地獄谷

文字数 2,000文字

 ずっと下の方まで階段は急勾配に続いていて、両側には居酒屋さんらしき店が軒を連ねている。階段の中ほど、右側の店の前に、小さなフグと、緑色の巨大なマリモみたいなものがぶら下げられているのに目がとまった。細長い板が立てかけられていて、『大叫喚』と書いてある。面白い名前の店だな、と思って見ていると、たーんっ、と勢いよく戸が開き、真っ赤な羽織のようなものをまとった大男があらわれ、隼を見下ろしてきた。
 足がすくんで動けなくなっている隼のあごに男は手をかけ、上を向かせ、
「なんだ、うまそうな子だな。食っちまうぞ」
といった。
 隼が歯をガチガチ震わせ始めると、
「冗談だよ。なんだよお前裸足じゃないか。入れ。なんか食わせてやるよ」
と隼を持ち上げ、脇に抱えてしまった。
 店の中は薄暗く、細長い。右が一段高い座敷になっていて、衝立で仕切られている。立て膝で酒を飲んでいる男が、隼を見て、にやりと笑った。
 隼を座敷に放り投げると、大男は、石が積まれた台所のようなところに行き、鍋の蓋を開けて、
「その格好じゃ寒かったろ。あったまるものを食わせてやる」
といいながら、お椀に湯気の立つなにかを注いでくれた。
「うちみたいな夜明かしの店だと、これがよく出るんだよ」
 お椀から立ちのぼる匂いは普段給食で出るお味噌汁に似ているけれど、暗い店内でもわかるほど白色だ。舌を火傷しないよう、おそるおそる啜ると、濃厚な豆の味と、ほろほろとした食感が口の中に広がった。こんなお味噌汁飲んだことない。でも、とてもおいしい。それに、あったまる。
「⋯⋯おじさん、料理うまいんですね」
「おっ。ようやく喋ったな。それに世辞がうめえじゃないか」
 戸がまた開いて、外からふらふらの客が入ってきた。
 それは、隼の父親だった。
 隼は、また歯がガチガチ震え出すのをどうすることもできず、逃げなきゃ、どうしよう、と思いながら、衝立の影に隠れた。
 大男は、隼の父親をじっと見ていたが、
「お客さん。もう、だいぶ飲んでるようだねえ」
と言いながら、隼のいる座敷の奥から離れた、店の入り口すぐのところへ隼の父親を座らせた。
「酒くれ。肴はなにがあるんだ」
「そうね、酒は大極上、中汲、にごり酒。つけは、芋の煮ころばし、ショウサイフグのすっぽん煮、鮟鱇汁、から汁、ねぎま、山鯨。そんなとこかな」
「じゃあ、にごり酒と、すっぽん煮をくれ」
 大男は鍋から皿へと煮物を盛り、角盆にのせ、もう一方の手に細長いやかんみたいなものを持って、隼の父親のいるあたりに行き、
「おまちどう」
と置いた。
 ぶつぶつと独り言をいいながら、ずるずるお酒を飲んだりくちゃくちゃ食べたりしている音が、衝立の向こうから聞こえてくる。大男は台所に戻ると、またお皿に煮物を盛り、そーっと隼のいるところまで持ってきて、
「お前にも、大丈夫なところを食わせてやる」
と置いていった。
 口に含むと、甘さと醤油の味とショウガの味が絶妙に入り混じり、ふっくらしたフグの身の食感と相まって、とてもおいしい。それに、あったまる。
 父親の独り言がやがて聞こえなくなり、食べる音も聞こえなくなり、どうしたのかと隼が思い出した頃、
「へん。たわいもねえな」
と大男が鼻を鳴らした。
「もう大丈夫だぞ。隠れてねえで、出てこいよ。お前の親父の姿をみてやれ」
「どうして僕のお父さんだってわかったの?」
と言いながら隼が店の入り口あたりにいくと、小さな、蛍のような火の玉が浮いていた。
「こいつに出したすっぽん煮には、毒をちょっと混ぜてやったのさ」
 火の玉は、宙に浮きながらも、右に揺れ、左に揺れていた。まだ酔っ払ってるようだ。
「そのうち人間の姿に戻るから、鮟鱇のように吊るし切りにしてやるよ。もう大丈夫だから、お前は家におかえり」
「ありがとう、おじさん。でも、お父さんを連れて帰るよ」
「どうしてさ。お前にひどいことばかりする親父だろ? 嫌いだろ?」
「うん。嫌いだよ。でもさ」
と隼はうつむき、また顔を上げ、
「だから、まだ死んでほしくないんだ。この世で、もっと苦しんでもらわないと」
と言った。
 大男は隼をしばらく見つめたあと、大笑いし始めた。地面が震えるような笑い声だ。
「いい子だ。でも、気が変わったら、またおいで。これに親父さんを入れていくといい」
 そういって、さっきまでお酒の入っていた細長いやかんのような容器の蓋を開け、火の玉を入れて、隼に渡してくれた。
 店の外は弱い雨が降っていた。さっき階段を降りてきたはずなのに、ぬかるんだ泥だらけの坂になっている。顔を真っ赤にした背広姿の男が、坂をのぼろうとして足を滑らせ、そのまま下の方へと滑り落ちていった。坂の下の暗闇に、海がどこまでも広がっていて、ぼちゃん、と男が沈んでいくのが見えた。
「お父さん、命拾いしたね」
 隼は、父親の入った容器が雨に当たらないよう抱きかかえ、裸足で、ぬかるむ坂をゆっくりとのぼっていった。
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