嫌いじゃない夜

文字数 1,988文字

 散り散りの記憶が逆再生みたいに元の形におさまって、店の前で完成した。店までの道も店の外観も、私がこのバーの常連だった頃から変わっていない。変わっていた方が良かったのにと思った。久しぶりに訪れる罪悪感はその方が薄れた。

 狭い入口を入ると小さな丸テーブル席、奥に続くバーカウンター。扉を開けた瞬間に記憶がよみがえって、タイムカプセルみたいだった。甘い匂いと排気の埃っぽい匂いが混じって漂う。
 十九歳の時に人に連れられて来て以来、私はここの常連だった。数多の夜と五回のカウントダウンを過ごした。

「ミヤちゃん」
 声をかけられて見ると久保田さんだった。
 久保田さんだった、って、しょっちゅう会ってるみたいに思ったことに自分で驚いた。会うのは数年ぶりだ。
 仕事帰りらしい見慣れたスーツ姿、四角い黒縁のメガネでワイシャツ姿の久保田さんは、学生時代にラグビーをやっていたという体格も変わっていなかった。小さな丸テーブルもワイシャツも黒縁メガネも窮屈そうだった。

 その向こうのテーブルに沢井さんがいた。久しぶりに来て会う一人目と二人目がこの顔ぶれなのが、私にとってのこの店を表していると思った。
 うら若き十九歳の私が初めてここに来た日、目にしたのは酔ってネクタイを頭に巻く久保田さんと沢井さんだった。そういう酔っ払いって実在するんだ、と感心したのを覚えている。

 幸いにも今日はネクタイを首に巻いている沢井さんが「乾杯だ」と私を捕まえる。人の話を聞かないのが変わらずで、まだ来たばかりで何も注文していないと伝えるだけで十分はかかった。
 奢るよという申し出は感謝して断る。年上には奢られておけ、それは自分より年下の常連に奢ることで返せ、そういう文化を教わったのもここだ。

 カウンターの手前で、ちょうどトイレから出てきた村尾さんに会った。
 お互いに「うわ!」と言った。村尾さん、とは呼ぶものの年が近いからほとんど敬語も使わず、何より「一人で飲みに来る女」という共通点で気が合った。
「会うのいつぶり?」
「三年とか?」
「もっとかも」
 言い合って笑った。細かい年数なんてお互い絶対覚えてない。もう明らかに二杯以上は飲んでいる彼女と目を合わすと、使っていなかった部屋の電気をパチンパチンとつけるように私の中が明るくなっていった。
「仕事どー?」
「変わらず。村尾さんは?」
「ん、結婚した」
 え?!! 驚きすぎて固まる私にペロッと舌を出して彼女は席に戻っていく。酔って路肩のツツジにダイブしても、酔って人のスマホでキャッチボールを始めても憎まれない彼女の愛嬌だった。

 さらに数人の知人と言葉を交わしてカウンターへ辿り着く。
 マスターがいたカウンターだ。白髪頭に柔らかい笑顔で、マスターはいつでもここにいた。常連の騒ぎをそよ風のように聞き流し、または便乗し、たまに客から釣銭が多いと指摘され、それらはパーフェクトな年季の入った立ち振る舞いだった。
 十九の私はそんな姿に懐いていた。「東京のパパ」なんて図々しく呼んでもマスターは優しくて、パフォーマンスとしてみんなの前で私をデートに誘ってみせるのだった。今思えばこんなことを言う常連の女の子なんて少なくなかっただろう。
 隙のない力の入れ方と抜き方。飄々としてお茶目な人だった。
「そんな人だったね」
 村尾さんが隣に来て言った。 二人でグラスのビールを注文する。若いアルバイトの店員が、にこやかな笑顔で対応してくれた。

 転職して忙しくなった、通勤ルートにこの店がなかった、私の足が遠のいた理由はどれも些細だった。あるいは気分的なものだった。その間にマスターは引退し、店自体は人に引き継がれて存続が叶ったものの、より行きづらくなっていた。
「ミヤちゃん来てくれて良かった」
 久保田さんが来て言った。

 マスターの訃報を伝えてくれたのは久保田さんだ。SNSのDMで「ミヤちゃん久しぶりー。実はさ」というおっとりした久保田さんの文面だった。

「マスターはミヤちゃんの東京のパパだもんな」
 沢井さんが言う。
 ここに来ればいつでもこんなふうに誰かがいた。いつも終わりのない話をマスターに聞いてもらった。
「私、この店に来るようになって夜が好きになったんですよね」
 そう呟く。夜が嫌いなんじゃなかった、とこの店で気づいた。夜にみんなが帰ってしまうのが嫌だった。帰り道がどうしようもなく孤独に思える日、ここにはいつでも誰かがいた。アルコールを言い訳にして。
 足が遠のいた本当の理由はそんな寂しさを認めたくなかったからだ。そうすることで大人になれると思った。でも、きっと大人って寂しいものなんだ。

 カウンターに五つのグラスが置かれた。四人がグラスを手に取る。
「献杯」
 久保田さんが真ん中に置かれた一つのグラスに自分のグラスを合わせる。他の二人が続けるのを真似をして私もグラスを持ち上げた。
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