第1話 いのちの価値
文字数 3,237文字
◆私
私は、私が嫌いだ。
履歴書に自分の長所を書く欄があるけれど、私はそこを埋められない。
ないんだもの。長所なんて。良いところなんて一つも。
それどころか、周りの人に迷惑しかかけられない。有害な存在。
私は自分の部屋を見渡した。
さっきまで横になっていた布団はしわくちゃで、色褪せている。
畳に散らばった小説は、どれも読みかけで、結末はまだ知らない。最後のページをめくり、本を閉じることが怖い。物語が終わってしまうことが怖い。
私は、何かを終わらせることが怖い。
人生の節目で経験してきた数々の終結。
小学校の卒業式。高校受験、大学受験。その一瞬一瞬には何かを感じ、心動かされたこともあっただろう。後悔して、涙して、その時は確かに「今」を生きてきた。
でも、その積み重ねの末路が今の自分だ。何かを終わらせても、行き着くのは駄目な自分。何もしていない、一日をただやり過ごすだけの自分。生きているかも死んでいるかも分からない生活を繰り返している自分。
今の私には、誇れるものなんて一つもない。頑張ってきた過去があったとしても、「今」がこんなクズなら、何の価値があるだろう。認められない、価値なんて。
社会に属していない自分。
家に引きこもっている自分。
寝て起きてご飯を食べるだけの無為な自分。
親の金をむさぼるだけで、何の利益も生み出せない自分。
本当は、口にしないだけで、親も邪魔だと思っているのだろう。人生のレールから脱線した自分に、期待なんかしていない。ただ取り扱いに困る障害物。
そう考えていると、むなしくなってきた。
鈍く光るパソコンの液晶画面を眺める。
……なんで、生きているんだろう。
私には、生きる価値などあるのだろうか。
「私」という人間として行動し、生活し、感情を持つことに、意味があるのだろうか。
「私がいる世界」と「私がいない世界」に何の違いがあるだろう。
今、私が消えて、影響を受ける人なんているだろうか。
親は悲しむかもしれない。あれでも血のつながった家族だし。それでも、時が経てば忘れるだろう。自分がいたことなんて忘れて、元通りに生活する。友人関係は、引きこもって二年でほとんど切れている。私が「死んだ」と聞いても、「ああ、あいつが」くらいにしか思わないだろう。
そんなものだ。私の存在なんて。
……死んでしまおうか。
幾度となく浮かべた考えがよぎる。ふっと現れた靄のような感情は、そこに意識を向ければ向けるほど、全身から力が抜けていく。虚脱感。
死。いなくなる。消える。五感が失われる。他者から認識されなくなる。
ずぶずぶと泥沼に沈んでいくような感じだ。このまま「私」を放棄してしまいたい。
そうすれば、楽になれる?
「死んで、しまおうか」
唇から音が漏れ、耳に入り、言葉として認識される。
そして。
……まただ。
私の瞳から涙が零れ落ちる――。
◇天使
「こいつも傲慢だなぁ……」
俺はずらりと並んだモニターのひとつを眺めながら腕を組んだ。背中を椅子の背もたれに預けると、ぎしっと音が鳴った。
「今度はどの子です?」
同僚の天使が俺の横からモニターを覗き込んできた。丸メガネがずり落ちる。
そのモニターには、山積みになった本の隙間で死んだように横たわっている少女が映っている。その少女の全身を灰色の靄が包んでいた。死臭という死の近い人間が纏うオーラである。その靄を睨み付けながら、俺は少女の特徴を述べていく。
「小中高と有名校に通い、大学受験でも第一志望に合格」
「おお、高学歴」
同僚が感嘆した声をあげるが、俺は同じトーンで続けた。
「大学に入ってすぐ休学し、現在引きこもり」
そう言い終わってから、俺はうーんと背伸びをした。右手首に巻いた金の輪っかが光る。
「最近多いんだよなあ、こういう奴」
「引きこもり、がですか?」
同僚の問いかけに、俺は首を横に振る。
「自分自身が嫌いな奴」
同時に、画面の下に、『私は、私が嫌いだ』と文字が映し出された。これは彼女の心の声。このモニターで、人間とそいつの感情をチェックできる。ずらりと並んだモニターは、全人類の一人一人を映し出している。
俺と同僚は「日本人」をチェックする担当だ。二十四時間休みなしに日本人一人一人の様子をチェックして、カルテを書いている。死臭が濃い人間、いわば死期が近い人間がいれば上に報告する。これが天使の仕事の一つだ。
「『日本人』担当になった宿命だけどさぁ……やっぱ多いわ。死期が近い奴」
「それは、高齢社会だからですか?」
「それもあっけど、それよりも多いのは自殺する奴らだよ」
自ら命を絶つ者。自ら死を手繰り寄せる者。
「こいつもさ、自分で死期を決めようとしてんだ」
俺は目の前のモニターを顎でしゃくって示した。
『誇れるものなんて一つもない』
モニターに映し出される文字に思わず目を細める。
「『日本人』は謙虚を美徳としていますからねえ」
同僚天使がのほほんと呟く。
「謙虚の意味をはき違えてんだよ」
俺の声は自然と粗ぶった。
「自分はまだまだだ。自分なんて意味ない。自分が嫌い。自分なんて。そんなのは謙虚じゃねえよ。自分を貶めるのが謙虚じゃねえよ」
モニターに、『……何で生きてるんだろう』という心の声が映し出される。背中を丸めて、縮こまった少女の死臭は更に濃くなっていく。
「……お前の命はお前だけのもんじゃない」
俺の呟きに呼応するように、モニターに表示される文字。
『私には、生きる価値などあるのだろうか』
「『あの人』が生かしてる時点で、価値なんか決まってんだよ」
何もしていなくても、たとえ、人を殺したとしても。生きているということは、生かされているということだ。その命を勝手に絶とうとすることは、勝手に終わらせようとすることは、
「傲慢でしかない」
そう言葉にして、俺はじっと少女を見つめた。
今にも消えてしまいそうに縮こまって、どうしていいか分からなくて、自分を消すことしかできないと思っている。
『死んでしまおうか』
その文字を見て俺は瞼を閉じた。自分の中に残っている記憶を手繰り寄せる。
『どうして死んでしまったのか』
「あの人」は死んだ俺に出会った瞬間そう言った。大粒の涙を流して。慟哭して。
『私は、もっとお前に生きていてほしかった……。生きていれば感じることができた幸せを味わってほしかった……』
その時、俺は後悔した。自ら命を絶ったことを。自分が死んで、「この人」はこんなに悲しんで、泣いている。自分の存在の大きさを、価値をその時知った。
そして、自分は自分のものだという考えは、あまりに傲慢だったのだと気づいた。
自分のものじゃない。「この人」のものでもあったのだ、と。
喜び、悲しみ、苦しみ、自分が生きて感じていたものの全てを、「この人」も一緒に味わっていた。そして、俺はその人生を自分一人で終わらせた。「この人」の人生を勝手に終わらせた。自分だけのものだと思って。
俺は伏せていた目を開いた。同時に、右手首の輪っかを見つめる。その下には、消えない傷が刻まれている。ナイフで切り刻んだ跡が。
そして、俺はモニターに目をやった。
少女が涙を流した。
「今からでも遅くないよな」
俺は椅子から腰を上げ、カルテを手に取った。
「どちらにいかれるのですか?」
「神さんのとこ。こいつの状況を報告してくる」
そう言うと、同僚天使はにっこり笑って、「いってらっしゃい」と手を振った。相変わらずのほほんとした奴だ。
ふわりと飛び立って上へ向かって飛ぶ。
少女の泣き顔を思いだしながら。
俺のような思いはするなよ。
勝手に死ぬなよ。
俺だって、お前のこと赤ちゃんの頃から見てきたんだからな。
私は、私が嫌いだ。
履歴書に自分の長所を書く欄があるけれど、私はそこを埋められない。
ないんだもの。長所なんて。良いところなんて一つも。
それどころか、周りの人に迷惑しかかけられない。有害な存在。
私は自分の部屋を見渡した。
さっきまで横になっていた布団はしわくちゃで、色褪せている。
畳に散らばった小説は、どれも読みかけで、結末はまだ知らない。最後のページをめくり、本を閉じることが怖い。物語が終わってしまうことが怖い。
私は、何かを終わらせることが怖い。
人生の節目で経験してきた数々の終結。
小学校の卒業式。高校受験、大学受験。その一瞬一瞬には何かを感じ、心動かされたこともあっただろう。後悔して、涙して、その時は確かに「今」を生きてきた。
でも、その積み重ねの末路が今の自分だ。何かを終わらせても、行き着くのは駄目な自分。何もしていない、一日をただやり過ごすだけの自分。生きているかも死んでいるかも分からない生活を繰り返している自分。
今の私には、誇れるものなんて一つもない。頑張ってきた過去があったとしても、「今」がこんなクズなら、何の価値があるだろう。認められない、価値なんて。
社会に属していない自分。
家に引きこもっている自分。
寝て起きてご飯を食べるだけの無為な自分。
親の金をむさぼるだけで、何の利益も生み出せない自分。
本当は、口にしないだけで、親も邪魔だと思っているのだろう。人生のレールから脱線した自分に、期待なんかしていない。ただ取り扱いに困る障害物。
そう考えていると、むなしくなってきた。
鈍く光るパソコンの液晶画面を眺める。
……なんで、生きているんだろう。
私には、生きる価値などあるのだろうか。
「私」という人間として行動し、生活し、感情を持つことに、意味があるのだろうか。
「私がいる世界」と「私がいない世界」に何の違いがあるだろう。
今、私が消えて、影響を受ける人なんているだろうか。
親は悲しむかもしれない。あれでも血のつながった家族だし。それでも、時が経てば忘れるだろう。自分がいたことなんて忘れて、元通りに生活する。友人関係は、引きこもって二年でほとんど切れている。私が「死んだ」と聞いても、「ああ、あいつが」くらいにしか思わないだろう。
そんなものだ。私の存在なんて。
……死んでしまおうか。
幾度となく浮かべた考えがよぎる。ふっと現れた靄のような感情は、そこに意識を向ければ向けるほど、全身から力が抜けていく。虚脱感。
死。いなくなる。消える。五感が失われる。他者から認識されなくなる。
ずぶずぶと泥沼に沈んでいくような感じだ。このまま「私」を放棄してしまいたい。
そうすれば、楽になれる?
「死んで、しまおうか」
唇から音が漏れ、耳に入り、言葉として認識される。
そして。
……まただ。
私の瞳から涙が零れ落ちる――。
◇天使
「こいつも傲慢だなぁ……」
俺はずらりと並んだモニターのひとつを眺めながら腕を組んだ。背中を椅子の背もたれに預けると、ぎしっと音が鳴った。
「今度はどの子です?」
同僚の天使が俺の横からモニターを覗き込んできた。丸メガネがずり落ちる。
そのモニターには、山積みになった本の隙間で死んだように横たわっている少女が映っている。その少女の全身を灰色の靄が包んでいた。死臭という死の近い人間が纏うオーラである。その靄を睨み付けながら、俺は少女の特徴を述べていく。
「小中高と有名校に通い、大学受験でも第一志望に合格」
「おお、高学歴」
同僚が感嘆した声をあげるが、俺は同じトーンで続けた。
「大学に入ってすぐ休学し、現在引きこもり」
そう言い終わってから、俺はうーんと背伸びをした。右手首に巻いた金の輪っかが光る。
「最近多いんだよなあ、こういう奴」
「引きこもり、がですか?」
同僚の問いかけに、俺は首を横に振る。
「自分自身が嫌いな奴」
同時に、画面の下に、『私は、私が嫌いだ』と文字が映し出された。これは彼女の心の声。このモニターで、人間とそいつの感情をチェックできる。ずらりと並んだモニターは、全人類の一人一人を映し出している。
俺と同僚は「日本人」をチェックする担当だ。二十四時間休みなしに日本人一人一人の様子をチェックして、カルテを書いている。死臭が濃い人間、いわば死期が近い人間がいれば上に報告する。これが天使の仕事の一つだ。
「『日本人』担当になった宿命だけどさぁ……やっぱ多いわ。死期が近い奴」
「それは、高齢社会だからですか?」
「それもあっけど、それよりも多いのは自殺する奴らだよ」
自ら命を絶つ者。自ら死を手繰り寄せる者。
「こいつもさ、自分で死期を決めようとしてんだ」
俺は目の前のモニターを顎でしゃくって示した。
『誇れるものなんて一つもない』
モニターに映し出される文字に思わず目を細める。
「『日本人』は謙虚を美徳としていますからねえ」
同僚天使がのほほんと呟く。
「謙虚の意味をはき違えてんだよ」
俺の声は自然と粗ぶった。
「自分はまだまだだ。自分なんて意味ない。自分が嫌い。自分なんて。そんなのは謙虚じゃねえよ。自分を貶めるのが謙虚じゃねえよ」
モニターに、『……何で生きてるんだろう』という心の声が映し出される。背中を丸めて、縮こまった少女の死臭は更に濃くなっていく。
「……お前の命はお前だけのもんじゃない」
俺の呟きに呼応するように、モニターに表示される文字。
『私には、生きる価値などあるのだろうか』
「『あの人』が生かしてる時点で、価値なんか決まってんだよ」
何もしていなくても、たとえ、人を殺したとしても。生きているということは、生かされているということだ。その命を勝手に絶とうとすることは、勝手に終わらせようとすることは、
「傲慢でしかない」
そう言葉にして、俺はじっと少女を見つめた。
今にも消えてしまいそうに縮こまって、どうしていいか分からなくて、自分を消すことしかできないと思っている。
『死んでしまおうか』
その文字を見て俺は瞼を閉じた。自分の中に残っている記憶を手繰り寄せる。
『どうして死んでしまったのか』
「あの人」は死んだ俺に出会った瞬間そう言った。大粒の涙を流して。慟哭して。
『私は、もっとお前に生きていてほしかった……。生きていれば感じることができた幸せを味わってほしかった……』
その時、俺は後悔した。自ら命を絶ったことを。自分が死んで、「この人」はこんなに悲しんで、泣いている。自分の存在の大きさを、価値をその時知った。
そして、自分は自分のものだという考えは、あまりに傲慢だったのだと気づいた。
自分のものじゃない。「この人」のものでもあったのだ、と。
喜び、悲しみ、苦しみ、自分が生きて感じていたものの全てを、「この人」も一緒に味わっていた。そして、俺はその人生を自分一人で終わらせた。「この人」の人生を勝手に終わらせた。自分だけのものだと思って。
俺は伏せていた目を開いた。同時に、右手首の輪っかを見つめる。その下には、消えない傷が刻まれている。ナイフで切り刻んだ跡が。
そして、俺はモニターに目をやった。
少女が涙を流した。
「今からでも遅くないよな」
俺は椅子から腰を上げ、カルテを手に取った。
「どちらにいかれるのですか?」
「神さんのとこ。こいつの状況を報告してくる」
そう言うと、同僚天使はにっこり笑って、「いってらっしゃい」と手を振った。相変わらずのほほんとした奴だ。
ふわりと飛び立って上へ向かって飛ぶ。
少女の泣き顔を思いだしながら。
俺のような思いはするなよ。
勝手に死ぬなよ。
俺だって、お前のこと赤ちゃんの頃から見てきたんだからな。