第一話

文字数 2,063文字

 残暑が厳しく、夜も湿気を含んだ空気が、車の中に充満していた。
 田(た)峰(みね)健一(けんいち)は、助手席で父誠(まこと)の行いを茫然と眺めていた。
 廃墟となったレジャーランドの搬入門を開け、車を侵入させた。車はクレープの移動販売車。ローンの支払いで、母美子(よしこ)と論争になっていたものだ。母が座っている後部にはキッチンがあり、ここで誠は、半ば生活しながら、長年クレープを焼いていた。二十年近くの相棒とも言えるこの車を使って、何をするつもりだ? 健一は、仕事以外では魯鈍だと見なしていた父の行動力に驚いた。警備員なんていないよな? 周囲を見回し、誰にも会いませんようにと祈るように手を組んでいた。
「地主の許可は取ってるよ」
 誠は、目尻に皺をよせて、笑みを浮かべた。


「母さん、一時間後に、このバルブを回してくれ」
 誠は車から妻を降ろし、指示を出した。
 健一は、下りスロープの上に車が乗っている状態に恐怖した。スロープは親父の手作りに違いないと、確信する。その先には、なみなみと真っ黒な水をたたえたプール。彼が小さい頃、レジャープールとしては日本一の深さ四メートルとして話題になったものだ。底が見えず不気味さを醸し出している。
「まさか、車ごとプールに入らないよな?」
「その、まさかだよ」
 浮き立つ気分の誠の口元が緩む。
「心中でもするのか?」
「それなら海を選ぶよ」
 エンジンを切り、ギアをニュートラルにしてブレーキから足を放した。するすると車はスロープを滑り落ち、水面と衝突した。速度はそこで鈍り、浮力が二人の体を何度も軽く持ち上げ、やがて、車体は完全に水底に達し、停止した。
「親父、どうすんだよ。車壊れちまうぞ」
「廃車にするから」
 誠は、鼻歌交じりにクーラーボックスを取り出した。
「帰りはどうすんだよ?」
「明け方、爺(じいじ)がレッカーしてくれるから。ほら、飲もうや」
 健一は、父からグラスを渡され、黄金色の液体をたぶたぶと注がれた。シュワと小気味いい音と柑橘系の香りが、彼を謎に包んだ。
「何? ジュース」
「ビールだよ。お前二十歳になったろ? 乾杯」
 苦い飲み物は苦手でためらったが、促されて口をつける。
「あれ? 甘みがあってスッキリしてるな」
「グレープフルーツ入りのクラフトビールだ」
 誠は口に泡の髭をつけ、健一は自分のグラスを飲み干す。
「おかわり。親父は?」
 誠は頷いた。自分のコップにはほろ苦いビールを注いだ。
「お前と飲みたかったんだ。忙しくて家に帰れなかったし」
 すまん、と神妙な顔。
「いいって。ここ、魚がいれば水族館みたいだな」
「ライト点けてみろ」
 父は子に懐中電灯を渡す。鈍色の鱗のついた魚が、広い場所で、開放感を覚えたように生き生きと泳いでいた。
「すげえ。あれって、鯉? 『玄さん』の昼間の?」
「お詫びだとよ」
 しんみりと誠は言った。卒業した健一の就職先になるはずが、閉店になった店だった。
「いいのに。それにしてもどうしてプールの底に来たの?」
「お前、小さい頃『海中ホテル』行きたいって泣いてたらしいな」
「母さんに聞いたの? お、体がフワフワする。酔ってきたよ」
 健一は、恥ずかしくなり話題を変えた。
「本物の海中ホテルに連れて行ってやりたかったんだが」
「こんな体験、二度とできないよ。なあ、親父」健一は、上機嫌で横を向く。
「なんだ」
「親父がクレープ修行をしていたブルターニュの海の底って、きれいなんだろうな」
 父親は、黙ったまま、遠くを見つめた。


「ちょっと苦しいな。そろそろ水抜ける頃なんだが」
「窓割って脱出する?」
「水深四メートルだからな。危ねえかも」
「親父、母さんに恨まれてるんじゃない? 母さんを置いてブルターニュに修行に行ったから」
 健一は苦しがりながらも笑った。
「お前がお腹にいた頃の話だ。まさか、お前も乗ってるし」
 父親は少し不安げになった。
「自覚はあるんだね。俺は人質かよ」
 健一は、笑って天井を見る。父の修業時代の写真が飾ってあり、そこにライトを向けた。ロイヤルブルーの海と穏やかな波。サックスブルーのキャンバスに夏の雲の白線が無数に描かれていた。白髪のない上半身裸の父は、遠慮がちに一番隅で、笑みを浮かべていた。
「親父。新しいクレープの車買ったら? 俺も手伝うからさ」
「いや、もういいんだ。金の事でお前たちに苦労をかけたし。大人にならなきゃ」
 父は、自分を苛んでいる。健一はそう感じた。
「その考え、立派だとは思うんだけど、大人になれない親父っていうのがいてもいいと思うんだ」
 父は、どう答えていいかわからず、窓の方に目を遣った。
「水位下がってきたな」
 水がほぼ無くなった。二人は別々のドアから出て、足元を濡らしていた。健一は上を向いて両手を広げ、新鮮な空気を堪能した。涼しくなった空気が肺の中を満たしていく。誠は優しくそれを見つめた。
「ごめん。鯉がなかなか捕まらなくて」
 プールサイドでは、魚がぎっしりと入った網を抱えた母親が、笑みを浮かべていた。



                   (了)

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