完話

文字数 5,849文字

 ペンダントヘッドがなくなっているのに気がついたのは、近所のデパートのトイレの鏡の前で手を洗っている時だった。少し値が張ったが、一目惚れをして買ってしまった鳥の形をしたペンダントだった。しかもこの日初めて首からかけて出かけたのだ。もしかしたらさっき使ったトイレの中かもしれないと戻ってみたが見つからなかった。一体どこで失くしてしまったのだろう。思い切って買ったのにすぐに鳥は飛んで行ってしまって、まるで束の間の恋のようだと思った。真由美は悔しいというより、悲しく感じていた。地下の食料品売り場で用を済ませ、車の中にある可能性は高いと願うように駐車場へ戻り、エンジンをかける前に車内を探してみたが見つからなかった。

「残念だったね。結構気に入ってたんでしょ、ママ。」
おせんべいを頬張りながら娘のマイが言って立ち上がった姿を見て、真由美はあまり考えず、思わずこんな言葉を発してしまった。
「随分ダボダボのパンツね。足が短く見えるよ。」
「ええっ、今これ流行ってるんだよ。失礼だよ。」
「そういうの流行ってるの知ってるけど、そのパンツはすごくダボダボしてない?」
「そんなことない。」

 娘の気を悪くさせるつもりじゃなかった。ため息をついて時計を見るとまだ3時だった。明日は仕事だし、髪を切るなら今だ。行ってこう。ペンダントヘッドは失くすし、娘の気分を害してしまったし、何か気分転換が欲しかった。駅のそばのあの美容院に行ってみよう。帰りに買い物もできるしちょうどいい。初めて行く美容院で髪を切るのはちょっとした冒険のようなものだ。車に乗り込む前に、もう一度ペンダントヘッドがないか見てみたが見つからなかった。

「いらっしゃいませ。ご予約してらっしゃいますか?」
「予約もないし、今日が初めてなんですけど。どなたでもいいです。」
「それでは、あちらでお掛けになって、少々お待ちください。」

 言われるように椅子に座り、そこにあった雑誌を見ながら担当者を待った。「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーンの写真が目に入った。ついこの間ネットで観た映画だ。古い映画だったがオードリー・ヘップバーンはきれいで可愛かった。髪をバッサリ短くして、心も軽くしてローマを冒険したお姫様。髪を切ると心も軽くなるというのは、女性である真由美は想像ができるのだが、実際は経験したことがなかった。

「お待たせしました、須藤さま。」
 真由美は自分の名前を呼ばれて、雑誌から目を上げると、プラチナブロンドに染めたというより、脱色したような髪の色をした今時の20代の男性だった。眉毛も脱色していて、切長のでも細すぎない目をした子だった。
「近田です。今日はどうされますか?」
 鏡越しから話しかけられ、真由美はいつもより緊張している自分に気がついた。その緊張をほぐすつもりで、何故か先ほど見たオードリー・ヘップバーンの短い髪の毛のことを話した。「ああ、あの映画、名前だけは知ってるんだけれど、観たことないんですよねぇ」と言いながらポケットからスマホを取り出し近田は検索し始めた。「これですよね」と言ってスマホの中の写真を見て、真由美は言ったことを後悔し始めていた。「僕、きっと須藤さんは、ベリーショートにするなら、きっとこっちの方が似合うんじゃないかな」と言って次にジャン=リュック・ゴダールの映画「勝手にしやがれ」の中のジーン・セバーグの写真を真由美に見せた。
「顔の輪郭が、ジーン・セバーグに似てるし、きっとお似合いになると思いますよ。」
 いつもセミロングの長さにしているところ、このベリーショートにしたら大きな変化になる。自信がなかった。なのに、近田は真由美が本気にショートにしたいと思っているらしく、真由美のセミロングの髪を触りながらプロのヘアドレッサーとして考え始めていた。
「こんな短いの、似合うかなあ。」
「オードリー・ヘップバーンのより、こっちの方がしっくりいくと思いますよ。ここまで短くしなくても、ちょっと長めに切ることもできますけど。」
 細すぎない切長の目で鏡の自分を見つめる近田に意識してしまい、断る気にもなれず、断るのも嫌な気がして、思い切って鳥のように飛んでみたいような気持ちも湧き上がり、ジーン・セバーグのようなベリーショートにすることにした。シャンプーを女の子にしてもらってから、近田は淡々と容赦なく真由美の髪を切っていった。軽くブローをしてもらい、満足そうな顔をした近田の目を見て、真由美の体のどこかが騒いでいた。鏡に映ったショートヘアの自分の姿はまんざらでもなかった。意外と気に入った。新しい自分に出会ったような気がしてくる。ショートヘアの場合は1ヶ月に1回ぐらいカットした方がいいと近田に言われるまま、1ヶ月後の予約を近田指名で取った。その後、買い物をしながら、自分が新しくなった気持ちはどんどん増していった。1ヶ月後にまた近田に会えることも心を躍らせている要素だと無意識の中で気がついていた。

「ええ、すごくいいじゃん!」
 娘に言われて嬉しかった。中学生の息子は、学校から帰って来た時、母親の変身ぶりに驚いたようだったが、言葉は特になかった。夫も驚いていたが、「なかなかいいんじゃない?」と褒めてくれた。明日、職場のみんなは何て言うだろう。少しドキドキしていた。

 やはり、職場でも評判は良かった。「すごく軽い感じで、若返っちゃったみたいよ、須藤さん、」「思い切ったね、でもいいよ、」「私もショートにしてみようかな、」と開店前のパンの袋詰めをしていた仲間も真由美の変身姿で盛り上がった。パンを買いに来た客にも、いつもより明るく笑顔で対応しているような気がした。ベーカリーの中で焼けていくパンの香りの中で、時々近田の細すぎない切長の目が頭に浮かぶ。

 自転車に乗って帰る道、春は来始めてるのではないかという予感を感じた。冷たい空気の中にも、意地悪な冬の冷たさではなく、太陽の光は暖かく、よく見ると桜の木には芽が出始めていた。もうあっという間に春が来るだろう。後1ヶ月で近田に会える。マイは今日もあのダボダボパンツをはいていた。
「そのパンツ、思ったより悪くないね。マイに似合ってるよ。」
「でしょう!」
 目に見えるものが違って映り始めていることに真由美は気がついてなかった。しかし、体が軽く感じ、世の中が軽く感じてきていることはなんとなく気がついていた。

 待望のヘアカットの日が来た。真由美は着ていく洋服を慎重に選んでいた。美容院に行くと、笑顔で近田は迎えてくれた。まず鏡の前に座らされ、近田に髪を吟味させられる。「軽くトリムでいいでしょうか?」「そうね。すごく評判いいの。みんなにいいねって言われちゃった。」「それは良かったです。似合ってると思いますよ。」短いトリムの間、近田は自分の話をしてくれた。
「僕、明日から1週間、アメリカに行って来るんですよ。」
「ええっ!いいね。アメリカのどこ?」
「シカゴ。友人がシカゴでヘアドレッサーしてるんですよ。」
 胸騒ぎがする。
「近田さんもそのうち行きたいとか?」
「んん、まだわからないけれど、1度見にくればって言ってくれて。」
 女の子かな、その友達。体が硬直してきた。
「その友人は小学校の頃からアメリカにいて、英語ができるんですよ。で、僕も実は6年生の頃からアメリカに親の転勤で行っていて、その友達とは美容学校で知り合って、境遇が似てるんで仲良くなって。お前も来いよなんて言ってくれるんだけれど、まだ迷ってるんですよね。」
 どうも友人は男の子らしい。ホッとしている自分に少し不安を感じた。

 帰り道の運転中、自分が近田に対して恋心があるのがはっきりわかった。恋に落ちている。多分10歳以上も年下だろう若い男性に、今惹かれてるのだ。心は彼への想いで花が咲いてるようだ。どこにも行けない、進展のない、自分の心の中だけでの恋だろう。それでも楽しくは感じるのだが、どう対処していいのかわからず、胸が苦しくも感じる。そして、職場のベーカリーでは、気のせいかみんなのチームワークが明るくなったような気がする。
「あなた、髪を切ってから明るくなって素敵になったね。私が20若かったら、あなたにきっと恋してるよ。」
 よくパンを買いに来てくれる馴染みのおじいさんがレジで真由美にそう言った。聞いてびっくりした真由美は、吹き出してしまった。「まあ、ありがとうございます」と声を出して返事をしたが、自分には「私は今、若い男性に恋をしてるの」と答えた。「あのおじいさん、詩人なんだって、自称だけれど。でも大学で教鞭とっていたらしいよ」と同僚がおじいさんが店を出てから教えてくれた。近田くんの目にも、魅力的に映りたい。恋に落ちていると自覚した今、感情はどんどん上へと、月へと、宇宙へと登っていくようだった。

 待ちに待った密会のようなヘアカットの日、近田はいつものように爽やかな笑顔で真由美を迎えた。髪が少し短くなって、スタイルも微妙に変わっているのに気がついた。
「もしかしたら、髪型変えた?」
「あっ、すごい! ほんのちょっと切ってもらっただけなんだけれど、わかります? すごいなあ。」
 私は近田くんのことが少しわかるのよ、と自負した。今日はいつもシャンプーをしてくれる子が体調が悪くて休みなのでと言って、近田がシャンプーをすることになった。仰向きになって近田の指が頭をマッサージするようにシャンプーをしてくれると、ゾクゾクしてくる。真由美は何も言わずにされるがままでいた。「近田くん、こんなおばさんだけれど、近田くんのことを好きになってしまったのよ」と心の中で告白する。

 娘がまだ小学校に通っている時、一緒に学校の役員をやった仲間とは今も付き合いがある。それぞれの子供は高校へ通っているが、時々会ってはお茶を飲みながらおしゃべりをする仲になっていた。久しぶりに会おうと仲間のひとりがLINEで誘ってきた。たった3人の仲間なので集まりやすい。すぐに日取りが決まり、駅のそばの小さなレストランでランチを食べながらおしゃべりを楽しむことになった。ふたりはまだ真由美のベリーショートヘアを見ていない。どんな反応をするか楽しみだった。予想通り、驚き、「いいね」「すごく若く見えるよ」「私もヘアスタイル変えたいな」とエクサイティングな褒め言葉を連発してもらった。その最中「私は恋してるの」とどれだけ真由美はふたりに言いたかったか。ふたりからの言葉の熱りが冷めた頃、ひとりが、「ねえ、佐藤さん覚えてる? 佐藤あずさちゃんのお母さん、彼女ね、近々離婚するってこの間聞いたんだよね、人伝てなんだけれど」と言った。真由美は知らなかったので驚いた。佐藤あずさは中学の半ばまでマイとよく遊んでいたから、その母のことも身近な人物に感じていた。「なんかさ、年下の男性と浮気してたらしいんだよね。」浮気。年下と。胸がキュッと締まる感覚を覚えた。「実はさあ、」ともうひとりが話し始めた。「私は、この間佐藤さんちでちょっと話を伺ってたんだけれど、確かに浮気して、ご主人に知られて離婚沙汰になりそうだったんだけれど、ご主人が許したっていうか、過ちと認めるなら許すみたいな感じで、離婚にはいかなかったんだって。最初はね。でも、その浮気相手とは綺麗さっぱり別れたんだけれど、浮気したことで、本当の自分が見えてきたような気がして、やっぱり別れて新しい人生を進みたいみたいな気持ちが強まって、離婚することにしたんだって。」真由美ともうひとりは、それぞれの頭の中で今の情報を反芻していた。「新しい人生って何?」考えてたひとりの口から出た。「子育ても終わりみたいな感じで、自分って何だろうって思ったんじゃない?」「何だか、高校生の子みたいじゃない?」「まあね。でも、これだけ歳をとっていても、どこか私たちの中も高校生の子たちと変わらないところってあると思わない?」

 その日の夜、真由美は、確かに自分は浮かれていたかもしれない、高校生のマイと変わらない感情の在り方だったと思った。反省ではない。気がついたのだ。それでも、やっぱり近田のことを考えてしまう。浮気する可能性もあるかもしれないと考えると、背中がゾクゾクした。職場でも、家で家事をしていても、夜大きな寝息のようないびきのような音を立てている夫の横で寝ていても、近田の細すぎない切長の目を思い浮かべてしまう。この感情をどう扱っていいのか。

 次にヘアカットに行った時、近田は自分もシカゴに行って向こうの美容師の資格を取ってやってみると告白した。日本のよりずっと簡単だし、シカゴの友達ほど英語はできないけれど、話せないわけではないので、やってみたいという気持ちが固まってきて行く決心がついたと話した。青空だった心に雲がかかってきたようだ。行ってもらいたくない。しかし、自分は近田にとっていち顧客でしかないのだ。自分に代わって担当になる子を紹介してくれた。かわいい女の子だ。きっと彼女も上手に切ってくれるだろう。

 外はもうすぐ春というのに、今日は風が強く寒く感じた。まるで私の心みたい。どこか遠くへ旅でもしていたような気分である。足が地に着いていなかったのかもしれない。浮ついた気持ちで愚かだったか? そうは感じなかった。何もなかったとは言え、浮気だったのか? ある意味そうかもしれない。では、それを後悔しているかと聞かれれば、してないと答えるだろう。楽しかった。世の中が光っていた。いい経験だった。近田に恋をしてからの4ヶ月の間の感情がピンク色のクリスタルに固まって、10歳の真由美がワンピースのポケットに入れた。それは失くならない。時々ポケットを探って、触って見つめるのだ。

「ママ、ほら!」
 マイが真由美が帰ってくるのを首を長くして待っていたかのような勢いで、話しかけてきた。手にはあの失くした鳥のペンダントヘッドを持っている。
「ええっ、見つけたの? どこにあったの?」
「学校から帰ってから、友達にCD貸すんで、そのCD車の中だろうなって探していたら、CDの下にあった。」
「ありがとう。嬉しい。」
 どうしてそんなところにあったのか不思議だが、見つかったのだからよかった。鳥は戻ってきてくれた。私のポケットにはどれだけのクリスタルが溜まってるかな? 真由美は愛おしそうに鳥を撫でながら考えた。綺麗なクリスタルを集める人生は楽しい。
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