小料理屋「鶴の恩返し」
文字数 1,982文字
いつものことながら、カラオケを断り、「ひとり二次会」へ。歩き慣れた細い道をくねくねと歩き、いつもの暖簾をくぐる。
「政樹さん、いらっしゃい」
「こんばんは」
「今日はどうします?」
「魚で」
「お腹の具合は?」
「結構、空いています」
職場の飲み会で料理が美味いと思ったことなど一度もない。どこへ行っても揚げ物ばかりで、若い頃から、量が多ければ満足という性質ではなく、仕方なく適当に食べつつ、頭の中では「ひとり二次会」を思い描いて二時間をやり過ごす。日本酒が好きなのだが、飲み放題の日本酒で酔うのはもったいないので、乾杯ビールの後は、ウーロン茶でお茶を濁す。だから、食べ足りないし、飲み足りない。
気ばかり遣う職場の飲み会は時間の無駄だが、いないと何を言われるか分からないから、参加している。根っからの小心者なのだ。
カウンターだけの小料理屋「鶴の恩返し」は、或る人に連れて来てもらった25歳の頃から10年近く通っている。
まずは、鯵のなめろう。お酒は山形。
大将は銘柄を口にしない。店の奥で徳利に注いで運んでくる。もちろん、一升瓶も見せてくれない。客はカウンターに置かれたメモに「山形」と書き、自分で感じた口当たりを書きつつ、推測した銘柄を書いて会計時に渡す。ひとつでも当たっていると、割引券がもらえる。客が「そろそろ」と言うまで、料理に合わせて徳利が現れる。日本酒は、料理に合わせて選ぶので、客によって違う。「鶴の恩返し」という店名は言い得て妙で、日本酒を注いでいるところは決して覗いてはいけないのだ。
僕は「山形」と書いて、「美味い」「とにかく美味い」と書く。飲んでいる割に、味はよく分からない。ただ、料理にはぴったりと合う。だから、この酒を家で飲んでも、全く違うものになってしまうだろう。大将が作ったなめろうと飲むから美味いのだ。常連客は日本酒通が多く、当てるのを楽しみに通っている人もいるけれど、僕は料理と日本酒のマリアージュを楽しみに通っている。調べて適当に書くが、当たったことは一度もない。
「はい、いらっしゃい」
「二人なんですけど」
「空いていますよ。ただ、こちらを読んでから決めてください」
大将は新規客に注意書きを渡す。
ひとつ、日本酒しかない
ふたつ、料理はお任せ(肉か魚の希望は聞く)
みっつ、日本酒もお任せ
※一料理、一合でお願いします
よっつ、苗字ではなく名前を教えて欲しい
いつつ、飲み終えた後は地下に案内するので、必ず立ち寄ること
※地下に何があるかは教えられない
二人は、ひそひそと話し合う。
「また、今度にします」
たいがい、新規客はそうなる。基本的に紹介客がほとんどだ。そして、一度来るとほぼ常連になる。
「ありがとうございます。ぜひ、またのお越しを」
同じやり取りを大将は何千回とやってきたはずだ。それでも、頑なに同じやり取りを繰り返すこだわりには頭が下がる。
珍しく天ぷらが出てきた。まぐろとぶり。抹茶塩で食べるらしい。
お酒は福井に変わる。
「この前、食べ歩きした時にぶりの天ぷらが美味しかったので、真似してみました。だんだん、ネタ切れしてくるもので勘弁して下さい」
大将は料理に色々と工夫することが好きなのだ。鯵のなめろうにしても、一緒に叩く味噌を変えてみたり、いつも何かしら一工夫している。
「抹茶塩は私の好みです」
ホタテの山椒炒めは京都。アクアパッツァは山梨。白米をもらう。
料理に合うから日本酒が進む。あっという間に僕の規定量である四合に達した。
「じゃあ、そろそろ」
「はい、ありがとうございます。では、どうぞ」
大将が扉を開けてくれる。こちらに地下へ続く階段が隠されている。この地下へと降りる階段が急で、飲み過ぎると危険なのだ。だから、四合で我慢するようにしている。
「政樹さん、いらっしゃい」
おかみさんが出迎えてくれる。今日は先客が三人いる。
みんな、気持ち良さそうにペットボトルを傾けている。
ここは天然水専門店なのだ。大将から、おかみさんに飲んだ日本酒が連絡され、それに合わせて、おかみさんがセレクトしてくれる。「鶴の恩返し」で日本酒を飲んだ客だけしか入れない。僕が通い続けているのは、実は天然水が飲みたいからなのかもしれない。おかみさんは、アクアソムリエマスターの資格を持っており、飲んだ日本酒に合わせて天然水を用意してくれている。ペットボトルだから飲み切れなかったらそのまま持ち帰ることもできる。
上喜元
梵
招徳
笹一
手元のメモを確認する。スマホで調べて書いたけれど、たぶん、今晩もハズレだろう。
ペットボトルが机に置かれる。今日は福岡の天然水。
まずは一口。
柔らかくて、優しい。料理と日本酒のマリアージュ。そして天然水とのマリアージュ。お酒を飲むからお水が美味しいのだ。また、日本酒が飲みたくなる。困ったものだ。
「政樹さん、いらっしゃい」
「こんばんは」
「今日はどうします?」
「魚で」
「お腹の具合は?」
「結構、空いています」
職場の飲み会で料理が美味いと思ったことなど一度もない。どこへ行っても揚げ物ばかりで、若い頃から、量が多ければ満足という性質ではなく、仕方なく適当に食べつつ、頭の中では「ひとり二次会」を思い描いて二時間をやり過ごす。日本酒が好きなのだが、飲み放題の日本酒で酔うのはもったいないので、乾杯ビールの後は、ウーロン茶でお茶を濁す。だから、食べ足りないし、飲み足りない。
気ばかり遣う職場の飲み会は時間の無駄だが、いないと何を言われるか分からないから、参加している。根っからの小心者なのだ。
カウンターだけの小料理屋「鶴の恩返し」は、或る人に連れて来てもらった25歳の頃から10年近く通っている。
まずは、鯵のなめろう。お酒は山形。
大将は銘柄を口にしない。店の奥で徳利に注いで運んでくる。もちろん、一升瓶も見せてくれない。客はカウンターに置かれたメモに「山形」と書き、自分で感じた口当たりを書きつつ、推測した銘柄を書いて会計時に渡す。ひとつでも当たっていると、割引券がもらえる。客が「そろそろ」と言うまで、料理に合わせて徳利が現れる。日本酒は、料理に合わせて選ぶので、客によって違う。「鶴の恩返し」という店名は言い得て妙で、日本酒を注いでいるところは決して覗いてはいけないのだ。
僕は「山形」と書いて、「美味い」「とにかく美味い」と書く。飲んでいる割に、味はよく分からない。ただ、料理にはぴったりと合う。だから、この酒を家で飲んでも、全く違うものになってしまうだろう。大将が作ったなめろうと飲むから美味いのだ。常連客は日本酒通が多く、当てるのを楽しみに通っている人もいるけれど、僕は料理と日本酒のマリアージュを楽しみに通っている。調べて適当に書くが、当たったことは一度もない。
「はい、いらっしゃい」
「二人なんですけど」
「空いていますよ。ただ、こちらを読んでから決めてください」
大将は新規客に注意書きを渡す。
ひとつ、日本酒しかない
ふたつ、料理はお任せ(肉か魚の希望は聞く)
みっつ、日本酒もお任せ
※一料理、一合でお願いします
よっつ、苗字ではなく名前を教えて欲しい
いつつ、飲み終えた後は地下に案内するので、必ず立ち寄ること
※地下に何があるかは教えられない
二人は、ひそひそと話し合う。
「また、今度にします」
たいがい、新規客はそうなる。基本的に紹介客がほとんどだ。そして、一度来るとほぼ常連になる。
「ありがとうございます。ぜひ、またのお越しを」
同じやり取りを大将は何千回とやってきたはずだ。それでも、頑なに同じやり取りを繰り返すこだわりには頭が下がる。
珍しく天ぷらが出てきた。まぐろとぶり。抹茶塩で食べるらしい。
お酒は福井に変わる。
「この前、食べ歩きした時にぶりの天ぷらが美味しかったので、真似してみました。だんだん、ネタ切れしてくるもので勘弁して下さい」
大将は料理に色々と工夫することが好きなのだ。鯵のなめろうにしても、一緒に叩く味噌を変えてみたり、いつも何かしら一工夫している。
「抹茶塩は私の好みです」
ホタテの山椒炒めは京都。アクアパッツァは山梨。白米をもらう。
料理に合うから日本酒が進む。あっという間に僕の規定量である四合に達した。
「じゃあ、そろそろ」
「はい、ありがとうございます。では、どうぞ」
大将が扉を開けてくれる。こちらに地下へ続く階段が隠されている。この地下へと降りる階段が急で、飲み過ぎると危険なのだ。だから、四合で我慢するようにしている。
「政樹さん、いらっしゃい」
おかみさんが出迎えてくれる。今日は先客が三人いる。
みんな、気持ち良さそうにペットボトルを傾けている。
ここは天然水専門店なのだ。大将から、おかみさんに飲んだ日本酒が連絡され、それに合わせて、おかみさんがセレクトしてくれる。「鶴の恩返し」で日本酒を飲んだ客だけしか入れない。僕が通い続けているのは、実は天然水が飲みたいからなのかもしれない。おかみさんは、アクアソムリエマスターの資格を持っており、飲んだ日本酒に合わせて天然水を用意してくれている。ペットボトルだから飲み切れなかったらそのまま持ち帰ることもできる。
上喜元
梵
招徳
笹一
手元のメモを確認する。スマホで調べて書いたけれど、たぶん、今晩もハズレだろう。
ペットボトルが机に置かれる。今日は福岡の天然水。
まずは一口。
柔らかくて、優しい。料理と日本酒のマリアージュ。そして天然水とのマリアージュ。お酒を飲むからお水が美味しいのだ。また、日本酒が飲みたくなる。困ったものだ。
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