第1話

文字数 979文字

 君が僕を見る時は、だいたい焦っているか、疲れている時だね。君はおっちょこちょいだから、僕から離れた後、すぐに戻って来たりする。僕はすぐにまた会えて嬉しいけれど、扱いが雑で、強く引っ張られたり、蹴られたりする。文句の一つも言いたくなるけど、我慢我慢。そんな君が僕から離れる時は、いつも無事を願っているんだよ。僕にはそれしか出来ないからね。

 君が、珍しくニコニコしながら近づいてくる。こんなに嬉しそうにしている姿は久しぶりに見た。何か良い事でもあったのだろう。腕には大きな袋を抱えている。君がそばを通った時、中身がチラッと見えた。何やら、柔らかそうで、顔まである。わかった。きっとぬいぐるみだ。

 僕は、君に微笑みかけられたり、抱きしめられたり、という事がないのはわかっている。けれど、ぬいぐるみは違うんだろう。当たり前に可愛い存在だと認められているなんて、羨ましい。僕に嫉妬という感情があるんだと、こういう時は強く思う。
 
 そんなある日、いつも通りに慌ただしくしている君を見ながら、いつも通り無事を願った。数時間が経ち、遠くから小走りで近づいてくる君に気がついた。いつもと様子が違った。
 
 君は、僕を見て安心したのか、急に声も出さずに泣き出した。僕のそばを通り、僕にしばらく寄りかかる。何か声がかけられたらと思うけれど、そんなことは出来ない。ただ、こうして近くで立っている事しか。こういう時、前に連れてこられたぬいぐるみならば、少しは君を癒す事ができるんだろう。

 次の日、君はいつもの焦った顔ではなく、元気の無い顔で僕を見る。その後、小さくなっていく君の背中に向かって、初めて声をかけた。

「いってらっしゃい。」

 君は立ち止まる事も、振り返る事も無く、前を向いて歩いて行く。わかっている。声が届かないのは当たり前だし、それで良い。

 僕はその後、何時間も君を待ち続けた。いつもよりも長く長く感じた。そして、やっと君の姿を見つけた。やはり元気は無いようだが、僕を見て泣き出したりはしない。僕と離れた後、どんな風に過ごしたかはわからないけれど、確実に少し強くなって帰って来た君に、これからは毎日言い続けるだろう。

「おかえり。」

「頑張って来たんだね。」

 たとえ、君にとってただの玄関のドアである僕の声が、君には聞こえなくても。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み