満月の夜の不思議

文字数 4,051文字

 アキラは休日の夕方になり、仕事で疲れ切って安アパートの部屋に帰ってきた。
 彼は、今までに務めていた会社が倒産になり、何とか見つけた会社の臨時社員として採用されていた。仕事はきついのに貰う給料は安いが、今は我慢して暫くはそれに甘んじていなければならないと諦めていた。

 それまで付き合っていた彼女は、そんなアキラに愛想を尽かして去っていった。
(ちゃんとした、仕事さえあればなあ)
 そんな愚痴さえでてしまう。

 仕事で疲れ、電気を点けるまでもなく、寝転がった畳の上にはコンビニで買ってきたサンドイッチと缶ビールが転がっていた。
 休日だというのに、忙しいので会社で仕事をして帰ってきたばかりである。
(でも、明日は休暇を貰えたので、ゆっくり休もう)
 そう思い、ほっと息をついていた。

 その彼は泣きたくなるような寂しさが彼を襲っていた。
(収入も安定しないし、いつまでこんな生活を続けるのだろう)

 部屋は少し薄暗くなっており、窓際のカーテンからは煌煌とした満月が浮かんでいる。
 電気を点ける気力さえ無い。
(今夜は満月だな、綺麗だ……)
 ごろりと寝転びながら、転がっているパンを掴み、それを口にしていた。

 その時、隣の部屋からすすり泣く女の声が微かに聞こえてくる。
「あれ、隣の部屋に人なんかいたっけ?」
 あまり何事にも頓着しない彼は隣人が誰だか知らないし、隣人は挨拶にも来なかった。
 しかし、今聞こえてくるのは女のすすり泣く声だった。

 よくこの安アパートの住人達の出入りが激しいので、気にすることは無かった。
(隣人が誰でも良かった、男でも、女でも……俺には関係ないし)と彼はそう思っていた。

 しかし、暗くなってから隣の部屋ですすり泣く女の声は気味が悪い。
 今までにそんなことは無かったからだ。
 しかも、その声は相変わらず、自分に気にすることなく泣き止む気配が無い。

 アキラの部屋にはテレビが無い。
 いつもは、好きな雑誌や本などで気を紛らわしていたが、一向に女の泣き声は止まない。
 いくらお人好しのアキラでも我慢の限界がある。

 意を決して、アキラは起き上がり、仕方なく隣の境にある壁を軽くノックした。
(コンコン)
 すると、それに気が付いたのか、泣き声は止まった。
(やれやれ)と心で思いながら、暗い部屋で再び窓の外の満月をみていた。

 暫くすると、再び、あのすすり泣く声が聞こえたのだ。
(ええっ?  またかよ!)

 そう思いながら、暫く躊躇っていたが、相変わらず女の忍びなく声は聞こえてくる。
 大家に苦情を言えばいいのだが、この安アパートからは大家の家は少し離れている。
 それに夜だし、その為に大家に苦情を言うのも面倒くさい気がした。

 それで、再びアキラは壁を叩いた、さっきよりも少し強めに。
(コンコン!)

 すると、また女の泣き声は止まったかと思ったが、それも束の間だった。
 しかも、その泣き声はさらに大きくなったような気がした。
 アキラはこうなったら直に隣の部屋に文句を言うしか無いと思った。

 もし、それが男なら流石に我慢をしただろう。
 どんな男か知らないし、言いがかりでも言われたくない。

 しかし、その声は女だし、怖がることもないと思った。

 それから、重い腰を上げて、アキラは隣の部屋の扉の前に立った。
 ふと見上げる夜空には相変わらず満月が中空で輝いている。
 じっと見つめているだけで目が眩しくなってくる。

 どんな女の人だろうな、と思いながら、アキラは軽く扉を叩いた。。
 どうやら電気は点いていないようであり、少し気味が悪い。
 泣くようだから、何か事情があるのかもしれない、と思いながら。

(コンコン)
 今度は扉を軽く叩いたが、暫くアキラは待っていた。
 しかし、相変わらず(隣人)の返事は無い。
 それでも根気よくアキラは待っていた。
 このアパートにはあまり人が住んでいないようだ。

 深夜のアキラの行動に不思議に思って誰かが出てくるわけでも無い。
 相変わらず深夜のアパートはひっそりとしていた。
 返事は無いが、扉からは密かに泣く声はまだ聞こえてくる。

 このまま帰ろうかと思いながら何気なくアキラは扉の取っ手に手を掛けた。
(おや?)
 固いと思った扉のノブが軽かった。
 思わず右に回すと、それは動いた。
(えっ?  開いてる!)

 扉が閉まっていると思っていたアキラはそれが予想外だった。
(このまま、声をかけようか、どうしようか)と迷っていた。

 暫く考えていたが、このままでは何も解決しないと思い、暗い部屋に向かって声を出した。
「あの……隣の部屋の者ですが、泣いている声が聞こえましたので、気になって」

 そのとき、泣き声は止まった。
 アキラは思った。
(あれ! 泣き声が止まった?)
 アキラの中に始めて恐怖という文字が過ぎった。
(もしや、あれは幽霊か? それとも)

 そう思っていると、誰かが奥からやってくる気配がした。
(それは恐ろしい妖怪か、幽霊か?)
 アキラは身構え、その背中には汗が垂れていた。

「す、すみません、ご迷惑をおかけしています」
 暗い部屋からアキラの目の前に現れたのは、まだ若い女だった。
 美しい人だったが、その目は泣きはらしたように赤くなっていた。

「いえ、貴女の泣いている声が気になって、でも余計なお節介でしたか?」
「そんなことありません、つい悲しくなって泣いてしまいました」
「そういう事情があるのに、わたしこそすみませんでした」
「いえ」
「では、遅いので私はこれで……」

 アキラはその部屋に人が居たので安心して部屋に戻ろうとした。
 そのとき
「あの……」

 その女がか細い声を出してアキラに言った。
「はい?  何でしょう」
「もし、宜しければ私のお話を聞いて頂けると……」

 アキラはその美しい女の顔を見て思った。
 ここで少しでも男として良いところを見せなければ、部屋の隣人だし。
(上手くいけば)そんな下心が芽生えていた。

「わかりました、では」
「はい、お入り下さい」
「失礼します」

「あの、灯りを点けないで、このままで御願いしたいのですが」
「ええ、いいですよ、今夜は満月ですし、電気を点けなくても」
「有り難うございます」
 そういって女は嬉しそうに微笑んだ、その顔は美しいのだが、どこかが違う。

 薄暗いその部屋の中には何も無かった。
 在るのは床の上に置いてある小さなテーブルだけだった。

「あの、引っ越してきたままで、何もありません、ご免なさいね」
「いや、構いません、私の部屋だって同じようなものですから」
「そうですか」
女は手を唇に添えて笑っていたが、それがアキラは可愛いと思った。

「あの、さっきの話とは?」
「はい、実は私はずっと前にこの部屋に住んでいたことがあります」
「えっ? 本当ですか。いつ頃ですか?」
「ご免なさい、それは……」
「あっ、はい、いいですよ、何か訳がありそうですから」
「有り難うございます」
「はい、ではそのお話しとはなんでしょう?」

 アキラはさっきから気になっていた。
 彼女が幽霊では無いかと思ったが、足はあるし、そのような気配はなく不自然さも無い。
 しかし、何故か、秋とは言いながらこの部屋は寒い。
 だが、それを言うと彼女の気持ちに悪いと思い言わなかった。
 自分の部屋でも、そろそろ炬燵を出そうと思っていた位だからだ。

「私はその頃、或る男性とこの部屋で同棲していたのです。いつかその人と結婚する予定でしたが、でも……」

「そ、そうでしたか」
 思わずアキラは息を呑んだ。
 彼女がその時を思い出したのか、目に涙を溜めていたからだ。

「でもいつからか彼は、他に女を造ったのです、私という女がいながら」
「それは酷い話ですね、私は男としても許せません、それで?」
「彼は私がいないときに、私のお金を持ってどこかへ行ってしまいました」
「全く、酷い話だ!」

 アキラはその話の男に怒りを感じた。
 女はそこで深い溜息をついた、アキラはその頬が妙に白く、冷たく感じた。
 その目からは溢れるばかりの涙が溢れている。

「それで……それから貴女はどうしたのですか?」
 アキラはその女に同情していた、何か力になってやりたいとさえ思っていた。
「はい、次第にお金も無くなり、生きる気力が無くなり、いつしか力尽きて……」
「それは大変だ、だれか頼る人はいなかったのですか?」

「いいえ、こんな私ですもの、泣くしかありませんから……」
 そう言いながら女は先ほどのように畳の上で嗚咽していた。
 その肩は泣きながら震えているのだ。

 アキラは、何とかこの女の力になりたいと思いながら、女の肩に触ろうとした。
(あれ?)と思うほど彼の手にはその感触が無い。
 思わず、その弾みでアキラは畳の上に倒れかけたときだった。

 そこには物体が存在していなかったし、消えたように女はいなかった。
 在るのはあの小さなテーブルだけだった。
「ギャァ!」

 アキラは腰を抜かして、這いずるように自分の部屋に戻った。
 そして布団を頭から被っていたが、いつの間にか寝てしまっていた。

 次の日の朝に、アキラは大家の家にいた。
 そして昨夜のことを大家に話をした。

「そうですか、やはり出ましたか、実は彼女は数年前に亡くなったのですよ」
「ええっ? ではあれは幽霊?」
「そうですね、彼女は貴方が優しい男性だと思って、心を伝えたかったのでしょう」
「は、はい……そうでしたか」
「なので、あの部屋は誰にも貸さずにしています、皆さん、怖がりますから」

 アキラはそれで納得した。
 それ以来、隣の部屋からは女の泣く声は聞こえなくなった。
 ときどき、アキラは部屋の灯りを暗くして、彼女のことを思った。

(あれで、彼女が納得して、成仏してくれたのなら僕も嬉しいな)

 それから、ほどなくしてアキラは会社に正社員として採用された。
 あの安アパートから引っ越して、もう少しましな部屋に移った。
 今でも休日に、満月をみるとあの日の彼女の美しい顔を思い出す。
 しかし、怖さよりも懐かしい気がした。

                了

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み