溝鼠の扉

文字数 1,999文字

人を殺した。殺す気なんてなかった。アイツが生意気な事を言うから、ついカッとなって……気がついたら、アイツが俺の前に倒れていた。首には青いアザがくっきりと浮かんでいた。
死体を隠す時間もなかった。
俺は何も持たず、アパートから逃げ出した。
外は夜。雨が降っていた。そんなこと気にしていられなかった。
死体が見つかるのは時間の問題だ。きっと最初に疑われるのは俺だ。どこに逃げたって、いつか見つかってしまう。逃げ道なんてなかった。
「……おしまいだ」
狭くて臭い路地裏にずぶ濡れのまましゃがみ込んで、頭を抱えた時だった。
『出してやろうか?』
誰も居ないはずの路地裏から声がした。
『逃げ道、出してやろうか?』
声の方に目を凝らした。路地裏のゴミ箱をあさっている、でかい溝鼠(ドブネズミ)がいた。
「……黙れ」
俺は驚く事も忘れて、また頭を抱えた。
『せっかくのチャンスを棒に振ろうってのか?思ったより後悔してねぇんだな』
「うるせぇ!溝鼠に何が出来るってんだよ!」
俺が怒鳴ると、溝鼠は残飯を咥えたまま俺に寄ってきた。
『お前が殺しちまった奴を、生き返らせてやろうかって言ってんだよ』
「ふざけんな!そんなこと出来るわけーー」
『それが出来るんだな。顔上げてみろよ』
顔を上げると、路地裏の壁にさっきまで無かった(ドア)が三つ並んでいた。どれも酷く錆びていた。
『この三つの扉、どれが一つだけがお前が殺した奴を生き返らせた未来に繋がってる』
溝鼠の眼が、怪しく紅く光った。
「……本当に、アイツが生き返るのか?」
『お前がその扉を選べればな。どうする?選ぶか?やめるか?』
「ああ!選ばせてくれ!」
全てを失いかけていた俺に、迷いはなかった。
『一つだけ、条件(ルール)がある』
溝鼠が言った。
『お前が上手くやったとして、お前が生き返らせた奴を、お前は二度と殺す事は出来ない。それでもいいのか?』
「ああ。勿論だ」
当たり前だ。わざわざ生き返らせた人間を、もう一度殺す理由がどこにある。
『待てよ』
扉の前に立った俺に、再び溝鼠が言った。
『扉を選ぶならお前の指、一本よこせ』
「ッ!?
『何の犠牲も払わずにチャンスを得られると思ったのか?』
指一本と人生のやり直し。天秤にかけるまでもなかった。
「……やるよ。この指」
言うが早いか、溝鼠は俺が差し出した指に飛びかかると一瞬で食いちぎった。
信じられない激痛に襲われながら、俺は三つの扉の前に立った。
『よーく選べよ。二度目はないぜ?』
「……」
そして真ん中の扉を開けた。
『……つくづく馬鹿だぜ、人間って奴ぁよ』
扉を閉める背後で、溝鼠の声が聞こえた気がした。



気がつくと、ソファに座っていた。
外は明るく、鳥が鳴いていた。雨で濡れたはずの体も乾いていた。そしてーー
「……お前」
キッチンでは、俺が殺したはずのアイツが……愛人の女が料理をする後ろ姿があった。
「……やった、のか?」
溝鼠の話は本当だった。俺は正解の扉を選んだようだった。
「やった……やったぞ!」
思わず駆け出し、女を背後から抱き締めた。
「すまなかった!本当にすまなかった!……って、お前は何も知らないか」
そう。そもそも俺はコイツを殺してないのだから何もーー
「今更謝っても遅いのよ」
「……え」
振り返る女。長い髪が揺れ、色白の首が(あらわ)になる。その首には……青いアザ。
「ッ!?
思わず息を飲んだ。そんなはずはない。俺は確かにーー

『お前が殺しちまった奴を、生き返らせてやろうかって言ってんだよ』

溝鼠の声が、頭に響いた。
「……まさか」
「そうね。貴方が私を殺した事を覚えてるように、私も貴方に殺された事、覚えてる」
「……そんな、馬鹿な」
「私は死ななかったんじゃなくて、生き返ったのよ?」
女の声は小さかった。にも関わらず、俺はその声に押され、後ずさった。
「今の私は死んでいないから、誰も貴方を裁けない。私以外は、ね。それとも、もう一度私を殺してみる?」
俺の体が動かなかったのは、女に怯えていたからなのか、溝鼠と交わした条件(ルール)のせいなのか……わからなかった。
「……ふざけんな!おいふざけんなよ!汚ぇぞ溝鼠ッ!!
気が動転していた俺は気付けなかった。"殺していない事"と"生き返らせる事"では、全く意味が違う事に。
「あら、私を殺した貴方と溝鼠、本当に汚いのはどっちかしら?」
発狂する俺に、女は笑いながら言った。
「うるせぇ!元はと言えばお前がーー」
「口答えするなよ、溝鼠」
女はまな板から包丁を取ると、俺に向かって突きつけた。
「……よせ!」
「安心して。私は貴方を殺さない。その代わり貴方の残りの人生を全て私に捧げてもらう。


女の眼が、溝鼠と同じように紅く光った。
「あの時私を殺したままにしておいた方が良かった、って思うような……素敵な人生にしてあげる。まずは首輪で繋いだ貴方を連れて、奥さんの所に行こうかしら」
「……」
罪を犯した俺に逃げ道なんてなかったんだ。俺の左手には、もう一度指輪を通す薬指は残っていなかった。


おわり。
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