここのところ彼女はずっと私に構ってくる。その度私は不服ながら曖昧な返事をして受け流す。
「……うん、まあ、おもしろいよ」
「え、どこがどこが?教えてよ!うちが最近読んだ本だと……」
そういって彼女は私の傍で延々と彼女の好きな小説や漫画、アクセサリーなどをペラペラと喋りだす。
 いつもそうだ。普段なら耐え忍ぶようなところだが、今は幸い周りに誰もいない。このままこの関係を続けて、中学校生活を雑音まみれで過ごすのはまっぴらなので、私は意を決して言うことにした。
「……うるさいからちょっと静かにして!」
「え?ああ、ごめん、つい喋りすぎちゃって……。」
「ナズナなんて素敵な名前なんだから、そんな自分勝手じゃなくて、周りのことも考えて生活した方がいいよ。」
「ごめん、ありがとう……え、名前……?なんで名前が素敵だったら周りのこと考えなきゃいけないの?」

 彼女が急に見せた困惑に、私の方が困惑した。
「前に自分で話してたじゃん、名前の由来」
「ああ、うちが生まれたときに咲いてたナズナの花言葉から取ったっていう……ちゃんと話聞いててくれたんだ」
「忘れるわけないじゃん。これからはその名前に相応しい振る舞いをしなよ。」
 この厄介者に釘を刺して遠ざけようとしただけなのだが、普段怒り慣れていないせいか、お小言を言ったみたいになってしまった。図々しく思われていないだろうか。そう思ってナズナちゃんの顔を見ると、やはり説教されている生徒のような不貞腐れた顔をしていた。

「でもさ、そういう芹香ちゃんはそんなふうに名前にふさわしい振る舞いをしてるの?」

「当たり前じゃん。」

 それにしても的を射ない質問だ。私に名付けられた名前。私のために名付けてくれた名前。だったらそれに応えて然るべきなのは当然じゃないか。お父さん、お母さん、友達、先生……みんな私の名前から連想される役割を期待する。
「だって、ジャイアンが人見知りだったり、しずかちゃんがいつも大声出してたりしたらおかしいよね。」
 この世のすべてには必然性があるのだ。万有引力があるからリンゴは木から落ち、勇者がいるから魔王が倒され、学校があるから勉強し、晴れているから外で遊び。
「セリの花言葉は『清廉で潔白』。だから私はそう振る舞ってるんじゃん。」

 ナズナちゃんは初めあっけにとられたような顔をして絶句していたが、やがて合点がいったかのように両手を合わせた。
「うち、ずっと気になってたんだよね。本を読んでる芹香ちゃんってずっと退屈そうで、どこか無理してるようで……どこが面白いのって聞いても答えてくんないし」
「何が言いたいの」
「今、芹香ちゃんがしたいことはなに?」
そんなこと決まっている。セリは清廉で潔白。物静かでおしとやか。そんなセリがしたいことと言えば……
「静かに本を読ませてよ」

「そういえば、窓際で本を読む芹香ちゃんって、しきりに窓の外を気にしてたよね。」
「それがどうしたの。」
「……もしかして、芹香ちゃんが本当にしたいのって!」
というや否や、ナズナちゃんは私の手を強引に引っ張って運動場へ連れ出した。

 その後、雨の中、身体を濡らしながらナズナちゃんは舞踏会のダンスを見よう見まねで一緒に踊らせようとしたり、急にかけっこを始めたり……はっきりいってムチャクチャだった。こんな身勝手で頓珍漢な人間に会ったのは初めてだ。私が本当にしたいことがこんなことだと思っているのか?
……でも、この時、私はなずなちゃんと初めて話した気がした。

 雨はまだ、降り続いている。
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