第1話

文字数 1,989文字

 悠太はパジャマ姿でタバコを吸っていた。真っ暗な中で、彼はマンションのベランダに一人でいるのだが、今日は雨なので洗濯物を干している家はないだろう。悠太はとにかく、ぼーっとする時間がほしいと願った。何も考えたくなかったのだ。
(子どもが出来た……か)
 悠太はタバコの先に灯るオレンジ色の光を見つめる。残念ながら、考えてしまうようだ。
(赤ちゃん……ね)
 喜ばしいことなのだろう。悠太は結婚して三年目だ。待望の子どもだ。きっと母さん達は間違いなく喜ぶだろう。
(佳苗だって……)
 妻の佳苗だって嬉しそうだったではないか。悠太は佳苗が嬉しそうに報告した時の顔を思い出す。自分と違って表情が豊かな人だなと思う。
(泣きそうな顔をしていたと思ったら、笑ってさ)
 一時間前のことだ。佳苗が突然、トイレの中で叫んだと思ったら、すぐに部屋に入ってきた。佳苗は涙目のまま、よく分からないスティック状の物体を見せた。そして、今度は笑顔になって報告してきたのだ。
「悠ちゃん! 線が!」
 何の線? という話だ。悠太は佳苗をソファに座らせ、落ち着かせると事の顛末を聞いたのだった。
(家族が増える……か)
 だが、こういう時に悠太はどういう反応をしていいのかわからなかった。わからなかったので、タイミングを見計らって、タバコを吸いに行った。
(別に、嫌だった訳じゃない)
 ただ、驚いただけだ。こういう時にどういう顔をすれば正しいのだろう。
(とりあえず、話を聞いたじゃないか)
 悠太は自分の役目はここで終わったと思った。妻の話を聞くこと、心配なので病院に付き添うために有休をとること。有給休暇は妻に却下された。
(病院に付き添わないなら、俺は何をすればいいのだろう)
 医者でもない俺は何をすればいいのだろうと悠太は途方に暮れている最中だった。だいたい、こういう時に感情が追い付かない。
(親が倒れても俺はこんな感じだったからな)
 母が倒れたときも、淡々と病院の先生の指示を仰いで、代わりに実家に着替えを取りにいってから、すぐに帰った。
「大丈夫? とか言えばいいのに」
 帰りの車の中で、助手席にいる佳苗からはそう言われたが、大丈夫? と聞いたところで病気が良くなるわけでもないし、そもそもダメだったら、母は会話ができる状態ではないだろう。
「はぁ……」
 悠太はタバコの煙をため息をつくように吐き出した。
(感情……ねぇ……)
 昔からこうだった。感情自体はあるのだが、すぐに言語化できるほど器用ではなかった。
(思い付くのは解決策ばかりだ)
 悲しいとか、そういったものは後からついてくるもので、最初に思い付くのは現状を打破する方法だった。
(ロボットみたいだ)
 自分でもそう思う。感性豊かになりたいと思って、佳苗から勧められた小説を読んだりもしたけれど、脳の行動パターンを変えることは無理らしい。
「答えは自明だ……とか言えたらな」
 小説の中のセリフだ。悠太はタバコを咥えたまま、言ってみて鼻で笑った。作家は自分と同じく工学部を出ているらしい。普段、自分はミリ単位のスケールで物事を見ているくせに、人の心の機微は専門外のようだ。だが、小説を書いた人も理系なのだ。
(そもそも俺は小説どころか、作文ですらあやしいよ)
 小学生の時のあれだ。読書感想文。原稿用紙を見るだけでアナフィラキシーをおこしそうだった。
(俺は原稿用紙に、ぼくはって書いて止まってるのに、世の中には何百枚も書ける人がいるのか)
 きっと、何万字とかそういうレベルになってくるのだろう。400字どころの騒ぎではないのだ。同じ人間かよと悠太は思いながら、携帯灰皿に灰を入れる。
(それより、妻に何て言おうか)
 悠太はお尻のポケットからスマホを取り出して、タバコを片手に検索してみた。
『妻 妊娠』
と入力する。
『もしかして 妻 妊娠 浮気』
という項目が予測に出てくる。それを無視して、検索結果の画面をスクロールした。しかし、それでも某掲示板サイトの修羅場を迎えていそうなタイトルが検索結果として表示された。悠太はそっと画面を閉じた。
(役に立たねぇ)
 再び、悠太の顔を照らす光が、タバコのオレンジだけになる。だが、悠太はタバコを携帯灰皿の中に捨てた。そのまま、ベランダの窓を開けると家の中に入っていった。

 家の中はもう、真っ暗だ。佳苗が先に寝てしまったのだ。悠太は寝室に入ると、佳苗の寝顔を見つめた。だけど、佳苗は静かに目を閉じている。悠太はベッドサイドにある机に、タバコと携帯灰皿、ライター、そしてスマホを置くと充電器に差した。
「電子タバコにしようかな」
 タバコも充電式のものにしてみようか。
(いや、タバコ自体をやめたほうがいいだろうな)
 これから生まれてくる子どものためだ。そんなことを考えながら、悠太も横になる。
「多分、俺は嬉しいんだろうな」
 悠太は禁煙しようと思った。
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